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5.最後の教え

 イライザがヘンリーの家庭教師となってから、三年の月日が流れた。


 今日はイライザとヘンリー、そしてピカリングは小麦畑に来ている。目の前には薄茶色に色づき、収穫期を迎えた小麦が一面に広がっていた。


「きれいですね、イライザ先生。今年は豊作だそうですよ」

「ええ、何よりです」


 イライザは「きれいですね」の言葉に一瞬ハッとなったが、それが小麦畑のことを言っていると気づき、慌てて平静さを装った。


 十八歳になったヘンリーは、イライザよりも頭一つ分、背が高くなっている。

 体型はスラッとしているが、農作業で鍛えた体には、自然な形で筋肉がついていた。顔は鋭く引き締まり、精悍な印象を受ける。


 ぽっちゃりとしていた三年前の面影はほとんど残っていないが、時折見せるあどけない表情が、イライザは好きだった。


「気候がよかったですからね。これで飢えに苦しむ人が少なくなればいいんですが」


 飢餓の問題は、いっこうに改善されていない。王は相変わらず政治を顧みず、酒におぼれる生活を送っていた。


「今は我々にできる範囲で頑張るしかないでしょうね。それじゃ王子、始めましょうか」


 ピカリングは鎌を手にして、やる気を見せている。彼もヘンリーと同様、農作業で体を動かすのが好きなのだ。

 今日は農家の者に頼んで、収穫を手伝わせてもらうことになっていた。


「よし、やるぞピカリング!」


 ヘンリーも鎌を手に取り、嬉々として小麦の収穫を始めた。


「まったく、農家の人が困っていましたよ。王子に作業を手伝わせるなんて(おそ)れ多いんですって。そう思って当然でしょうね」

「僕に農作業をやってみろと言ったのは先生じゃないですか」

「農業の大変さを体験しておいた方がいいと思ったからです。まさか、あなたがここまで夢中になるとは思いませんでした」

「まあ、このぐらいのわがままは許されるんじゃないですか? この農地は国のものですし」


 ピカリングが言う通り、この国の農地は全て国有である。それを農民に貸し出して作物をつくらせているのだ。


「そのことで僕に考えがあるんです」


 ヘンリーは小麦を刈り取りながら言った。「農地の私有を認めてはどうでしょうか。新しく農地を開発すれば、開発した者がその農地を所有するんです」


 イライザは感心した。ヘンリーは自分の頭で、今まで誰もやらなかった農地改革を考え出したのだ。


「なるほど、そうなれば人々はこぞって土地を開墾し、国の農地が増えますね。それは食糧の増産につながります。とても良い考えだと思います」


 ヘンリーは満面の笑みを浮かべた。彼はイライザに褒められるのが何よりも嬉しいのだ。


「先生にそう言ってもらえると、自信になります。もちろん実際にやろうとすれば、いろいろな障害があるとは思いますが」

「あなたにやる気があれば、障害は越えていけます。ぜひおやりなさい」

「はい!」


 ヘンリーはイライザに対しては常に素直だった。イライザはそんなヘンリーが好ましかった。


「さて、じゃあ私もやろうかしら」


 イライザも鎌を手に取った。左手で麦をつかみ、右手の鎌でザクッ、ザクッと刈り取っていく。


「先生、腰を痛めないように気をつけてくださいね」

「心配はいりません。私はあなたより経験があるんですよ」

「さすが、人生の大先輩は年季が違いますね」


 茶化すように言うヘンリーに、イライザは口をとがらせて文句を言った。


「もう、私はあなたと七つしか歳が違わないんですよ」

「アハハハッ、そうでしたね」

「ふふっ」


 イライザはこの時間がいつまでも続けばいいのに、と思った。


「先生、実はまだ考えていることがあるんです。聞いてください」

「何かしら」

「食べることができないほど貧しい人から税を取るのは間違っています」


 ヘンリーは、イライザの故郷の村を訪れた時のことが、ずっと頭から離れないようだ。


「だから、貧しい者からは税をあまり取らないことにして、その代わり金持ちからたくさん取ればいいんです」


 イライザは手を止め、ヘンリーに向き直った。


「素晴らしい考えだと思います。ですが、富裕層からは強い反発があるでしょう」

「僕にやる気があれば障害は越えていける、そうでしょう?」

「ええ、そうですね」


 イライザは誇らしかった。三年前のヘンリーから、誰が今の彼を想像できただろうか。


「これは国の経済のためにも必要なことなんです。この国には一握りの富裕層がいて、それ以外のほとんどの人は貧困層です。これはいびつな状態です。一握りの富裕層だけがお金を使っていても、景気は良くなりません。たくさんの中流層が様々な物を買い求めるようになってこそ、内需が増大します。格差を少なくすることで景気がよくなり、経済成長が実現するんです」

「内需の増大? 王子はずいぶん難しいことを考えているんですね」

「当然だよ、サー・ピカリング。僕は先生から経済学も教わっているんだから」


「いえ、私が教えたのは基礎的なことだけです。ヘンリー、あなたは自分の頭の中でそれを発展させ、新しいアイデアをどんどん生み出しています。とても素晴らしい事です。その調子でこれからも、私の教えたことにとらわれず、自分で考えて行動しなさい。今のあなたなら、それができるでしょう」


