4.ヘンリーの改心
イライザは王宮に入ろうとしたところで王妃から解雇を告げられ、ヘンリーと引き離された。別れの挨拶を交わす暇さえ与えられなかった。
ピカリングが王妃を説得しようとしてもだめだった。それどころか、ピカリングもヘンリーから遠ざけられた。
王妃は王に対しイライザを解雇するよう訴え、王がそれを聞き入れたのである。食事を抜くのはやり過ぎだと、王は判断したのだ。王太后はもちろん抗議したが、王は考えを変えなかった。
「さあヘンリー、あんな家庭教師のことは忘れて、好きなだけお食べなさい」
ヘンリーの目の前には、例によって食べきれないほどの料理が並んでいる。
だが今彼の頭に浮かんでいるのは、これだけの食べ物があれば、あの村の者たちの腹を満たすことができるのに、という思いだった。
あの死にかけた少年が涙を流して喜びながら、思う存分この料理をたいらげる光景を想像して、せつなくなった。
ヘンリーは、ベーコンとタマネギの入った琥珀色のスープを見た。
食欲をそそるかぐわしい匂いがただよっている。このスープなら、あの少年も飲めないだろうか。
だが、彼も食欲には逆らえなかった。スプーンでスープをすくいとると、ゆっくりと口に流し込んだ。
なぜか涙が出てきた。こんな美味しいものを食べたのは初めてだ、という気がした。
自分だけがこんなに美味しいものを食べていいのか、と思ってしまう。だが、そんな罪悪感も食欲には勝てなかった。ヘンリーは次々と目の前の皿を片付けていった。
「昨日の料理人を呼んでくれないか」
ヘンリーは給仕に声をかけた。
昨日ステーキを投げつけられた料理人がやってきた。この上もなく暗い顔をしている。また、料理を投げつけられると思っているのだろう。
「今日の料理も、お口に合いませんでしたでしょうか」
「いや、とても美味しかった。こんなうまい料理を食べたのは初めてだ。ありがとう」
その言葉に、王妃や使用人たちは呆気に取られている。料理人に礼を言うなど、初めてのことだ。ヘンリーはさらに続けた。
「そして、昨日はごめん。あのステーキもきっと美味しかったんだ。僕の心がゆがんでいたから、まずく感じてしまったんだ」
「王子、ど、どうか、頭をあげてください」
信じられない光景だった。あのヘンリーが謝罪するとは、誰も想像すらしていなかった。
ヘンリーは、イライザがここにいれば、「及第です」と言って自分を褒めてくれるだろうか、と考えた。
―――
「ヘンリー王子、お初にお目にかかります。私はエインスフォード公爵の長女、クララと申します」
「ああ、よろしく」
一週間後、ヘンリーはエインスフォード公爵の邸に招かれ、その娘のクララを婚約者として紹介された。
公爵は広い領地と強力な軍を持つ有力貴族で、王家としてはぜひ深い関係を築いておきたい人物だ。だからヘンリーの政略結婚の相手として、クララが選ばれたのである。
クララはヘンリーより一つ年下の十四歳で、顔立ちは美しく、所作も洗練されていた。
「さあさあ、堅苦しい挨拶は抜きにして、今日はエインスフォード家自慢の料理を楽しんでいってください」
公爵の音頭により。立食パーティーが始まった。
広間の壁際には棚が設置され、その上には数えきれないほどの種類の料理が並んでいる。各人が自分の皿に食べたい料理を取り分けていく、ビュッフェ形式だった。
ヘンリーは肉料理を中心に、料理を取っていった。
「あら、王子はとてもよく食べると評判ですのに、意外と慎み深い取り方をなさいますのね」
そう話しかけてきたクララの皿を見ると、なんとすべてケーキだった。こんなに大量のケーキを食べるなど、ヘンリーにもできそうにない。
「それ、みんな食べるの?」
「まさか」
