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単なる試行錯誤の取っ掛かりとして。

作者:

世紀末の乱世という言葉が好きです。

つい使ってしまう。

他人の褌で相撲をとるのは良くないから今後は控えようと思ったり。

「  」という主張は愚鈍、とかゆっちゃう人なのにどうして他者から「  」という主張は愚鈍て言われると不愉快を表明するのかが分からない。


ver.1.0.3.3.8

《》及び【】内、鈴木美脳様 無差別殺人の正当性の証明 からの引用です。


ふふ。

同じ立場の、もしくは同じように不遇の身として自分を含めて擁護し弁護し、正当性を声高に主張しルサンチマンを果したいだけなら、そうとおっしゃって下さればよかったのに。


犯罪を正当化するような、犯罪者を擁護する論旨の文章は飽きるほど見ます。

不当に虐げられ踏み躙られ持てるはずだったものを奪われ、社会的弱者であることも己の不徳、不備、努力不足として声をあげることすら封殺され責任をおっかぶせられている、とする人々の「だから暴力しか手段がない」という主張は。


同じような主張でテロリストはテロを起こし「こんなに真摯に社会と向き合っているのに理解が得られない」と嘆き、日本の学生運動華やかなりし頃、大学生達はプチ・ブルは悪であるとして例えば中小企業主である親を豚と罵り田舎から出てきた同級生をオルグり、しかし自身たちが一種の富裕層(高校進学率50%~70%その内大学進学率は10%~25%、現在と違い、奨学金制度は非常に未発達)であることには目を瞑りました。

(余談ですが過激な学生運動家、謂わばファンダメンタルな共産主義に傾倒し標榜し平等を謳い集団生活/性活を送った彼ら(まさに性別「彼ら」)は、避妊もせず掃除洗濯食事の支度などの家事は同志であるはずの女性に丸投げでした。嘲笑しか出てこない。)


人生に苦痛を感じ幸福ではない。

苦しんでいるのは個人の責ではなく社会の責であり故に社会に対し報復する権利があり、この苦しみを広く知らしめ問題化するために、自発的に為したいわけではないが社会からの有形無形の圧力によって暴力を振るわざるを得ないのだから正当であり掣肘であり鉄槌である。


なんという犯罪者の理屈!

海外のギャング、麻薬カルテルなどもよく使う理屈ですね。


同様の境遇で、同様の鬱屈を抱え、同様に憐れであり不幸である人々などいくらでもいます。

犯罪に踏み切るか思い止まるかは「*取り巻く状況の変化」と「個人の資質」です。

*(今回トリガーとしては不本意にも(・・・・・)“万引きが発覚し通報され”たことに対する怒りがあると思います。弁済と説諭(所轄署の記録上)で帰された(初犯らしいので)のでしょうが、それもまた怒りに油を注いだのかもしれません)

どちらもが欠けても犯罪は為されないでしょう。

ですからすべてを個人の責であるとしたなら、それは確かに《行き過ぎた自己責任論》と言えるかもしれません。

だからと言って社会の責であるとするのは乱暴です。

個々人に誂えたような社会など存在しない以上、人生は大抵の人々にとって理不尽なものです。

その理不尽を呑み込めず「僕に優しくしてよ!」と声高に主張していいのは15歳までかシンジ君だけです。

例えどんな圧力があったとしても、人は自身の選択と結果について責任を負う義務があります。

彼は引き返すこともできた。

引き返して「クソックソックソッあの女(通報した店員)ぶっ殺してやるオレを通報しやがって死ね死ね死ね」とバッティングセンターで130km速の球をがんがん空振りして吠え、コンビニでストゼロを何本か買ってそこら辺の路上で飲み、酔って放尿し電信柱を蹴りまくり、鳥揚げ屋の髭おじさんに因縁をつけ駅の階段にゲロを吐いて疲弊して家に帰ることもできた。

引き返さなかったのは彼の決断です。

そしてどれだけが個人の責でありどれだけが社会の責であるかを決めるのは法廷です。

法治国家で犯罪を、行政罰の定められた法を犯すというのはそういうことです。


ですのであなたが書いたような、


   【善良な一般市民に迷惑をかけるな邪悪な強者を狙え】

   【善良な一般市民を殺しても社会改革としては無効だ】

   【無敵の人による犯罪だ】

   【落ちこぼれは怠け者だ】

   【立場の低い者が多くを望むべきではない】

   【日本に生まれただけで幸せなのに】

   【社会幸福は多く納税する人々が支えている】

   【普通の仕事を頑張ることが社会に最も貢献する】

   【引きこもりの原因は親の甘やかし】

   【暴れるなら外国に行って暴れろ】

   【犯罪なんて割に合わないから馬鹿がやるもの】


という発言と、あなたの一連の文章とは同価値です。

それはまあつまり両方とも個人の感想と意見でしかないからです。(もちろんこの文章も含めてね)