 イライザはヘンリーを手放しで褒めた。


「もう、私からあなたに教えられることは無いのかもしれませんね」


 そして、思わず本音を漏らした。


「先生……」


 ヘンリーも手を止め、イライザを見つめた。どこか気まずい雰囲気が漂った。

 やがてヘンリーは、意を決したように言った。


「サー・ピカリング、しばらく離れていてくれないか。先生と大事な話がしたいんだ」

「わかりました」


 ピカリングは素直に従い、その場を立ち去った。

 イライザは何の話をされるのかわからず、戸惑っていた。


「先生、僕は来月、エインスフォード公爵の娘のクララと結婚することになりました」

「えっ?」


 イライザはもちろん、二人が婚約しているのは知っていた。だが、ずいぶん急な話だと感じた。


「気が進まなかったので、今まで延ばし延ばしにしていたんです。でも、公爵家の催促をこれ以上断り続けることもできません」

「そうだったのですか……」


 おめでとう、と言わねばならないのはわかっていたが、なぜかイライザにはその一言が言えなかった。


「でも、僕はクララと結婚したくはありません」

「……なぜかしら?」

「先生がいるからです。僕は三年間先生の教えを受け、先生より素敵な女性はいないということを知ってしまいました。クララが嫌いなわけではありません。先生と比べると、どんな女性もつまらなく思えてしまうんです」


 イライザは言葉を失った。


「こんなことを言うべきではないかもしれません。でも、言わずにはいられないんです」

「…………」

「先生、僕は先生のことが好きです。どうか、僕と――」

「ヘンリー」


 イライザは跳び上がって喜びたい気持ちを必死に抑え、ヘンリーの言葉をさえぎった。「それ以上、言ってはいけません」


「先生……」

「あなたは王になるのです。『王たる者の責務』を果たさなければなりません。恋愛結婚は、庶民にだけ許される贅沢です」

「先生と一緒になっては、責務を果たせないのですか?」

「先ほどあなたは素晴らしい考えを話してくれましたね。農地改革も、富裕層からの増税も、ぜひやり遂げてください。でも、それを実現するには、有力貴族であるエインスフォード公爵を味方につけることが、どうしても必要でしょう」

「だからクララと結婚しなければならないと?」


 イライザは言いたくないことを言わねばならない、と思った。自分一人の幸せよりも、三百万の国民の方が大切だ。


「ヘンリー、私からあなたへ、最後の教えを授けます」

「えっ……?」

「あなたはクララを愛するように努力しなさい。国王と王妃の不仲は、国の危機につながるからです」

「そんな……」

「だから……私とあなたは、もう会わない方がよいと思います」


 イライザは下を向いてそう言った。これ以上、ヘンリーの悲しむ顔を見たくなかった。自分の泣きそうな顔を見せたくなかった。

 永遠とも思えるほどの、沈黙が続いた。やがてヘンリーが口を開いた。


「わかりました。僕はクララと結婚します」

「…………」

「だから、ひとつだけ僕の質問に答えてください。先生は僕のことをどう思いますか? 教え子としてではなく、男としてです」

「愛しています」


 イライザは、下を向いたまま即答した。嘘を言うことはできなかった。


「その言葉を聞けて、天にも昇るような気持ちです。僕はこれから先生のその言葉を心の支えとして、『王たる者の責務』を果たします。先生、今までありがとうございました」


 ヘンリーは今、笑っているのだろうか、それとも泣いているのだろうか。

 それを知りたかったが、イライザは顔を上げることができなかった。




―――




 一ヶ月後、ヘンリーとクララは結婚した。


 その三ヶ月後、国王が崩御(ほうぎょ)した。あんな酒の飲み方をしていれば、長生きできないのは当然だろう。

 ヘンリーは即位し、王となった。


 まずヘンリーがやったことは、貧困層に穀物を無償で配給したことだった。

 しかも、一度配給しただけで終わらせてはいない。食に対する不安が解消されるよう、収入が少ない者には、継続的に配給する仕組みをつくった。


 これには、反対意見も多かった。『財源はどうするのか』『働かなくても食糧がもらえるのでは、誰も働かなくなる』などと言って、ヘンリーを(いさ)めようとする者が何人もいた。

 ヘンリーはそんな者たちの意見を、こう言って退けた。


「まずは食べさせろ。話はそれからだ」




―――




 ヘンリーが即位してから、五年の月日が流れた。

 大学で教鞭をとっていたイライザは休暇を取り、故郷の村を訪れた。


「おう、イライザじゃないか。久しぶりだな」

「ネポマックさん、ずいぶん太ったわね」


 ヘンリーと共に訪れたときは、ネポマックは手足が棒のようにやせこけていたが、今は大きく横にふくらんでいた。


「太ったんじゃねえ、これは筋肉だ」


 ネポマックは力こぶをつくって見せた。「来月、王都でハンマー投げ大会が開かれるから、それに出場するために鍛えてるんだ」


「まあ、スポーツを楽しめるなんて、ずいぶん余裕があるみたいですね」

「ちゃんと働いてもいるぞ。さっきも畑を耕してきたところだ。自分が作ったものを自分で食べられるんだから、やりがいがあらあな」


 この村の税率は適正な水準まで下げられたので、住民は普通の生活ができるようになっている。都市と農村の経済格差も縮まったので、わざわざ都市に働きに出ていく必要もない。

 イライザはネポマックと別れ、村の奥へと歩を進めた。


『病院』は今もそこにあった。だがそれは、本当の病院だった。ドクター・ピアスが医者として勤務していた。


「ヘンリー王が即位してから『患者』が来なくなってな。暇だから、俺は王都で医術の勉強をしていたんだ」


 ドクター・ピアスは本物の医者になっていた。彼の病院に来る患者は、治る可能性のある患者だけである。


 人々は、食べることができるようになっていた。これは全て、ヘンリーの善政の成果と言っていい。

 イライザは誇らしい気分だった。『賢王』として人々から称えられている人物は自分が育てたのだと、村人たちに自慢してまわりたかった。


 さすがにそんな恥ずかしいことはできないので、代わりに王都の方角を向いて、そっとつぶやいた。


「及第です」

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