エピローグ
イライザはヘンリーの招待を受け、五十年ぶりに王宮を訪れた。
正門の前には、恰幅のいい老人が立っていた。頭頂部は完全に禿げあがり、歯が何本も欠けているが、その実直そうな顔には昔の面影が残っていた。
「サー・ピカリング。また会えて嬉しいです」
「こちらこそ、イライザ殿」
再会の握手を交わした二人は、そのまま中へと入っていった。
「この建物は昔のままですね」
「私はそろそろ建て替えてもいいと思うんですが、ヘンリー様は王宮の改築に金を使うのが嫌なようです。人からケチだって言われても、気にしないんですよ」
「ヘンリーはケチなのではなく、お金の使い方を知っているのですよ」
「おや、五十年も会っていないのに、昔の教え子のことをよくわかっておいでのようですね」
「会わなくても、彼がやったことを見ていればわかりますとも」
ヘンリーの五十年の治世で、王国は大きな発展を遂げていた。
人口は倍増し、経済力、軍事力ともに周辺国を圧倒している。その気になれば、他国を攻めて支配することはたやすいのだが、ヘンリーは領土を広げることには興味がないようだ。
ヘンリーにとって大切なのは、国民が豊かな生活を送ることだけだ。そのことは、完全に実現できていた。
国民の大半は中流層となり、貧困な者でも生活は保障されている。かつて国内に餓死する者がいたことなど、誰も覚えていないだろう。
そんなヘンリーは先月、王位を息子に譲って退位していた。
「なぜ彼は、この時期になって譲位したのでしょうか」
「ヘンリー様は五十年もこの国を統治し、今はもう六十八歳です。そろそろ休ませてあげてもいいと思いませんか?」
「そうですね」
老いは、誰にも平等に訪れる。
七十五歳になったイライザは、今も背筋がピンと伸び、歩く姿は若々しい。それでも、体のあちこちにガタがきているのは実感していた。
「それにしてもイライザ殿、たまには顔を見せてくれてもよかったのに。ヘンリー様はさびしがっていましたよ」
「王妃の存命中は、会わないと決めていたのです」
王妃のクララは、一年前に世を去っている。
それでようやく、イライザはヘンリーの招待を受け入れたのだ。
「ヘンリー様は、こちらでお待ちです」
「ここは……食堂ですね」
ピカリングに案内されたのは、ヘンリーとの思い出が深い食堂だった。
「それでは、私はこれで」
「えっ? 一緒にヘンリーと会ってくれるのではないのですか?」
「感動的な師弟の再会を見たい気持ちはあるのですが、今は遠慮しておきましょう」
ピカリングはそう言って立ち去った。
イライザは意を決して、扉を開いた。中に入ると、五十年前に戻ったような気分になった。
大きすぎるテーブルはなくなっており、四人用の丸いテーブルが部屋のあちこちに配置されている。
そのうちの一つのテーブルに、ヘンリーが座っていた。
イライザが入ってきたのを見ると笑顔を浮かべ、立ち上がって近づいてきた。
髪もひげも真っ白になっているが、スタイルの良さは変わっていない。若いころから美男子と言われていた彼は、今も男の色気を漂わせていた。
「お久しぶりです、イライザ先生」
そう言うヘンリーの笑顔は、あの頃のあどけなさを残していた。
「よい歳の取り方をしているようですね、ヘンリー」
「どうせなら四十代の頃の私を見てほしかったですよ。あの頃の私が一番かっこよかった気がします」
「私は何度も見ていましよ。あなたは領内のどこにでも姿を現しましたからね。自ら農具をもって、農民と一緒に農作業をしようとするので、よく側近から注意されていましたね」
「見ていたのなら、声をかけてくださればよかったのに」
「ふふっ」
自然に会話ができている自分が不思議だった。二人とも、年齢を重ねたせいかもしれない。
「さあ、席につきましょう」
ヘンリーはイライザをエスコートして、窓際のテーブルへと案内した。
そして料理が運ばれてきた。
柔らかく蒸したパン、きのこのスープ、サラダ、ヒラメのムニエル、フルーツジュース。そしてメインにサーロインステーキだった。
ステーキは、イライザの手のひらぐらいのサイズがあった。
「ごめんなさい、私はこんなにたくさん食べられそうにありません」
「そうですか、では私が少しいただきます」
ヘンリーはイライザの皿から、ステーキを半分ほど切り分け、自分の皿に持っていった。
「あなたは今でも、そんなに肉を食べられるのですか?」
