恋する聖女の想い人
聖女が恋をしている。
そんな噂を耳にしたのは昨日の事だ。
噂を聞いてすぐに、アビントン侯爵令息であるエイベルは、
だとしたらその相手は自分なのではないだろうかと考えた。
エイベルは生まれた時から身体が弱く、成人までは生きられないだろうと言われていた。
けれどもなかなか男児に恵まれなかったアビントン侯爵家にとって待望の男児として生まれたエイベルをアビントン侯爵は死なせるわけにはいかなかった。
そこで呼ばれたのが聖女だった。
幼い聖女は、アビントン侯爵に請われてエイベルに治癒の術をかけた。
一度ではなく、何度も何度も、何年にも渡って。
その甲斐があり先日エイベルは無事に成人の年を迎えることが出来た。
今では昔病弱だったなどとはとても思われないくらいに健康である。
しかし、聖女の治癒の術というのは、聖女の生命力を分け与える事により相手を生かす術なのだと言う。
成人を迎えられないと言われたエイベルを生かすだけの生命力ーーそれを聖女が分け与えてくれたのだとすれば、それはつまり聖女の寿命の20年近く…いや違う、もっと長い年月に当たるほどの命をエイベルに受け渡した…という事なのではないだろうか。
そんな事を果たして、何の思い入れもない相手に出来るものだろうか。
聖女は幼い頃に出会ったその男に一目で恋をして、その相手だけを今でも一途に想っているのだと言う。
幼い聖女が同じ年頃のエイベルに会って恋に落ち、だからこそ身を削って命を助けた。
そう考えれば、それだけの献身をエイベルに捧げてくれた事に腑が落ちる。
実のところエイベルだって頻繁にエイベルに会いに来てくれる少女の事を幼い頃から愛しく思っていたのだ。…それが聖女であると知ってからも会える日を心待ちにしていなかったと言ったら嘘になる。
とはいえ、それだけの想いを捧げられたのだと分かっていても、エイベルは聖女に想いを返すことは出来ない。
エイベルは溜息を吐いた。
アビントン侯爵家の嫡男であるエイベルには先日婚約者が出来た。
家の利を考えれば彼女との結婚は必要なもので、それ故に聖女の気持ちに応えることは出来ない。
命を救われたと言うのになんと薄情な事だろう。
エイベルは自分の内心でもう一度溜息を吐いて憤りをやり過ごした。
せめて自分の誕生日には聖女に感謝を捧げよう。
そう心に誓う事だけがエイベルが聖女の為に出来る数少ない事なのだから。
**
聖女が恋をしている。
そんな噂を耳にしたのは最近の事だ。
噂を聞いたブレットは、それが本当ならばその相手は自分なのではないだろうかと考えた。
ブレットは幼い時に怪我をして聖女に救われた事がある。
それをきっかけにしてベイリー家は怪我や病気の度に聖女を頼るようになったのだ。
聖女は自分の生命力を他者に譲り渡す事で、相手を治癒させるのだと言うが、それでも相手を永遠に生かす事は出来ない。
ブレットが大好きだった祖父も、聖女がどれだけ治癒の術をかけようとも目覚めない日が訪れてしまった。
ブレットは悲しかったけれども寿命なのだと悟った。
しかし悲しむブレットを聖女は励まし、治癒の術をかけ続けてくれた。
もう目覚めるとは思えないのに、それでもずっと、ずっと。
聖女の生命力が無駄に散らされていく様をブレットは見ていることしか出来なかった。
その時は、どうしてこれほどの献身をくれるのだろうかと不思議だった。
しかし聖女が恋をしているのならば、その相手がブレットなのだとしたら…。
きっと聖女は悲しむブレットの為に、治癒の術をかけ続けてくれたのだろう。
無駄に生命力を消費したとしても、悲しむブレットの顔を見ていたくなかったのだろう。
どうしてあの時それに思い至らなかったのだろう。
ブレットは俯いた。
祖父の命が尽きたあの日、聖女はずっと祖父の側に居続けてくれた。
まるで祖父の旅立ちを見守るように、側から離れないで居てくれた。
聖女に見守られて旅立った祖父はきっと幸福だったのだとブレットは思う。
今まで聖女の気持ちに気づかないままでいた自分を後ろめたく思いながらそれでも、ブレットは聖女に感謝を捧げた。
**
聖女が恋をしている。
カールはそう聞いて、先日の出来事を思い出した。
