第105話 ベントレー公爵 02
「さて……では、本題に入ろうか。昨日の停戦会議は混乱の中で終わったが、今日は別だ」
公爵は場にいた者たちを見渡し、軽く咳払いをした。
「戦の処理は帝国が裁く。だがその前に、当事者であるビック家と私の間で直接、話を詰めておきたい」
背筋を正すフリード。その横でオデッセイも、視線を公爵に向ける。
「ビック家が、サマーセットに望むものは何か?」
静かに投げかけられた問い。だがその響きには「お前たちには正当な権利がある」という含みが込められていた。
戦に勝利した側が、領土を要求し爵位を望むことは帝国の慣習。公爵はそれを促したに過ぎない。
しかし、フリードは真っ直ぐに公爵を見返し、口を開いた。
「……そのことは、すべてオデッセイに一任しています」
短くも揺るぎない言葉だった。
公爵は一瞬、驚いたように眉を動かし、それから苦笑を浮かべた。
「ふむ。フリード殿ほどの家長が、妻に一任とは……。いや、信頼ゆえか。帝都ではまず聞かぬことだ」
オデッセイは少しだけ瞼を閉じ、深く息を整えてから言った。
「我らが望むのは――今回の戦で命を落とした者、その家族への補償。そして、戦で負傷し今後満足に働けなくなった者たちへの保障。さらに壊された家屋や器物の補填、それだけです」
会議室にいた誰もが目を丸くした。
当然、公爵も例外ではない。彼は重々しい沈黙の後、言葉を探すように呟いた。
「……それだけ、か?」
「はい」
オデッセイは頷いた。
「領民を守り、ともに生きていくのが我らの務め。それ以上のものは要りません」
その答えに、公爵の瞳が大きく見開かれた。
「フリード殿が望むなら、伯爵領の領土の割譲も叶う。あるいは、この戦役の勝利を以て帝国から陞爵の沙汰を引き出すことすらできるのだぞ?」
そのとき、それまで黙っていたフリードが口を開いた。
「……ベントレー公爵閣下。うちの初代からの家訓をご存じか?」
「家訓?」
「『民と共に歩め。土と風水を友とせよ。驕る心は身を滅ぼす』――これが初代からの家訓です」
フリードの声には力がこもっていた。
「だから我らはあまり多くをこの手に持たない。持てば持つほど、人は驕り、足をすくわれ、手から零れ落ちる。今の私にはすでに、領民、オデッセイ、アクティ……そしていろいろと、『しでかす』ヴェゼルがいる。それだけで、もう手一杯です。それに、うちは万年騎士爵が性に合ってます。わはははは!」
その言葉を聞いて、オデッセイがふっと笑った。
「本当に……あなたは変わらないわね」
しかし隣のヴェゼルは、むっつりとした顔で俯いた。
「(しでかすって……僕は別に……)」
心中で苦虫を噛み潰したように呻く。だが口には出さない。
公爵はその様子を見ながら、ふと目を細めた。
「なるほど……。家訓に従い、驕らぬ姿勢を貫くか。フリード殿、オデッセイ殿……。実に見事だ。だが――」
彼は視線を、幼いヴェゼルへと移した。
「総大将を捕縛したのは、この子であったと聞く。そのヴェゼル殿にも、同じ問いをしよう。お前は何を望む?」
突然の問いに場がざわめく。
フリードとオデッセイは一瞬視線を交わしたが、止めはしなかった。ヴェゼルは小さく顎に手を当てて考え込み、やがて顔を上げる。
ヴェゼルは一呼吸置き、落ち着いた声で言った。
「できれば、この話は……公爵閣下と限られた方々、そして僕の家族だけにしていただきたいのです」
場がざわめく。まだ六歳の子供が、公爵に「人払い」を願ったのだ。
公爵は目を細め、しばし沈黙した後、低く響く声で問う。
「……余計な耳を退けよ、と申すか」
ヴェゼルは小さく頷いた。
「はい。武器も持たない僕たちです……それに、この件の詳細は他に聞かれることを望みません」
その冷静な物言いに、公爵は口元をわずかに吊り上げる。
「……面白い。ならば従おう。――皆の者、下がれ!」
命令と同時に兵や書記が一斉に退出し、幕内は静まり返る。残ったのは公爵と信のおける側近数名、そしてビック家の者たちのみ。
公爵はヴェゼルをじっと見つめ、重々しく告げた。
「これでよい。さあ、存分に語るがいい」
ヴェゼルは頷き、覚悟の影を浮かべた。
「僕の望みは、直接サマーセットへ望むものではありません。ひとつ目は……ただ、僕の『婚約者たち』の身分を、帝国の名において保証していただきたい」
