第108話 そして日常に
オデッセイは、まだ残る燭の揺らめきのなかでヴェゼルをじっと見つめた。
顔には心配と小さな怒りと戸惑いが混じっている。
あのとき――ヴェゼルが公爵の前で口にしたこと、火薬の製造や、自身の収納魔法の特異性、そして転生者のことを匂わせたことを、オデッセイははっきりと言葉にした。
「……ヴェゼル。なぜ、あそこまで公爵様に話したの? サクラのことも、火薬の危険も。ましてあの収納魔法まで見せるなんて。下手をすれば取り込まれたり、秘密を奪われたりしかねないのよ」
ヴェゼルはしばし黙り、母の眼差しを正面から受け止めた。
「お母さん。僕は、公爵を“信用”したんじゃない。“利用”したんだ」
オデッセイは眉を寄せる。息子の口調は幼子のものではなく、ひどく冷静で計算された響きを帯びていた。
「公爵様は理性ある人だ。お母さんと仲の良かった皇妃様のお父様だから、とても繋がりも深い。もし帝国の上層部が僕やビック領を疑って、力ずくで絡め取ろうとしたとき、公爵様の理解と庇護があれば、大きな抑止になる。……それに、力づくで迫る輩ほど、こちらの力を軽んじる。でも、賢い者は“恐怖”を知ったときこそ身を引く。……だからこそ、火薬や収納魔法の一端をあえて見せたんだ。秘密を知ってしまった以上、公爵様は“僕を守らなければならない立場”になった。庇護を拒めば、自分や帝国が危うくなる――そういう“恐怖”を刻んでおいた」
オデッセイは言葉を失った。ヴェゼルは続ける。
「お母さん、僕らはもう目立ってしまった。玩具も、酒も、シロップや白磁も今回の戦争の結果も……全部が注目を集めている。この先、欲に駆られた貴族たちが必ず群がってくる。その時、ただ拒めば敵を増やすだけだよ。でも、公爵のように理性を持つ人をこちら側に取り込めば、“盾”になってくれる可能性がある」
彼は小さく息をつき、幼い顔に似合わぬ鋭さを滲ませた。
「恐怖を与えるのは敵を作る危険もある。けど、時に“最大の抑止”になる。秘密を奪われる不安に怯えるより、いっそ秘密を握らせて、その重さごと守らせる方が――僕らにとって安全なんだ」
その答えを聞いて、オデッセイは思わず胸の奥がぞくりとした。
自分の息子が、ただ賢いだけでなく、人を巻き込みながら生き残る道を選んでいる――その事実を強く思い知らされるのだった。
「……そうねぇ」
オデッセイは小さく笑った。
「あなたがそこまで考えているなら、私も信じる。もうこうなったら、地獄の底でも、付き合うしかないものね」
フリードはそれを聞くと、いきなり大きな声で笑い出した。豪快で、誰の心も温めるような笑いだ。
「おいおい、父親の俺がヴェゼルの後ろを付いて行くなんて情けない話だが――いいだろう。お前がどこへ行こうとも、俺はくっついて行く。腕一本でも役に立てたらそれでいい。はっはっは!」
その場の空気が一気に和んだ。
オデッセイの唇がもう一度緩み、ヴェゼルは胸の奥でほっと息をついた。
外の世界は恐ろしく過酷だが、ここには絶対に信じてくれる家族がいる——という実感が、彼の内側を満たした。
そこに、アクティがこの話を聞いていたのか、小走りに駆け込んできて、満面の笑みで手を広げた。
「ねえねえ、おにーさま! どこへもいかないでね?」とすがりつく。
ヴェゼルは両手でアクティを抱きしめ、すぐに笑った。
そのとき、胸ポケットのあたりが、モゾモゾと動いた。
みんなの視線がそちらに向く。ポケットからちょこんと顔を出したのは、サクラである。
ちっちゃな目をきらりと輝かせて、得意げに宣言した。
「私もいるけどね。そろそろ箱もポケットも窮屈なのよ。名実ともに、私がヴェゼルの妖精第一夫人だから!」
その台詞に、ヴェゼルは思わず笑いをこらえた。オデッセイは苦笑し、フリードはまた大笑いした。
家族の喧騒と笑い声が、重苦しい世界の外側にいるような安堵を部屋に満たす。だが、その和やかさの背後には、冷たい現実が冷静に横たわっていることも、みなは知っていた。
ヴェゼルはそっと目を閉じ、家族ひとりひとりの顔を思い浮かべる。ここにいる全員が、自分の選んだ道を信じ、支えてくれる。だからこそ、彼はさらなる覚悟を固められるのだと。
「ありがとう、みんな」小声で呟くと、ヴェゼルはポケットの中のサクラをそっと撫でた。
「僕は、まだまだやることがある。けど、みんながいれば大丈夫だ。何がきても、守るよ」
オデッセイはその肩に手を置き、力強くうなずいた。「ならば私も、あなたと共に。どこまでも行くわ」
フリードは豪快に拳を叩き、爪先で床を鳴らした。「行くぞ。俺たちの領だ。守るのは当たり前だ!」
アクティが小さく「うん」と答え、サクラが「甘いものはまだ?」と不遜にねだる。
緊張と不安の渦の中で、家族の小さな日常が息づく。
ヴェゼルはその温かさを胸に、次に来る嵐へ向けて、静かに身支度を整え始めた。




