第109話 ヴァリーとヴェゼルのデートの日
ヴァリーが領館の離れに住むようになってから、まだ数日しか経っていなかった。
新しい部屋、新しい環境、そして何よりも憧れていたヴェゼルと共に過ごす日々。
それは彼女にとって夢のような時間であったが、現実にはヴェゼルは忙しく、朝食と夕食の時に少し言葉を交わせるくらいで、一日のほとんどは顔を合わせる暇もない。ヴァリーにとっては物足りなく、心のどこかで拗ねた気持ちも膨らみつつあった。
しかし、ようやく嵐のような日々が過ぎ去った。
帝国軍とベントレー公爵が長い滞在を終え、領館を後にしたのだ。
その瞬間、館全体がようやく深呼吸を取り戻したように静まり返った。誰もが疲弊しており、ようやく訪れた平穏に感謝しつつ、心と身体を休める時間を得たのである。
ヴァリーにとっても待ち望んだ時だった。なにより、ヴェゼルと過ごす時間がようやく持てるのではないか、という期待が胸いっぱいに広がっていた。
その前、ヴァリーは公爵から一度帝都に戻るように勧められていた。
魔法省の実質的なトップであるブガッティ第一席に、戦の顛末や状況を直接報告した方がいいのではないか――しごく真っ当な提案である。
しかしヴァリーの反応は、誰も予想していなかった方向にぶっ飛んでいた。
「いやですっ! ぜっったいに嫌ですぅぅぅぅーーーっ!」
その瞬間、彼女は椅子を蹴飛ばし、床にダイブした。大の字になったかと思えば、バタバタと手足を振り回し、挙句の果てには床板に頬を押しつけてゴロゴロ転がる。
「私はヴェゼル様と一緒にいるんですぅー! 帝都なんかに帰るくらいなら、このまま石になってやるぅー!」
その声は館中に響き渡り、使用人たちまで様子を見に集まってきた。
極めつけは這いずりながら公爵の足にしがみついたことだった。
「公爵さまぁぁぁ! お願いですぅぅ! 私をこのまま置いていってくださぁぁい!」
目に涙を浮かべ、鼻をすすりながら必死にしがみつくその姿に、帝国軍の兵士たちは凍りついた。いつもクールで尊敬していた「氷の魔導士ヴァリー」の威厳は、今や粉々に砕け散っている。
「……あ、あのヴァリー様が……?」
「俺たちが命を賭けて仕えたあの背中は……幻だったのか……」
兵士たちは項垂れ、魂が抜けたような顔をしていた。
公爵は額に手を当て、大きなため息をひとつ。
「……わかった。わかったから、やめなさい。とにかく……うるさい」
呆れ果ててそう告げると、ヴァリーは瞬時に涙を拭い、満面の笑みを浮かべて立ち上がった。
「やったぁぁぁぁ! ありがとうございます、ベントレー公爵さまっ!」
まるで駄々をこねて駄菓子を買ってもらえた子供そのもの。
その場にいた全員が、心の中で「こんな人だったのか……」と無言でうなずき合ったのだった。
そして、ヴァリーは勝ち取ったのだ。ヴェゼルの傍にいる権利を。
そして、その勝ち取った時間をどう使うか、彼女は決めていた。
次の日の朝食後、ヴェゼルが席を立とうとした瞬間だった。ヴァリーは反射的に彼の腕を掴んだ。
掴んだというより、もはや捕まえた、という表現の方が近い。
物理的にその小さな身体を抱え込むようにして、自分の前から逃がさないという必死の気迫があった。
「……ちょっと、どこへ行くのですか?」
「どこって……今日はやることがあるんだ。領内の――」
「ダメです。今日は私と出かけるのです!」
「え……?」
「デートです! デートをしましょう!」
ヴェゼルは一瞬、呆気に取られた。目の前のヴァリーは真剣そのもので、しかも潤んだ瞳をこちらに向けている。
その迫力は昨夜の駄々こねを想起させるに十分であり、下手に断ればまた床を転がり叫ぶのではないかという悪い予感が胸をよぎった。
「いや、その……他にやることが――」
「……っ!」
ヴァリーが声にならない声をあげ、わざとらしく目尻をぬぐう仕草をする。それだけで、ヴェゼルは昨夜の記憶を思い出した。床に転がり、髪を振り乱して泣き叫ぶヴァリーの姿。
あの光景は一生忘れられそうにない。そして同じ惨劇を繰り返すわけにはいかない。
「……わかったよ。行けばいいんだろう?」
「はいっ! 嬉しいです!」
ヴァリーの顔は一瞬で花が咲いたように明るくなった。彼女は勢いよく席を立ち、ヴェゼルの手を取り、ぐいぐいと引っ張った。その様子を見ていた母オデッセイも、父バーグマンも、家臣たちも、誰一人として止めなかった。