ヴェゼルの口から「婚約者たちの保証」という言葉が出た瞬間、公爵の空気が変わった。
重苦しい戦後処理の場から一転、思いも寄らぬ要求に耳を疑ったのだ。
「……婚約者、たち?」
ベントレー公爵は重々しい声で反芻した。その眼差しは半ば試すようで、半ば興味を隠さない。
「……ほう。婚約者、たち。アビー殿と……ヴァリー殿のことか?」
ヴェゼルは、曖昧な表情をしながらも小さく頷いた。
「はい。彼女『たち』は僕にとって大切な人たちです。身分や立場に関係なく、僕は一生を共にするつもりです。でも……彼女たちが自分の『身』のせいや、それと僕のせいで苦しんだり、誰かに軽んじられたりするのは嫌です。だから、帝国の名において、正式にその立場を保証してほしいのです」
その真っ直ぐな願いに、公爵は深く息を吐いた。
「なるほど……。アビー殿は、あの騒動でクリッパーから言い寄られたとも聞く。そしてヴァリー殿……あの頑固な魔法一筋の才女が、十七も年下のヴェゼル殿に惚れ込むとは。世の常識を覆す話だ」
公爵が声を低める。ヴァリーの名に含まれる意味は大きい。なにしろ、ヴァリーは帝国でも有名な才女、しかも魔法研究一筋で、男性を顧みぬことで知られていた。
急遽、その場に呼ばれたヴァリーが毅然と前に進み出た。
「私は、ヴェゼル様に出会い、求婚を受けました。この方こそ世界一の旦那様。私は世界一の幸せ者です。年齢など関係ありません」
ヴェゼルは顔には出せずに思った。(僕はヴァリーさんに、猛烈な婚約を迫られただけなんだけど……)
堂々と告げるヴァリーに、公爵は驚きとともに感嘆の笑みを浮かべた。
「……強いな。まるでヴァリー殿の魔法のようではないか」
その瞬間――。
ヴェゼルの胸ポケットがもぞもぞと動き、ひょいと飛び出した小さな影が、その場の緊張を破った。
「これで名実ともに、私もヴェゼルの婚約者よね!」
「私は闇の妖精サクラ!ヴェゼルの妖精第一夫人よ!」
堂々と宣言するのは、妖精サクラ。
サクラはくるりと宙を舞い、ヴェゼルの肩にちょこんと腰掛けた。
「ヴェゼルは私のもの。誰にも渡さないわ。異論は認めない!」
その小さな胸を張る様子は、まるで威風堂々たる女王であった。
ヴァリーは目を丸くし、ヴェゼルは呆れたように口元を押さえる。
オデッセイとフリードも思わず顔を見合わせた。
ヴェゼルは額に手を当て、困ったように、笑みを浮かべた。
「……話の流れで、こうなってしまったんです」
公爵が凍りつき、次いで爆発したような驚愕の声が上がる。
「な、な、なんと……! 伝説の妖精が!…しかも人間と百年以上も断絶していたはずでは……」
公爵自身も一瞬息を呑んだが、やがて大笑いをした。
「ははは! ヴェゼル殿にしてやられたな! ヴァリー殿だけでも驚いたというのに、まさかサクラ殿までもとは!」
ヴェゼルは顔を赤らめて俯く。
笑いながらも、公爵の目には計算が宿る。妖精と縁を結んだ人間など、帝国はもちろん、周辺諸国が血眼になって狙うに違いない。
だが、ここで軽んじることはできぬ。むしろ、確固たる後ろ盾を与えなければならない。
ヴェゼルはその一瞬の逡巡を見逃さなかった。肩に座るサクラを軽く撫でながら、さらりと告げる。
「……閣下。彼女もまた、僕の婚約者のひとりです。どうか、アビーやヴァリーと同じく、その身分を帝国の名において保証していただきたい」
公爵は考える。だがヴェゼルは怯まない。無邪気な顔の奥に、鋭い計算が潜む。
ここで保証を取り付ければ、妖精との縁はビック領を守る盾となる。
逆に、保証を拒めば、公爵自身が「妖精を軽んじた愚か者」として歴史に刻まれる可能性もある。
幕舎に重い沈黙が落ちた。
やがて、公爵は深く息を吐き、静かに頷いた。
「……よかろう。帝国の名において、ヴェゼル殿の婚約者たち――アビー殿、ヴァリー殿、そして妖精サクラ殿。そのすべてを保証する。彼女たちが君と共に生涯を歩むことを、帝国は全面的に支援しよう」
その瞬間、ヴァリーは瞳を潤ませた。
サクラは得意げに胸を張り、「当然よ!」と叫ぶ。
そしてヴェゼルは、小さく口角を上げた。
「ありがとうございます、公爵閣下。これで、彼女たちの未来も、僕が守れます」
――六歳の童とは思えぬ老獪さ。その言葉に、ベントレー公爵は背筋をぞくりと震わせた。




