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第103話 オースター司祭の巡礼 その2

 後の民衆や歴史家に『ビック領の奇跡』と呼ばれた戦役のほんの少し前。


 オースターの巡礼の旅は、いつも胸に重石を抱えるようなものだった。


 ――自分は神に背いたのかもしれない。


 その思いを拭えぬまま、彼は今日も杖を突き、塵にまみれた外套を翻しながら歩みを進めていた。


 まずはビック領へ行こうと考えていたのだが、なかなか足が、いや心がそちらに進もうとはしなかった。



 そして、最初に足を踏み入れたのは、辺境伯カルディナ・フォン・ヴァンガードが治めるコンフォート領の領都であった。


 街の門をくぐった瞬間、オースターは息をのんだ。そこには活気に満ちた往来が広がり、店々には人の声が絶えなかった。


子どもが笑い、荷馬車が行き交い、職人が威勢よく呼び込みをしていた。善政が行き届いているのが、一目で分かった。


 しかし、裏通りへ足を運べば、やはり他領と同じように、影は存在していた。


痩せ細った浮浪者が壁にもたれ、孤児らしき子らが瓦礫に腰を下ろし、物乞いの手を差し出していた。数は少ない。だが確かにそこに「闇」があった。


 オースターは彼らに小さな施しを与えながら、大通りに戻った。そして領都最大の教会を訪れる。


 そこにいたのは、金銀で身を飾り、肥え太った司教だった。白い法衣の上から金糸で織られたマントを羽織り、指には宝石を嵌めている。


 「おや、旅の司祭殿。巡礼とは尊きものですな。ぜひ我が教会の加護を受け、今後も共に布教に励みましょう。ここに寄進を――」


 にこやかに差し出された手。その掌の意味を、オースターは悟った。


 彼は小さく頭を下げると、すぐに教会を辞した。


 背後から罵声が飛んできた。「痩せ犬の巡礼者め!神の恩寵を拒むとは!」


 だがオースターは振り返らなかった。神の名を語りながら黄金に溺れる姿に、言葉を交わす意味はなかったからだ。


 その夜は領都の外れで野宿をした。火を熾しながら、彼は思う。


 ――信仰とは、いったい何なのだろうか。



 翌朝、彼は南西に足を向けた。次なるはサマーセット伯爵家の領地である。


 だが、そこに広がっていた光景は、彼が巡礼してきた数々の地の中でも最悪だった。


 領に足を踏み入れた瞬間にわかった。道を行き交う人々の顔が、ひどく暗い。瞳は虚ろで、笑みの欠片すら浮かんでいない。着るものは擦り切れ、体は痩せ細り、子どもでさえ頬がこけていた。


 「……」


 オースターは言葉を失った。


 街に入ればなおさらだった。大通りには商人の声も響かず、店には客がいない。活気どころか、沈黙と諦めが街を覆っていた。


 その時だった。


 「下郎どもが! もっと頭を垂れよ!」


 鋭い声が響いた。人々の視線が一点に集まる。


 大通りの中央に、着飾った貴族風の少年が立っていた。年の頃は十歳ほど。鮮やかな刺繍入りの服をまとい、鞭を手にしている。その前に、粗末な服の夫婦と幼い子どもが跪いていた。


 「俺様の前に立つだけでも恐れ多いんだぞ!」


 少年――が鞭を振り上げた瞬間。


 「やめなさい!」


 オースターの体が勝手に動いていた。鞭は空を切り、彼の外套を叩いた。鋭い痛みが走ったが、彼は歯を食いしばり、少年を睨んだ。


 「無闇に人を傷つけてはならない。神の目は常に見ている」


 その少年は一瞬たじろいだが、すぐに顔を歪めて叫んだ。


 「うるさい乞食坊主が! 俺様に口答えするな!」


 罵声を浴びせ、従者と共に去っていった。


 後から跪いていた夫婦が震える声で言った。「あれが……領主様の御子息、クリッパー様です」


 オースターは拳を握りしめた。あのような子供が、あれほど人を見下し、痛めつけることを当然とする。領地が荒む理由が、ひと目で分かった。


 ――これが、同じ神のもとにある人の姿なのか。


 彼の胸に暗い澱が広がった。





 重い足を引きずりながら、オースターは次に向かうべき地を考えた。


 ――ビック領。


 本来巡礼の始まりに選ぶと決めていた場所。己の罪の原点。ヴェゼル・パロ・ビックのいる領。


 そして彼は、ホーネット村へとたどり着いた。


 そこに広がる光景は、今まで見たどの地とも異なっていた。


 畑は麦こそ少ないようだが、青々と茂り、収穫を待つ作物が風に揺れている。農夫たちは笑い声をあげ、子どもたちが走り回っていた。老人たちも家の前に腰を下ろし、のどかに語らっている。


 村は決して裕福ではない。だが、誰もが清潔な衣をまとい、顔には笑みがあった。


 「おや、旅の司祭様。水を飲んでいきなさい」


 「服を洗ってあげましょうか? 少し汚れているようだ」


 「夜泊まるところはあるのかい?」


 次々にかけられる親切な言葉。


 オースターは胸を衝かれた。各地で見てきた「貧しさ」や「闇」とは正反対の光景。ここには、確かに希望が息づいていた。





 そして、遠目に彼は見た。


 ――ヴェゼル。


 少年は村人たちに囲まれ、何かを語り、時に笑い、時に真剣な眼差しをしていた。屈託のない笑みを浮かべ、家族や仲間と共に生きるその姿。


 胸が痛んだ。


 ――もし、あの時、自分が神の啓示をそのまま伝えていたなら。


 未来はどう変わっていただろうか。


 近づこうと、一歩を踏み出しかけた。だが、その時。


 『若き鑑定者よ。嘆くな。お前が選んだ道は、間違いではない』


 かつて神が囁いた言葉が、脳裏に蘇った。


 オースターは立ち止まり、唇を噛んだ。


 言葉をかけることはしなかった。ただ、遠くから見つめ、振り返らずに村を後にした。



 彼は知らなかった。ヴェゼルの傍ら、その箱の中で眠る存在――。もしそれを見ていたなら。ヴェゼルの収納魔法スキルそれを見ていたなら、すべてを悟り、別の未来が拓かれていたかもしれない。だが神は、それを見せなかった。




 ただ、オースターは確かに感じた。ここには「希望の種」がある。


 だが、不思議なことに、この村に留まるべきではないという予感もあった。


 ――まだ、歩まねばならない。隣領へ。


 彼の巡礼は終わらない。贖罪の旅は、なお続いていく。




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