クララは笑った。「それぞれ一口ずつ食べるんです。どうせなら、たくさんの種類のケーキを味わいたいでしょう?」
つまり一口だけ食べて、後は残すということだ。
ヘンリーはげんなりした。クララの姿は、イライザと会う前のヘンリーの姿だった。
彼女に食べ物を大切にしろなどと注意しても、聞き入れられないだろう。ヘンリーもそうだったからだ。
飢えた経験がない人間には、そしてあの村の惨状を見ていない人間には、理解できないことなのだ。
周囲を見ると、誰もがクララと同じような食べ方をしていた。
ヘンリーは、この場にいるのが嫌になった。イライザに会いたかった。
―――
イライザは、再び王宮にやってきた。
正門の前には、ピカリングが待っていた。
「おひさしぶりです、イライザ殿」
「こちらこそ、サー・ピカリング。まさか、またここに来られるとは思いませんでした」
「ヘンリー王子が国王陛下に直談判したのです。『もう一度イライザ先生を家庭教師として雇ってください。雇ってくれるまで、僕は何も食べません』と言ったそうですよ」
「あのヘンリーが、私のためにハンガーストライキを?」
「王子は間食もやめたようです。イライザ殿の指導が、よっぽど効いたんでしょうね」
二人はそのまま、ヘンリーの部屋を訪れた。
「ほらよ」
出迎えたヘンリーは、スリッパをイライザの胸に突きつけた。
「初めて会った時よりは、かなりマシになりましたが、まだまだ礼儀を知らないようですね。せっかく再会できたというのに」
「か、勘違いするなよ。僕は先生にまた会いたかったわけじゃなくて、先生がかわいそうだと思ったから、お父様にお願いしたんだ」
イライザは、照れた顔でそう答えるヘンリーが、微笑ましかった。
「そうですか、私はヘンリーにまた会えて、嬉しいですよ」
イライザがそう言うと、ヘンリーは顔をそむけてボソッとつぶやいた。
「……先生なら、僕が知らないことを、もっともっと教えてくれると思ったんだ」
「ふふ、では期待に応えなければいけませんね」
―――
男がハンマーで牛の眉間を強打すると、牛は意識を失い倒れこんだ。
動かなくなった牛の頸動脈を、別の男が鋭利なナイフで切りつける。すると、驚くほど大量の血が流れ出た。
「ウッ……」
ヘンリーは口元を押さえている。
「ヘンリー、しっかり見ておきなさい。あなたの大好きなステーキは、こうやってつくられているのです」
ヘンリーは生きている牛を見たことはある。血抜きされて切り身になった状態の肉も、もちろん見たことがある。
だが、その間の工程を見たのは初めてだった。
「イライザ殿は相変わらず厳しいですね。王子に屠殺場を見学させるとは」
「確かに、刺激が強すぎるかもしれません。ですが、王子には見ておいてほしかったのです」
イライザは作業をしている者たちを示した。「あの人たちは、あまり人から感謝されることがないのです。私たちが肉を食べられるのは、彼らのおかげだというのに」
「彼らの技術はたいしたものですよ。牛は自分が何をされたのかわからないまま、あまり苦痛を感じることなく死んでいると思います」
「ええ、彼らは熟練の職人ですから……ヘンリー、大丈夫ですか?」
「大丈夫」
ヘンリーは口から手を離し、現場をしっかりと見た。「だが、僕にはあんなことはできそうにないな」
「ええ、私にも無理です。だからこそ、あの人たちは素晴らしいのです」
「そうだな」
「王子、あれを見て肉を食べるのが嫌になったんじゃありませんか?」
「何を言うんだ、そんなわけないだろ」
ヘンリーはピカリングに言い返す。「そうだ、今夜はステーキを食べよう。あいつらに感謝しながら食ってやるぞ」
イライザは微笑んで、ヘンリーの頭をなでてやった。
「及第です」