あなたの言を借りれば《エゴイズムに満ち、よく見れば一般性が言えていない拙い根拠づけ》でしかない。 (もちろんこの文章も含めてね)

だって、テロリストや犯罪者は人口比でちょっとしかいない。

あなたの文章は理解や共感を得るには「被害者である」犯罪者に肩入れし過ぎだし、客観性や慎重さに欠ける。

もう少し犯人の詳細を待てば、文章により説得力を持たせた組み立てができたのではと思います。

今となっては、あなたの擁護は幾分的外れになってしまっていますよね?


おっしゃりたいこと、というか、あなたの、みんなで寄って(たか)って袋叩きにしなくてもいいだろう、盗人(ぬすっと)にも三分(さんぶ)()ってあるじゃないか(私が意図的に誤用してます)少しは犯人のことを考えてやる人いないのかあんまりだろうという優しさ?自己投影としてエゴの延長?親切?を言いたくなるのはわかります。

犯人に共感してなのか同情してなのかは分かりかねますが、犯罪を犯したからといって存在を全否定するのはどうかと思うという至極真っ当な意見も。

ですが、手段としての暴力を肯定した途端、あなたの論が正当性を喪うだろうとは思いませんでしたか?

手段としての暴力を肯定するなら、あなたの言う《行き過ぎた自己責任》という暴力を振るう人々も、生活を脅かされる恐怖から自己防衛手段としてそれを振るったに過ぎません。

それとも、これは良くてこればダメ、という一定のルールがある? それはどこに? 

それとも犯罪を犯さなければそれほど苦しくないはずだから、犯罪を犯した方が苦しんでるから、犯罪を犯したもののみ許される?


SNSの発展と共に犯罪者に対する情報も一瞬で共有され、私刑(リンチ)である犯罪者叩きも良く見られるようになりました。

触法という罪を犯したことが、(わたくし)に吊し上げていい権利を得ることだと勘違いしている彼らは、軽挙であり不明であり、素質としては吊し上げている犯罪者と同等です。ただしかしその愚かさは人類共々の愚かさです。

いつかの感想返しのどこかでも書きましたが、「そちら側に立たないと言い切れるほど強く賢くフェアな人間は滅多に(稀有、と言い)いない(変えてもいい)」ので。

ですので、そこは愚鈍な民衆vs犯人を擁護しその他大勢の意識を変えてやるすげえオレ、と対立構造にせず、御自身をも愚鈍な民衆に含めた方が共感を得られただろうと思います。


そして尚もあなたが《犯罪者に何ら同情せず、断罪的かつ侮蔑的に完全に否定する立場》を否定し《理不尽な自己責任論の被害者に一定の弁護を捧げることは、「被害者」の側に寄り添おうとする心でもありえ》るのなら、どうか、弁護して下さい。

コンクリート詰め殺人の実行者たちを、人類史上初の化学兵器テロを起こした集団を、北九州監禁殺人犯を尼崎連続殺人犯を新潟少女監禁事件犯を。そして《 頭おかしい頭わるいすごく偉そうですごく失礼な投稿とかも、違法じゃなくても嫌悪されたりします。世にはびこったらまずいな、みたいな。》と《侮蔑的に完全に否定》せずにはいられなかった思い上がりに満ちた文章を書いた私を。

それとも、自分が理解し共感できる誰か、しか擁護したくありませんか?

それではあなたの論は形を変えた自己弁護でしかない。


ついでに。

法の目的が正義とな。


確かにそれを目的として掲げてますけど、その場合の「(ほう)」とは法律ではなく「(のり)(実定法のみならず神法、自然法も含む)」でしょう。

六法の目的は最大多数の最大幸福(これは日本国憲法)と秩序の維持です。

国を成り立たせる枠組みとして、多様な価値観を調整し、公共の福祉に反するかそうでないかを判断する大まかなルールに過ぎません。(細かなルールはもちろん法廷で!)

