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第11話 鑑定の儀を受けに辺境伯の城へ-5

夜が明ける前の静寂は、まるでこの世界が俺たちを待っていたかのように、しんとした空気に包まれていた。


まだ夢の底に沈んだままの意識は、鳥のさえずりや、窓の外から差し込む柔らかな朝の光でゆっくりと浮かび上がる。


「……う、ん……」


もぞもぞと体を動かすと、硬すぎず柔らかすぎない寝台の感触が心地よく、村で寝ていた藁布団とは比べものにならない。


布団に体を沈めるたび、身体全体がやさしく包み込まれる感覚に、心が少しほぐれる。


窓の外に目を向けると、まだ朝靄の残る城下町が広がっていた。石畳の道を掃く使用人、パンを焼く香りを漂わせる商人、荷車を押す行商人たち。


朝の光に照らされ、屋根瓦が淡い橙色に輝く。毎日の光景とはいえ、異世界で見たこの風景は、どこか神秘的で非日常の香りが漂っていた。



やがて、父フリードの低い声が聞こえる。


「おや、もう起きたか」


振り返ると、すでに父は寝台の上で背筋を伸ばしていた。鎧の一部を朝から身につけ、いつもの戦闘的な緊張感を漂わせている。


「ヴェゼル、顔を洗ってこい。眠気を残したままでは見苦しいぞ」


その一言に、背筋がしゃんと伸びる。


母オデッセイはすでに支度を整え、優しい香草の香りを漂わせながら俺たちを見守る。


「朝食がもうすぐ運ばれるわ。その前に身支度を整えましょうね」


母の笑みを見ると、胸の奥に自然と勇気が湧いてくる。今日はいよいよ辺境伯の城に向かう日。


未知への期待と不安が入り混じり、心臓が早鐘を打つ。


宿の使用人たちが静かに朝食を運んできた。木製のトレーに載せられたのは、湯気の立つパン、ハーブをまぶしたオムレツ、煮込み野菜のスープ、そして淡い色合いの果物。


使用人の若い女性は深々と頭を下げ、手際よく皿を並べる。彼女の動きは慣れた手つきで、朝の慌ただしさの中でも優雅さを失わない。


小さな手でパンをつかむ。香ばしい匂いが鼻をくすぐり、眠気を一気に吹き飛ばす。


食事を終え、使用人が食器を片付ける間、俺たちは窓から外の景色を眺めていた。


朝の光に照らされる城下町は、まるで絵画のように整然としており、その景色を前にすると、異世界に転生した現実感がより一層強くなる。



馬車の準備が整い、御者が鞭を軽く振るうと、俺たちは順に乗り込む。アビーは窓際に座り、外の景色に目を輝かせる。


馬車の床板はしっかりとした作りで、揺れる車内でも安定感がある。



馬車はゆっくりと石畳の道を進む。城下町の喧騒が徐々に遠ざかり、周囲には広大な農地が広がる。


遠くに連なる山々は朝日に照らされ、淡い黄金色に輝く。アビーは窓から顔を出し、「ヴェゼル、街が小さくなっていくわ」と声を上げる。俺は窓の外を眺め、小さくつぶやく。


「……本当に、ここまで来たんだな」


森を抜け、丘を越え、やがて城の石壁が視界に入る。夕方の光が石の壁に反射し、巨大な城塞が燃えているかのように輝く。


馬車は城門前で止まり、鋭い槍を持った衛兵が直立不動で迎える。


御者が家の紋章を掲げると、城門がゆっくりと開き、重々しい音が響く。俺の心臓はさらに高鳴る。


馬車は静かに城内へ進み、中庭の一角で止まる。父フリードとバーグマンが馬車から降り、俺とアビーを支えながら地面に降ろす。




待合室に案内されると、そこにはすでに多くの貴族やその従者が待機していた。


マントを羽織る貴族、煌びやかなドレスの婦人、衛兵たちの規律正しい姿。


壁には精巧な紋章や魔法陣が描かれ、燭台の柔らかな光が石造りの室内を温かく照らす。暖炉の炎が揺れ、微かな香木の香りが漂い、静かだが張り詰めた空気が漂う。


従者たちは各自の仕事を静かにこなし、視線を配りつつも、待合室の空気に緊張を保っている。


うちの家族達も端の方の席に腰を下ろし、背中を丸めつつ周囲を観察する。アビーも小さな手をそわそわと動かしながら、落ち着こうと必死だった。


二人だけの沈黙は、ただの緊張ではなく、互いに心を支え合う小さな連帯感のようでもあった。


