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第101話 スタンザのおわり

 重苦しい会議の幕が、ようやく閉じられようとしていた。


 帝国の建前としては、帝国は法に従うと、この一戦は不干渉に徹しなければならない。


 貴族同士の私闘として静観しばければならないのだ。


 だが、皇妃の声により、ビック領とサマーセット領双方が「帝国の裁断を仰ぐ」と声を揃えたことにしなければならない。


 そして帝国は『仕方なく』その裁定者として双方を仲裁することにしなければならないのだ。




 こうして両家は『自らの未来を帝国に預ける形』となり、最終的な決定権は皇帝の御手に帰したのである。




 その空気は決して和解を思わせるものではない。むしろ、これから何か恐ろしいことが起こる前触れのような緊張を孕んでいた。


 「……本日の議は、以上とする」


 ベントレー公爵が椅子を押し、静かに立ち上がる。その声は大広間の石壁に反響し、全員の胸に重く沈んだ。


人々が席を立ち始める中で、椅子のきしむ音、靴音、外で待つ兵士たちの武具の擦れる音が微かに混じり合う。


 そして、


 スタンザ伯爵が、ゆっくりと椅子を立ち上がった。だが、その表情はさきほどの虚勢ではない表情をしていた。


しかし、彼は一瞬だけ卓の向こう――ビック領の席に座る一同へと鋭い視線を投げかける。


 そして、低く小声で呟いた。


 「……万年騎士爵風情が」


 その言葉は、確かにヴェゼルの耳に届いた。誰も気づかぬほどの小さな声だったはずなのに、ヴェゼルには明瞭に、刃のように突き刺さった。


 スタンザは咳払いを一つしてから歩き出す。扉の方へ向かうその道は、必然的にヴェゼルとすれ違うことになる。


 間近を通り過ぎる瞬間――スタンザはさらに囁いた。


 「妹が無事でよかったな。……私に感謝するがいい」


 その声音には、冷笑と嘲弄がたっぷりと込められていた。


 ヴェゼルの頭に、鮮血が流れ込むような衝動が走った。


 全身が熱くなり、胸の奥から煮えたぎる怒りが溢れ出す。


 ――感謝? 妹を誘拐し、暴力を加えた者の側にいながら、感謝だと?




 小さな拳は震え、瞳は氷のように冷たく光る。ヴェゼルは徐にバッグから箱を出し左手に握りしめる。


 スタンザはそのまま扉に手を掛け、後ろ手に閉めて出ていこうとする。


 スタンザがドアを閉めて出て行こうとした瞬間、


 ヴェゼルはチラリとその後ろ姿を俯いたまま見て、誰にも届かぬほど小さな声で呟いた。


 「……収納……脳髄」


 空気が揺らいだように感じたのは、スタンザ自身だけだったのかもしれない。


 次の瞬間、ヴェゼルの魔力が一閃し、目に見えぬ力が彼の頭部に触れたように感じた。


 ――“収納”。


 ヴェゼルだけが行使できる、触ることもなく見たものを収納ー転移させる、異質のスキル。


 通常は物を仕舞うためのもの。それをヴェゼルは、生きた人間の脳髄に向けた。


 それは一瞬で完了した。まるで机上の小物を懐に収めるかのように、スタンザの中枢は「奪われ」、あの「箱」へと消えた。




 廊下を歩み出たスタンザの背中が、突然震えた。


 「……ッ」


 痙攣するように肩が跳ね、足取りがよろける。だが惰性で十歩ほど進む。


 その後――力が抜け落ちるように、床へ崩れ落ちた。


 「スタンザ様!」「伯爵!」


 扉の外に控えていた従者と兵士たちが慌てて駆け寄る。


 スタンザは仰向けに倒れ、目は開いている。瞳孔も動いている。


 だが、その視線は焦点を結ばず、虚空を漂うだけだった。口は半開きで、意味を成さない呼吸音が漏れる。


 「……フィ、、、オデッ……」


 それがスタンザの『人生』最後の言葉だった。声にならない呻き。 その姿は、まるで生ける屍。


 大広間に残っていた者たちの間に、驚愕と狼狽が走った。





 従者に支えられてかろうじて歩いていたクリッパーもまた、伯爵の急変を目にし、愕然と立ち尽くした。


 従者が「クリッパー様、こちらを!」と声を掛けるが、彼はその声を聞かぬように震え、そして視線をゆっくりと扉の向こうに向けた。


 ――ヴェゼル。


 椅子に腰を下ろしているはずの少年の姿が、脳裏にちらついた。


 小さな身体。だが、その奥に潜む赤黒い殺意。


 「……あ……は、はは……」


 クリッパーの口から、乾いた笑いが漏れた。


 最初はかすかに、やがて声を震わせ、ついには喉を裂くような哄笑となった。


 「ひっ……ひひ……はははははははは!」


 笑いながらも、彼の目はどこか一点を見つめ、徐々に正気を手放していく。 従者たちは怯え、誰も近づけない。





 「何が起こった!?」「医師を呼べ! 早く!」


 サマーセット領の兵士と従者たちは右往左往し、広間は混乱に包まれた。その声がただ虚しく広間に響くだけだった。



 その渦の中で――ベントレー公爵は、ただ『それ』を、一瞥しただけだった。


 冷徹な眼差しで、倒れたスタンザを、狂笑するクリッパーを見やり、そして踵を返す。


 「行くぞ」


 そう短く告げ、扉を後にした。




 ビック領の人々――フリード、オデッセイ、ルークスもまた、公爵の後に続いた。


 振り返ることはしない。だが、その目には理解の色があった。



 ――ヴェゼルがあの箱で何かをした。 確証はなくとも、直感的にそう感じ取っていた。


 それでも誰一人、その事実を口には出さなかった。




 ビック領の一行が出ていった後、廊下にはサマーセット領の人々だけが取り残された。


 「スタンザ様!」「クリッパー様!」


 必死に呼びかける声が木霊する。 だが返るのは、うつろな呻き声と、狂気じみた笑い声だけ。


 その光景を――ローグは黙って見つめていた。


 父は廃人となり、弟は狂気に呑まれた。多分。もう正気に戻ることはないだろう。領は自分に託されたのだ。


 彼の心に去来するのは、ただ深い苦渋と、もはや選択肢のない運命の重みであった。


 やがてローグは、静かに頭を巡らせる。


 ビック領の人々が去っていった方角を見つめ、そして深々と頭を垂れた。


 「………………」


 その声は誰にも届かぬほど小さなものであったが、確かにそこには決意があった。




 こうして――スタンザは一瞬にして廃人となり、クリッパーは正気を失った。




 最後に、ローグの隣にいたハスラーに告げる。


「エコーを、すぐに………………せよ」


 ハスラーは一瞬目を見開くが、すぐに深く頭を下げ、駆けていった。


 こうして停戦会議は表向きの決着を迎えた。 だが真の結末は、表に出ることはなかった。



 ――スタンザの権威は失墜し、そしてサマーセットの未来は変わった。



 六歳の少年、ヴェゼルが秘める異質なる力。


 帝国の未来を動かす、異端の存在であることを、ごく少数の人間が否応なく思い知らされた瞬間であった。



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