正義なんていうものは七転八倒した揚げ句、時代時代で変幻自在な玉虫色のみんなが欲しがる素敵に見える飾りです。

ビッグバン(宇宙爆誕!)以降成されたためしはなく、今後も成されることはないと思います。

常に、その度合いを検証され実現に努めるべきもの、であり、限定的な条件付け《正義は市民の幸福だと合意され》のもと一応の目安《功利主義で一定量具体化されます。原則としての平等な人権とか》は作れますが絶対条件ではない。

(止めた途端、またはこれが正しい!とやった途端、世紀末の乱世若しくはディストピアが来ます)

(これが正義!と定義し実行した代表的な例としては高貴なる狼というかなり名前負けしたちょび髭のおじさんと政治の可能性という名を持ったおじさんがいます。

可能性おじさんは以下のように言いました。

“我々は独自の世界を建設している。新しい理想郷を建設するのである。

したがって伝統的な形をとる学校も病院もいらない。貨幣もいらない。

今住んでいるのは新しい故郷なのである。我々はこれより過去を切り捨てる。

泣いてはいけない。泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。

笑ってはいけない。笑うのは昔の生活を懐かしんでいるからだ。”

そして、医者を殺し教師を殺し学者を殺し、字が読めるものを殺しメガネをかけているものを殺し腕時計をしているからと殺し美しいからと殺し歌ったから絵を描いたからと殺し、年齢一桁の子供にもあれは社会の毒であるからと親を殺させた。結果人口の3割(四人に一人強)を殺し国家構成員の85%以上が14歳以下平均余命14年という国が生まれた。明確に定義された正義はディストピアへの招待状以外のなにものでもない)


そして、倫理もまた七転八倒した揚げ句、時代時代で変幻自在な玉虫色のみんなが欲しがる素敵に見える飾りです。

善行はだいたいにおいて施す富者からは「余裕があって尚且つ気が向けば恵んでもいい」くらいの、施される貧者には「要求するのは厚顔だが、受けとるのは喜ばしいもの」でしかない。

尊ばれ奨励されるのは、持ち上げておけばおこぼれが増えるだろうという閾下の期待と持てるものはその富を分配すべきという圧力です。

そうですね、あとは「善行を善とする社会の方がヒト科ヒト属ヒトとして格段に繁栄しやすい」からでしょう。

鋭く固い爪も牙もなく、力も弱く素早さもない人類は相互信頼と協力なしには種として存続し得なかった。そのための方便として造り出されたまたは発生した概念で、人間の階梯とは無縁のものです。

情けは人のためならず。実に含蓄深い諺だと思います。

自己犠牲や無私、社会に対する損得抜きのヒューマニティや奉仕、愛や正義がいくら尊ばれ善きとされても、シリアルキラーの幸福と公共の福祉(無辜の犠牲者の削減)のために人柱に(いたらいたで)なりた(すげえ変態か)がる人(異常者だよね)はいません。

道徳心、善行、思いやり、愛や正義。

どんな言い方をしても構いませんが、それは「高きにあるもの」ではなく社会運営上実用的で有用な道具です。

道具であるからこそ時々で定義が変わるのです。

バールが鉄梃(かなてこ)だったり釘抜きだったり凶器だったりするように。

道具ですから持っていることが不利益に繋がるなら一時的にでも手放さざるを得ない。

そして善きものとし物語として夢見させ常に奨励し続けなければならないほど中々に実行が難しい行為です。


あとは細々(こまごま)

《精緻で堅牢な論理と思想》

科学分野以外では、それは同時に、一回作ったら頑丈で融通が利かない、壊すのが非常に難しい檻にもなります。

《 苦しみに対しては憐れみがあるべき》

うん。そして電気椅子のスイッチを押すのかな。

彼の苦しみは我々の手に余る。神よどうか彼の魂をお救いください、って?


全体として言いたいことは分かる。

ただなあ、ぶっちゃけ犯人可哀想!なら、犯行を見聞きしてびっくりしたり衝撃を受けたりした人々が犯人を全否定することで安心感を得なきゃならなくて可哀想!も成り立っちゃうからなあ。

共感する境遇として犯人に肩入れしちゃう、みたいなところが見え隠れしちゃってるので、そりゃああなたはそうだろうねってなっちゃうのがなあ。


でも、そういう考え方の人もいるんだーって知見を得るのは大変刺激的なので面白く拝読したのは本当。


色はともかくきらきらの素敵な飾りに名前があるってはじめて知った。

ビジューと言うらしい。ふぁ⋯⋯。縫い付けないからスパンコールではない? ビーズとも違うのね⋯⋯。


鉛筆のお尻に消しゴムをくっつけてる金属をフェルールと言います。悔しいので書いてみた。

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