第110話 ヴァリーとヴェゼルのデートの日 その後のわちゃわちゃ
その日、ヴァリーは満ち足りた表情で領館の門をくぐった。
ヴェゼルと手を繋いで帰ってくるだけのことなのに、彼女の顔からは「世界で一番幸せです」と書いてあるかのような光が漏れ出ていた。
……が、その様子をじっと窓の隙間から見ている小さな観察者がいた。
一階の出入り口の隣の窓辺から、じっと、にやりと口角を吊り上げながら覗いていたのはアクティである。
その気配に気づいたヴェゼルは「ん?」と視線を上げかけたが、ヴァリーが慌てて引っ張るので、そのまま館の扉をくぐった。
玄関に入るやいなや、アクティが猫のように飛びついてきた。
「おにーさまっ! にごうさんとのでーとはどうでした?」
満面の笑みで放たれたその一言に、ヴァリーのこめかみがピクンと跳ねた。
「に、二号さんじゃないもん! 私は婚約者なの! 婚・約・者!!」
必死に声を張り上げて、目の前の三歳児に力いっぱい反論するヴァリー。だが、幸せオーラが全身から溢れ出ているせいで、まったく迫力はない。
「ふーん……でも、かおがにやにやしすぎてますね?」
アクティは細い目でじろりと観察し、すぐに核心を突いた。
「ねえ、ちゅーした?」
瞬間、ヴァリーの顔が炎のように真っ赤に染まった。両手で頬を押さえ、文字通り「もじもじ」と体を揺らす。
その反応を見たアクティの目がギラリと光る。
「……なるほど。おにーさまは、てがはやすぎ!」
そして次の瞬間、全力の肺活量で叫んだ。
「おかーさまぁぁぁー!! おにーさまがヴァリーさんとちゅーしたってーー!!!」
廊下や部屋に控えていた執事、侍女、従者たちの耳に、見事に響き渡った。
「っ!?」
ヴァリーは悲鳴を上げてしゃがみ込み、頭を抱えた。真っ赤に染まった顔は今にも爆発しそうである。
一方、ヴェゼルは「いや、その……」と釈明の言葉を探したが、使用人たちが「へぇ……」という目で見ているのを感じ、余計に居心地が悪くなった。
――その夜。
食卓には、フリード、オデッセイ、アクティ、グロウ、ヴァリー、そしてサクラが勢揃いしていた。
「ふはは! 賑やかな食卓はいいもんだな!」
フリードが上機嫌で笑うと、オデッセイも「本当にそうね」と頷いた。
食卓の雰囲気は温かく、どこか新婚旅行帰りの一家のようですらあった。
そんな時、執事のカムリが恭しく手紙を差し出す。
「ヴェゼル様、急ぎのお知らせでございます」
開封したヴェゼルの顔がぱっと明るくなる。
「明日、バーグマンさんとアビーがホーネット村に来るって!」
「えぇっ!」
アクティがにやにやとヴァリーを横目で見た。
「ついに、らいばるがとうじょうね、ヴァリーさん」
挑発的な口調だったが、ヴァリーは少しも怯まなかった。
「楽しみです! アビーさんとまたお話できるなんて!」
無邪気にそう答えるヴァリーの真剣な笑顔に、アクティは「ちっ」と舌打ちした。
――この人、ぜんぜん警戒してない……。
アクティの心に、邪悪な策を練る黒い炎が静かに燃え上がった。
「……なにか、さくせんをかんがえないと」
不敵な笑みを浮かべる三歳児。その顔は妙に老獪だ。どこぞの軍師よりも老獪だ。
一方、オデッセイとヴェゼルは顔を見合わせて笑った。
「本当に、どうでもいい日常ね」
「うん。でも……こういう時間が、一番幸せかも」
フリードは肉を頬張りながら、うんうんとうなずき、目頭を押さえていた。
「……俺は幸せだ……」
食卓は笑いと小競り合いで、賑やかに過ぎていった。
――夜。
ヴェゼルの部屋には、いつものようにサクラがいた。
ヴェゼルの小さなベッドの上で、ちょこんと枕を占領している。
本当は収納箱にきちんとした部屋があるんだが。
「ねえ、ヴェゼル」
眠る前、サクラが急に真剣な声で呼びかけた。
「目をつぶって」
「え、なんで?」
「いいから!」
訝しみつつも、ヴェゼルは素直に目を閉じた。
その瞬間、柔らかで小さな感触が唇に触れる。
「――っ!」
驚いて目を開けると、目の前でサクラが顔を真っ赤にしていた。
「い、今の……」
「チュー」
妖精は小さな手で口を押さえながら、得意げに笑った。
「でも、言っておくけど……ヴェゼルが寝てるときに、もう何度もしてるから」
「えええええええっ!?」
部屋中に絶叫が響き渡った。
「な、なんでそんなことを……!」
「ふふん。だって私、ヴェゼルの“妖精第一夫人”だもん」
そう言ってサクラは小さく舌を出し、布団にもぐり込んだ。頬は赤いが、その目は妙に勝ち誇っている。
ヴェゼルは天井を仰ぎ、両手で顔を覆った。
「……なんなんだよ、もう……」
疲れ果てた声を漏らしつつも、心の奥がほんのり温かくなる。
――こうして、ホーネット村の一日は、騒がしくも幸福な余韻に包まれて終わっていった。