むしろ「まぁ、行ってらっしゃい」と生暖かい笑みを浮かべて見送ったのである。その空気に、ヴェゼルは一瞬、背中に冷や汗を感じた。
外に出たヴァリーは、嬉しさを隠せず、頬を真っ赤に染めながらヴェゼルに言った。
「……あの、腕を組んで歩きたいです!」
しかし、その言葉にヴェゼルは戸惑った。ヴァリーの身長は170センチ以上あり、女性としても立派すぎるほど立派だ。それに比べ、ヴェゼルはまだようやく120センチに届くかどうかというところ。肩の高さも全く合わない。どう足掻いてもまともに腕を組むことなどできないのだ。
「……無理じゃない?」
「そ、そんな……! じゃあ……じゃあ……お姫様抱っこはどうですか!」
ヴァリーの顔は本気そのものだった。だが、想像してみれば無理がある。小さな少年を長身の女性が抱える姿は、どう見ても「逆」だ。恋人らしさは一切なく、ただの滑稽な絵面にしかならない。
「いや、それは……やめておこうよ」
「……しょ、しょうがないですね」
しゅんと肩を落としたヴァリーだったが、すぐに顔を上げて、今度はきっぱりと言った。
「じゃあ、手を繋ぎましょう!」
「それなら……まぁ」
「でも、普通の繋ぎ方は嫌です! 絶対に恋人繋ぎです!」
ヴェゼルは思わずため息をついた。そして、いつも握っている箱をバッグにしまう。
ヴァリーが再び泣きそうな顔をするのを見て、仕方なくその手を取った。柔らかく、しかし力強く絡んでくる指。ヴァリーの顔は熱で赤く染まり、夢を見ているように幸せそうに笑っていた。
二人で村の大通りを歩いていると、道端にいたお婆さんが声をかけてきた。
「あらまぁ、親子揃ってお買い物かい?」
その言葉に、ヴァリーは凍りついた。そして次の瞬間、彼女は全力で否定した。
「ち、違いますっ! 婚約者です! 婚約者なんです!」
だが、お婆さんはにこにこと笑いながら「あらあら」と言うばかりで、信じる様子はなかった。ヴァリーは項垂れ、地面に穴があれば入りたいと願うほど恥ずかしさに身を焼かれた。ヴェゼルは横で苦笑するしかなかった。
村のショッピングモール?では、雑貨屋や服屋を巡った。ヴァリーは楽しそうに次々と品を手に取り、あれもこれもとヴェゼルに見せた。結局、二人はお揃いの腕輪を買うことにした。
シンプルながら細工が美しく、男女がつけても違和感のないデザインだった。手に嵌め合った瞬間、ヴァリーは頬を紅潮させ、幸せそうに微笑んだ。
そのとき、ヴェゼルのポケットからもぞもぞと動くものがあった。小さな妖精サクラだった。彼女は我慢できなかったのか、顔を出そうとしていた。
しかし人目の多い街中でそれはまずい。ヴェゼルは慌ててポケットを押さえ、「あとでな」と小声で諭した。
結局、三人は村で唯一の喫茶店に入り、個室を取った。そこでようやくサクラが姿を現した。店員が運んできたパンケーキのセットは三つ。店員は一瞬不思議そうな顔をしたが、何も言わず退出した。その直後、小さな身体をひょいと飛び出させ、嬉しそうに羽ばたいた。
「わぁー! 甘い匂い! パンケーキ大好き!」
サクラは小さな身体で大きなパンケーキにかぶりつき、もりもりと食べ始めた。その様子に、ヴェゼルもヴァリーも思わず笑みをこぼした。
三人で並んで食べる時間は、まるで家族のような、温かなひとときだった。サクラは満腹になると、ふわりと宙に浮きながら「お腹いっぱい……」と呟き、そのままヴェゼルの肩に寄りかかって眠ってしまった。
静かな時間の中で、ヴェゼルはふと思い出した。戦争の前に、ヴァリーが「ご褒美をください」とねだっていたことを。
「そういえば……ご褒美、まだだったですよね。何が欲しいの?」
ヴァリーは一瞬、真剣な顔になり、そして小さな声で答えた。
「……ほっぺに、チューしてほしいです」
ヴェゼルは少し照れながらも、頷いた。身を寄せ、ヴァリーの頬に唇を近づけたその瞬間。ヴァリーは確信犯的に顔を正面に向け、唇と唇が触れ合った。
時間が止まったような感覚。
ヴァリーの目は潤み、頬は真っ赤に染まり、震えるほどの喜びに満ちていた。その表情を見た瞬間、ヴェゼルは年上ながらも「かわいい」と心から思ってしまった。まあ、元は、55歳のオヤジだったしな。
「……帰ろうか。手を繋いで」
ヴェゼルがそう言うと、ヴァリーは泣きそうなほど嬉しそうに笑い、恋人繋ぎのまま、その小さな手を握り返した。
夕陽に染まる道を二人で歩く姿は、まるで絵画のように美しく、幸せそのものだった。