「ステーキならいくらでも食べられますよ。ピカリングは気の毒なことに、歯が弱って食べられなくなりましたけどね」
「まあ」
それから二人は食事を楽しんだ。お互い話したいことが多すぎて、何から話せばいいかわからない、という感じだった。
「先生は今でも独身でいらっしゃいますね」
ヘンリーはそんなことを聞いてきた。「先生なら引く手あまただったでしょうに。なぜ結婚されなかったか、聞いてもよろしいでしょうか」
「私は独りが性に合っているのです。それに引く手あまたということはなかったですね。男性と付き合ったことは何度かありますが、いつも長続きしませんでした。どうも男性は私のことを、高慢で鼻持ちならない人間と思ってしまうようです」
「なるほど、よく理解できます」
「打ちますよ」
「それも悪くないですね。先生に殴られたのはこの部屋でした。あの時の先生は怖かったな」
「今にして思えば、無茶なことをしたものです。とはいえ、私が悪かったとは思いません」
「そう、先生はいつだって正しかった。……これは私の想像ですが、先生は相手の男に対しても、教師が教え子に接するように、正しく導こうとしていたのではありませんか?」
「…………」
そんなことはない、とは言えなかった。イライザには心当たりがなくもない。付き合った男が、どうしてもバカに思えてしまい、つい説教をしてしまうのだ。
「イライザ先生は、根っからの教師なのです。だから男と対等な立場で付き合うことができないのだと思います。そんな先生と付き合えるのは、素直に教えを受け入れられる男だけです。私のようにね」
「え……?」
「先生は私を愛していると言ってくださいました。その気持ちが少しでも残っているなら、どうか私と結婚してください」
イライザは慌てた。まさかそんな話になるとは思わなかったのだ。
「私はもう、七十五歳ですよ」
「私は六十八歳です。それほど不釣り合いでもないでしょう」
「私の顔をごらんなさい。しわくちゃで、シミだらけでしょう」
「外見など、大した問題ではありません。私は若くて美しいというだけの女なら、嫌というほど見てきました。ですがどんなに上手に化粧をしても、内面の醜さを隠すことはできません。私が本当に美しいと感じたのは先生だけです。今もその気持ちは変わりません」
「あなたは王たる者の責務を……いえ、もう王ではないのでしたね」
「はい、もう退位しています。自慢じゃありませんが、息子はなかなかの器量の持ち主です。きっとこの国をさらに発展させてくれるでしょう」
「クララは……もう亡くなったのでしたね」
「はい。私はクララのことを、ちゃんと愛しているふりをしていました。彼女は死ぬまで、私の愛を疑っていなかったと思います」
「私は愛する努力をしなさいと言ったはずですが」
「その前には、先生の教えにとらわれず、自分で考えて行動しろとも、おっしゃいましたね。私はそのとおりにしたのです」
イライザはヘンリーと結婚しない理由を探したが、見つからなかった。
そして、彼女は今でもヘンリーを愛おしく思っている。ならば……何も問題は無いのだろうか。
「私は五十年以上この国を統治し、国を発展させてきました。国民は平和で豊かな生活を満喫しています。私は『王たる者の責務』を果たしたと言えないでしょうか」
「充分すぎるぐらいに果たしています」
「ならば、残りの人生を好きなように楽しむぐらいの贅沢は、許されるのではないでしょうか?」
イライザはもう、反論する気にならなかった。
「私はまた、あなたに対して教師のように振る舞ってしまうかもしれませんよ」
「それこそが僕の望みなんですよ、先生」
ヘンリーは子供のような笑みを浮かべた。イライザは昔から、この笑顔が好きだった。
―――
食事の後、ヘンリーはイライザを自室に案内した。
「まだこの部屋を使っているのですね」
「私の思い出が詰まった部屋です」
ドアを開けたヘンリーは「ちょっと待っていてください」と言って先に部屋に入り、何かを取ってきた。
「この部屋は、今も土足厳禁なので」
そう言うとヘンリーは片膝をつき、イライザの前にスリッパをきれいに並べて置いた。
「イライザ先生、スリッパをどうぞ」
「ふふ、及第です」
イライザはヘンリーに微笑みかけると、そのスリッパを履いて部屋に足を踏み入れた。
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