第98話 サマーセット伯爵家 スタンザという男 その1
サマーセット伯爵家は、代々の名門でも由緒ある家柄でもなかった。
現当主スタンザの父は、元は一介の商人であった。商才に長け、数々の交易で莫大な富を築き、やがて弱体化していた伯爵家の権利を金と政治力で買い取ったのだ。
その事実は、周囲の貴族たちの間で「爵位を金で買った成り上がり」と陰口を叩かれ続け、スタンザの父自身の心に深い劣等感を刻み込んだ。
その反動として、彼は爵位の低い貴族や平民を徹底的に見下すようになった。
「元商人である自分が、なぜ今や伯爵なのか」――その問いから逃げるために。
「自分はもう上に立った存在だ」という優越を確認するために。
幼いスタンザもまた、その思想を浴びるように育てられた。
父に逆らうことは許されず、知らず知らずのうちに「爵位の低い者は虫ケラ」「平民は取るに足らない」といった認識を刷り込まれていく。
スタンザが初めてその歪みに直面したのは、5歳の「鑑定の儀」でのことだった。
同年代の子弟が一堂に会する中、ひときわ大きな体格の少年がいた。
ビック家三男のフリードである。
彼は朗らかで豪快、自然と人の輪の中心に立つような存在だった。
周囲を明るく照らし、誰もが惹かれる少年。
スタンザの胸は、ひそかに憧れで満たされた。
だが、そのとき隣にいた父は冷笑を浮かべ、吐き捨てた。
「所詮は辺境の万年騎士爵の三男だ。あのような下賤に遅れを取るな」
その後の木剣試合で、フリードは圧倒的な強さを見せた。
並み居る子弟を次々に打ち倒し、誰も彼に敵わなかった。
スタンザもまた一蹴され、父の怒声が飛んだ。
「辺境の三男ごときに負けるとは何事だ!」
スタンザの胸は屈辱で焼けた。
本当はフリードに声をかけ、共に笑い合いたかった。
だが父の存在が、その小さな勇気を押し潰す。
このときから、憧憬と劣等感、そして抑圧された感情が混ざり合い、フリードへの憧れが憎悪へと変質する素地が生まれていった。
やがて学園に入学すると、そこにはさらなる試練が待っていた。
入学試験で首席に輝いたのは、平民出身の商家の娘――オデッセイだった。
華奢な体に、凛とした気配を漂わせる少女。
どこか孤高で、いつも一人でいた。
スタンザは、その姿に一目で心を奪われた。
「話しかけたい」何度もそう思った。
だが、父に背を向ける勇気は持てず、ただ遠くから見つめるだけの日々が続いた。
ある日、オデッセイに女友達ができたことを知る。
孤独でいる彼女を慰めるように、なぜか自分まで安堵を覚えた。
「自分はいつも一人のままなのに……」
そんな自嘲の笑みを漏らしながらも、スタンザは気づく。
――あれが、初恋だったのだと。
同じ時期、学園にはフリードも入学した。
学業こそからっきしだったが、剣の腕前は誰よりも抜きん出ていた。
そしてその人柄は変わらず、誰にでも気さくに声をかけ、常に人の輪の中心にあった。
スタンザは二人に声をかけたいと願いながら、父の呪縛に縛られ、結局一歩を踏み出すことはできなかった。
三年目の三月、中庭でふと聞こえてきた声。
そこにはフリードとオデッセイの姿があった。
「へえ、もう卒業か……」フリードがぼそりとつぶやく。
「頭のいい奴はいいな。俺は剣しか取り柄がねぇ」
その言葉に、オデッセイがわずかに振り返り、柔らかな笑みを浮かべた。
「……あの、フリード君よね。剣術、すごかったわ」
スタンザはただ、それを見ていただけだった。
声をかけたかった。
だが、三年もの間拗らせ続けた思いは、彼の足を動かさなかった。
――二人にとって、自分の存在など認知されていないのだ。
オデッセイは飛び級で卒業し、学園を去っていった。
スタンザも学園を卒業し、伯爵家の政務に携わるようになった。
風の噂でオデッセイは最年少で錬金塔に入省したと聞いた。
父は相変わらず利に聡く、清濁を併せ呑むような手法で家を回していた。
その頃、伯爵家にとって重要な特産である海藻の需要が激減する事態が起きる。
それまでその海藻は、主要な解毒薬の必須原料であった。
だが、新たな製法が確立され、海藻が不要になったのだ。
莫大な利益を生んでいた独占産品が、一夜にして無価値に。
父は烈火の如く怒り狂った。
「平民生まれの小娘が!」
そう罵られた相手こそ、新製法を確立したオデッセイだった。
スタンザの胸は、怒りと同時に絶望で満たされた。
婚約を躊躇していたのも、心のどこかでオデッセイを妻に迎えられるのでは、という淡い妄想があったからだ。
錬金塔で実績を上げた才女なら、利を重んじる父でさえ有能さを買って認めるかもしれない――そう夢想していた。
だが、彼女の功績は父の怒りを招き、その可能性を完全に閉ざした。
夢は絶たれ、心は深く抉られた。