奥の重厚な扉の向こうに、辺境伯が控えているのだろう。想像するだけで心臓が跳ねる。


父の低い声が聞こえ、俺の肩を軽く叩く。「落ち着け。挨拶の基本は礼儀と視線だ」アビーも隣で小さく笑い、肩を寄せてくれる。その微笑が、心の奥に小さな勇気を灯す。


先触の声が響き重厚な扉が静かに開くと、辺境伯はゆっくりと待合室に足を踏み入れた。


銀色がかった髪が光を受けてわずかに輝き、深く刻まれた顔には威厳と経験がにじんでいる。その目が、まずは室内の高位貴族たちを順に走った。


五十歳前後と思われる年齢ながら、胸を張り、両手を背に組むその姿は、揺るがぬ圧迫感を放つ。


「ようこそおいでくだった」


低く、しかし確かな響きの声。辺境伯の声が一度空間に満ちると、従者たちや貴族たちは自然と背筋を伸ばす。


高位貴族から順に一組ずつ、辺境伯は軽く頷き、名前を呼んで短い言葉を交わす。声は穏やかだが、一言一言に存在感がある。


その挨拶の仕方には、無理に威圧するのではなく、互いの力量と立場を尊重しながらも、彼が場の主導権を握っていることを示す、絶妙な均衡があった。


高位貴族は従順に応じながらも、内心でこの辺境伯の眼力の鋭さに圧倒されているように見える。


やがて、伯爵の視線は父フリードのもとに止まった。


威厳を保ちながらも、口元にはかすかに柔らかな笑みが浮かぶ。周囲に気を使う素振りを見せず、まるで古い友人に話しかけるかのような自然さで口を開く。


「フリード、よくぞ無事に到着したな。旅路は大変だったであろう?」


父は軽く頭を下げ、礼儀正しく答える。言葉のやり取りには堅苦しさがなく、むしろ互いの力量を知る者同士の余裕すら感じられる。


辺境伯は父に向ける視線を一瞬止めたのち、ゆっくりと右に顔を向ける。その先に、小さな体をぴんと張ったヴェゼルが立っていた。


鋭く、しかし落ち着いた瞳でこちらを見つめる辺境伯の視線に、思わず心臓が早鐘を打つ。


「なるほど……お前がビック騎士爵の嫡男か」


低く、しかし鋭い声が部屋に響き渡る。その一言に、室内の空気がわずかに震えた。肩をすくめ、拳を握りしめる。


辺境伯の眼差しは、ただの子供を見るものではなかった。父フリードのように、武意を示す者になれるかどうか、静かに、しかし確かに評価している。小さな体に宿る可能性を見抜き、同時に厳しく叱咤する視線だ。


「父のような武意を示す男になれ。力と覚悟を持たぬ者に、この領の未来を託すことはできぬ」


言葉は穏やかに聞こえるが、奥底には厳しい期待と圧力がある。胸がぎゅっと締め付けられる感覚。手のひらには小さな汗が滲み、足元の感覚が少しふらつく。


しかし、その言葉の中に、不思議な励ましも含まれていた。期待されていること、そして見守られていることを、体の奥深くで感じる。


目の前の辺境伯の眼差しは、威圧ではなく、未来を託す覚悟を示すものだった。


「……はい!」


小さな声ながら、背筋を伸ばし、拳を握り返す。緊張で震える身体を抑えつつ、心の中に小さな覚悟が芽生える瞬間だった。


辺境伯は一歩近づき、肩の力を抜いた表情で短くうなずく。



そしてその場で、周囲を見渡して言葉を区切る。


「……さて、今日はまず、心静かにくつろぐがよい。明日はいよいよ年に一度の総会、そして妻が主催するお茶会、さらに鑑定の儀が行われる。心得て、しっかりと励むのだぞ、皆の者よ」


辺境伯の低く落ち着いた声が広間に響くと、貴族たちはぴんと背筋を伸ばし、揃って敬礼する。夫人たちと自然と体を正し、無言で辺境伯の目線を受け止めた。



しかし、静かな整列の中に、わずかに小さなざわめきが混ざる。若い貴族たちは互いにちらりと目を合わせ、これから行われる鑑定の儀や、自分たちの家系の評価を探るかのように視線を動かす。



俺は小さな身体で、その空間に圧倒される。


アビーも少し背筋を伸ばし、緊張を隠そうと笑みを浮かべるが、その瞳には明らかな決意が宿っていた。


その姿には、威厳と余裕、そして未来への期待が同居していた。小さな胸に刻まれたその光景は、異世界での冒険の始まりを鮮やかに印象づけるものだった。


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