妹のセリシアが大怪我を負い、慌てて聖女を呼んだのだ。
聖女は幼い時のカールを病から救ってくれたと聞いてはいたものの、カールはそれを覚えていない。
しかしその時のことを忘れずにいた両親が、聖女ならばセシリアを助けてくれるはずだと考えたのだ。
そしてそれは正しかった。
聖女は見事にセシリアを助けてくれた。
けれどもそれは易々と成し遂げられたわけではない。
妹の傷は深く、聖女は長い時間をかけて治癒の術を施してくれた。
いつ見に行っても、聖女が休んでいる様子はなかった。
それでも治癒が追いつくよりも先に、妹の命は尽きてしまうのではないだろうかと不安な日々を過ごした。
聖女は「絶対に死なせない」と何度も何度も言葉にしていた。
鬼気迫る様相だった。
家族が聖女にここまでして貰ったのだから助からなくても諦めるしかないのではないかと覚悟を決めようとしても聖女は諦めはしなかった。
身体から抜けるセシリアの魂を決して離さないとでも言うような聖女の努力により、セシリアは一命を取り留めたのだ。
セシリアが助かって嬉しかった。
助けてくれた聖女に心から感謝を捧げた。
もしかしたら幼い自分もこのようにして聖女に助けられたのだろうかと考えたら、なぜ聖女がここまで出来るのかと畏怖の念が湧いた。
しかし…。
聖女が恋をしているのだという噂を聞いて、カールは聖女にお礼を伝えた時に自分に向けられた笑顔が頭に思い浮かんだ。
あれはもしかしたら恋する男の力になれた事を喜ぶ顔だったのではないだろうか。
だとしたら。
カールは聖女の笑顔を思い返す。
あれだけの生命力をセシリアに分け与えた聖女の残りの命はどれほどなのだろうか。
それだけの献身に感謝し、自分が残り少ないであろう聖女の人生の横に立つべきなのではないだろうか。
カールは神に伺いを立てようと天を仰ぎ見た。
**
幼い頃に、聖女は恋をした。
それは死にゆく母の横に立ち、そして愛おしげに母を見つめる美しい男の姿をしていた。
母は男を見つめ、そして男も母だけを見つめていた。
その慈愛に満ちた眼差しに聖女は恋をした。
聖女の治癒の術はまだ拙く母を救う事は出来なかったけれど、悲しみよりもその男に出会えた喜びで心がいっぱいになった。
それなのに男は母を導いて消えてしまった。
そして聖女は一人取り残されてしまった。
母がもういない事よりも、男に会いたい気持ちの方が大きかった。
けれどもどうしたら男にまた会えるのかが分からなかった。
聖女は他にやる事もなく治癒の術を磨く事に専念した。
大きな病はまだ完治させる事は難しかったけれど、軽度の病や怪我を治すのが日常になっていた。
聖女を求める者は多い。
けれども幼い聖女では全ての人は助けられない。
それは聖女がまだ未熟だからというだけではなく、天命には敵わないからでもあった。
それがそのどちらだったのかは分からないけれど、聖女の力が及ばず死が訪れた。
そしてそれが聖女と男の再会の時だった。
聖女はその時にようやく気がついた。
母の横に立ち、母を導いていった男は死神だったという事を。
死神は死にゆく者にしか目を向けない。
だから側にいるというのに決して聖女には目を向けてはくれない。
せっかくまた男に会えたというのに、男は聖女などまるでいないかのように聖女を見ない。
聖女は彼に自分を見て欲しかった。
自分に微笑みかけてもらいたかった。
そのために一刻も早く死を迎えたかった。
けれど自分で死を選んだ者の元には死神はやって来ない。
聖女は死を待つより他、彼に眼差しを向けてもらう事は出来ない。
だから聖女は少しでも早く彼が自分を迎えに来てくれるように治癒の術を使った。
少しでも早く全ての生命力を他者に譲り渡してしまいたかった。
けれど治癒の術を使える聖女の生命力は膨大で、なかなか聖女に死は訪れない。
時折、聖女の力が及ばず死神がやって来ると男の姿が見れる事が嬉しくて。
そして自分を見てもくれない事が悲しかった。
だから聖女は女性を死なせたくなかった。
自分の目の前で他の女を見つめる彼を見るなんて耐えられなかったからだ。
早く彼に会いたい。
早く私を見て欲しい。
聖女はそれだけを願って、今日も治癒の術を行うーー。