第114話 アビーとピクニック
青空が広がる穏やかな午前、ヴェゼルは肩に背負った小さなリュックを何度も揺らしながら、今日の計画を確認していた。
急遽ヴァリーの勧めで実現したアビーとのピクニック。
普段は仕事や鍛錬や勉強などに追われ、互いにそこそこハードな日々を送る二人にとって、こうした穏やかなひとときは何よりの贅沢であり、同時に少しの緊張も伴う。
森の浅い道を選び、木漏れ日の下を歩く二人。アビーは思いのほか薬草や野花に詳しく、道端の小さな花や葉を摘みながら微笑みを浮かべる。
「これは鎮静効果のある葉。煎じると疲労を軽減できるのよ」
ヴェゼルは感心しながらも、そっと手にした花をアビーの髪に飾るように置き、小さな冠を作る。
「……似合うな」
アビーは頬を赤らめ、照れくさそうに笑う。
「え、えへへ……ありがとう、ヴェゼル」
二人の手は自然に触れ合い、互いの距離を確かめ合うように握られる。森の緑の匂いと柔らかな日差しが包み、心地よい沈黙の時間が続いた。
だが、森の安全を完全に保証できるわけではない。
二人には気づかれないように、グロム、トレノ、そしてアビーの従者であるキックスが後方で目を光らせていた。
木々の葉が風に揺れる音、小川のせせらぎ、遠くで鳥が鳴く音。それらの安らぎの音も、今日ばかりは緊張の糸を絶えず張り詰めさせる音に変わっていた。
そろそろ昼時。二人は川縁に腰を下ろし、セリカ特製のサンドイッチが入ったバスケットを広げる。アビーは期待と少しの緊張が混じった笑顔でヴェゼルを見つめた。
「美味しそう……」
「じゃあ、食べようか」
ヴェゼルが微笑むと、アビーも小さく頷き、そっと手を伸ばしてサンドイッチを取る。
だが、その穏やかな空気は突如として破られる。森の奥から低いうなり声が響き、濃い茶色の毛皮に覆われた巨大なグラップラーベアが姿を現したのだ。
グラップラーベアはあからさまに二人を狙っている。
アビーの体は一瞬硬直する。
しかし、ヴェゼルの脳内では、あいつがどこか間抜けな声で歌っていた。「ある日森の中、くまさんに出会っ……」
「わっ……! なに、あれ!」
初めての本物の魔物との戦闘にアビーの声が小刻みに震える。
ヴェゼルは念の為、バッグから収納箱を取り出し左手に握りしめる。
「落ち着け、アビー! 僕がいるから!」
ヴェゼルはアビーの前に回り込み、両手を広げて盾のように立った。
「アビーは魔法を使え!」
魔物が前足を踏み出した瞬間、ヴェゼルは足元の土を瞬時に収納し、障害物としてグラップラーベアの進行を妨げる。魔物はつまずき、重心を崩す。
「い、今だ……!」
アビーは必死に火の魔法を放つが、緊張で狙いを外してしまう。火はかすかに枝に当たり、煙だけを立ち上らせた。
「落ち着いて、次は冷静に……!」
ヴェゼルは心の中で強く念じ、一度収納した土を再び出してグラップラーベアの目の前に叩きつける。視界を奪われた魔物は慌てて暴れ、アビーはさらに動揺する。
「ごめんなさい……私……!」
アビーの声は震え、両手もがくが思うように動かない。
「アビーは大丈夫だ、俺がいる。焦らないで」
ヴェゼルは冷静を装うが、心臓は高鳴る。アビーの安全を守る責任感が、全身に緊張を走らせる。
二度目の火の魔法も肩にかすり、かすかな裂傷を生じる程度だった。
アビーの顔は青ざめ、息は荒く、手は小刻みに震える。
魔物は視界を取り戻し、アビーに向かって体当たりを仕掛けようとする。
アビーは恐怖で動けず、ただ立ち尽くすのみ。「う、うわあ……!」
ヴェゼルは瞬時に判断する。「足を封じる!」
グラップラーベアの前足を瞬時に収納し、横倒しにしてアビーの脇に倒す。アビーはかろうじて回避し、胸の奥で鼓動が速まる。
「ヴェゼル……ありがとう……」
小さな声がこぼれる。
「まだだ……!」
ヴェゼルは魔物の心臓を収納する。
その瞬間、グラップラーベアの胸が陥没し、口から血を噴き出す。
血がアビーの顔に飛び散り、彼女は恐怖と衝撃で嘔吐し、膝をついた。
「……大丈夫、僕がいるよ……」
ヴェゼルは優しくアビーを抱き上げ、体を落ち着かせようとする。
「怖かったね、でももう安全だよ」
遠くから護衛のグロム、トレノ、キックスが駆けつけ、森の中の混乱を収める。
アビーは放心状態のまま、ヴェゼルの背におぶられ、涙で顔を濡らしている。
「もう、安心して……」
ヴェゼルは優しく頭を撫で、アビーは小さく頷く。
「……ありがとう、ヴェゼル……」
森を抜ける頃、二人の間には言葉にしない信頼と絆が芽生えていた。恐怖を乗り越え、互いを守り合った経験が、二人の心に深く刻まれる特別な時間となったのだった。
グラップラーベアとの遭遇は、アビーにとってあまりに衝撃的だった。
血走った目、振り上げられた爪、吹き荒れるような咆哮。
結局、何もできずに立ちすくみ、ただヴェゼルの戦う背中を見ているしかなかった。
戦いが終わったあと、力が抜けたアビーはヴェゼルの背におぶわれていた。森の小道を揺れながら進むうちに、彼女はぽつりと呟いた。
「……わたし……怖くて、何もできなかった……」
小さな声がヴェゼルの耳に届く。震えていて、弱音を隠そうともしない。
少し間を置いてから、さらに恥ずかしそうに続けた。
「それに……魔物の血を見ただけで……吐いちゃったし……」
その言葉に、ヴェゼルは思わず苦笑した。
「うん、でもそれは普通だよ」彼は落ち着いた声で答える。
「僕だって初めて魔物に遭遇して倒した時は、怖くて仕方なかった。戦いのあと、同じように吐いたよ」
アビーの肩がぴくりと動き、背中越しに小さな声が返ってくる。
「……ほんとう?」
「ほんとうさ。誰だって最初はそうなる。何度か戦えば、きっと慣れてくるよ」
そして、少し間を置いてから冗談めかして言った。
「それにね、今は気持ち悪いかもしれないけど……グラップラーベアって、美味しいらしいんだよ?」
「ふふっ……」
アビーはつい吹き出してしまった。恐怖で張りつめていた心が、少しだけ和らいでいく。
やがて、彼女は頬を赤くしながら小さな声で言った。
「……ヴェゼル、さっき本当に頼もしかった。ありがとう」
その言葉とともに、アビーは彼の頬にそっとキスをした。
ほんの一瞬の温もり。けれど同時に、ヴェゼルは気づいてしまう。
――なんか、ちょっとアレの匂いが混じってる感じがする……。
もちろん、そんなことは口が裂けても言えない。
ヴェゼルは必死に平静を装った。
こうして二人は森を抜けて歩いていった。
戦いの緊張と笑いと、ちょっとした匂いを胸に残しながら。




