3.王たる者の責務
「口べらしのために殺したって……誰がそんなことを?」
「もちろん両親がです。育てることができないので、嬰児のうちに殺すしかなかったのです」
ヘンリーはまたしてもショックを受けている。
親が子供を殺すなど、信じられなかった。
身分の低い者や貧しい者がいるのは知っていたが、生きることさえ許されない者がいるとは、想像もしていなかった。
「あなたに見せたいものは、この先にあります。ついてきてください」
「こ、この上まだ何かあるのかよ」
抵抗する気力も失せていたヘンリーは、おとなしくついていった。
人気の少ない村の中の道をたどっていくと、草木が生い茂る場所にたどり着いた。そこに一軒の家があり、その隣には倉庫のような建物が建っていた。
「イライザ殿、ここは?」
「ここは『病院』です。本当にどうしようもなくなった村人は、ここに運ばれるのです」
「どうしようもなくなってから、病院に運ぶのですか?」
イライザはピカリングの質問には答えず、家に入っていった。中は普通の民家のようで、テーブルやイス、ベッドなど、必要最低限の家具が置かれていた。
男がベッドに寝転がり、本を読んでいた。イライザたちが入ってきたのに気付くと、顔を上げた。
「なんだ、また『患者』が来たのかと思ったら、イライザか」
男は三十歳ぐらいで、やせてはいるが、ネポマックよりは栄養状態がよいようだ。
「ドクター・ピアス。この子に『患者』を見せてあげたいのです」
イライザがそう言うと、ピアスはヘンリーをジロジロとながめた。
「見たところ、いいところの坊ちゃんのようだが、あんなものを見せて大丈夫なのか?」
「この子はヘンリー、この国の第一王子です」
イライザはここでヘンリーの素性を明かした。ピアスはさして驚くこともなく、納得したようにうなずいている。
「そうか、ついてこい」
ピアスは家を出ると、隣の倉庫に入っていった。イライザたちはそれに続く。
倉庫の中は意外に広く、一本の廊下が奥までのびている。廊下の左右には、扉が三つずつあった。
「今いる『患者』は一人だけだ」
そう言ってピアスは一番手前のドアを開け、イライザたちを中に入れた。
そこはベッドが一つ置かれているだけの、狭くて殺風景な部屋だった。
そのベッドの上に、十歳ぐらいの少年が寝ていた。衣服は下着しか身につけていない。
ネポマックとは比べ物にならないほどやせているが、おなかだけは大きくふくらんでいる。
イライザたちが入っていっても、ピクリとも動かなかった。
「し、死んでるのか?」
イライザは少年のそばにかがみこんだ。
「いえ、まだ息があります。ですが、ここまで衰弱してしまっては、もうどんな名医でも彼を治すことはできません」
少年はイライザに気づいているのかいないのか、まったく反応しない。目の焦点が合っていない。
かすかに胸が上下しているので、生きてはいるのだろう。
ヘンリーはこの場を逃げ出したかった。目の前にあるものが、怖くてたまらなかった。
だが、なぜか目をそらしてはいけない気がした。
もはや、イライザに対する反感も、自分の空腹も忘れていた。
おそるおそる少年に近付き、イライザの隣にかがみこんだ。
「こんな状態になる前に楽にしてやった方が、慈悲深い行為だったと思いますがね」
ピカリングの声には、軽い怒りが含まれていた。
「嬰児なら死産ということにできますが、既に出生登録されている人間が死んだ場合は、役所に届け出なければなりません。その時に殺したことが発覚すれば、罪に問われてしまいます」
「ああ……確かに」
「お、おまえは医者なんだろ。なんとか助けられなかったのかよ」
ヘンリーがピアスを責めた。
「俺は医者ということになっているが、医療の知識など持ってはいない。まあ、本物の医者だったとしても、飢餓は治せないだろうがな。俺の仕事は、死体を焼却して埋めることだ」
「な、どういうことだ!?」
「ヘンリー、ここは本当は『病院』ではないのです」
イライザが答えた。
「人は、愛する家族が餓死しようとしているのを、近くで見ていることに耐えられないのです。何もしてあげられない無力さに耐えられないのです。
だから『入院』と称してここに運び込み、医者であるピアスさんに治療をしてもらっている、と思うことにしたのです。
そして、その者のことは見ないことにしました。そうしなければ、心が壊れてしまうからです」
イライザは少年の手を、両手で優しく包み込んだ。
「ですがヘンリー、あなたには目をそらさず、見てほしいのです。彼は、あなたが守らなければならない国民なのですから」
「お、お父様は……」
「今の王は何も見ていません。彼は『王たる者の責務』を果たしていません」
「王たる者の責務?」
「王には、いくつもの責務があります。中でも最も重要な責務は、国民に食べさせることです」
「…………」
「私には、貧しい人にわずかなお金と食料を分け与えることしかできません。でもそんなことでは焼け石に水です。根本的に国を変えなければならないのです」
「それで、王子の家庭教師を引き受けたのですか?」
「そのとおりです、サー・ピカリング。ヘンリーを立派な王に育てることで、この国を救いたかったのです」
「む、無理だよ……。僕にそんなことができるわけが……」
「ヘンリー、あなたは王となる宿命を背負って生まれてきてしまいました。それは決して幸せなこととは限りません。衣食住に不自由しない代わりに、とても重い責務を追わされているからです」
「それが、王たる者の責務?」
「はい」
ヘンリーは、目の前の少年の顔にそっと触れた。
少年の目の焦点が合い、「助けて」と訴えるようにヘンリーを見つめた…………ように、彼には思えた。
―――
王都に帰る馬車の中で、ヘンリーはじっと何かを考え込んでいる。
イライザが話しかけても、「うん」とうなずき返すだけで、ほとんど口を開かない。腹が減ったと文句を言う事もなかった。
イライザは心配になった。少々刺激が強すぎたかもしれないと。
彼はまだ十五歳である。昨日まで何不自由なく暮らしていたのに、いきなりあんな光景を見せられては、そのショックは大きいだろう。
「イライザ先生」
ヘンリーが話しかけてきた。彼が「先生」と呼んだのは初めてである。
「なんで、贅沢な暮らしをしている人がいる一方で、食べることさえできない人がいるの?」
「お金持ちは、自分が持っている資産を運用して、さらに資産を増やすことができます。貧しい者はいくら働いても、生きていくだけで精一杯なのです。そうやって格差がどんどん開いていくのです」
「あれは『貧しい』なんてレベルじゃないよ!」
ヘンリーは怒っていた。
「それに、僕は働いたことなんてないのに、好きなだけ食べることができる。お父様も全然働いてないのに、酒を飲み続けていられる。なんでだよ!」
イライザはヘンリーがいとおしく思えてきた。「人の気持ちが分からない人間」だった彼が、貧しい者の境遇を思いやって義憤を感じているのだ。これは、とても大きな進歩だ。
「及第です」
「えっ?」
「あなたは自分のためではなく、名前も知らない他人のために怒ることができるようになりました。立派ですよ。私の行き過ぎた指導についてきてくれて、感謝します」
イライザが彼を褒めたのは初めてだ。
「い、行き過ぎた指導だって自覚はあったんだな。ひどい教師だ」
ヘンリーはそう文句を言いながらも、まんざらでもなさそうだ。
「ふふ、そうですね。では、多少やり方を改めましょう。王都に帰ったら、食事をしてもいいですよ」
「え? いいの? 三日間のはずだったんじゃ」
「飢えの苦しみを、もう充分すぎるほどわかってくれたようですからね」
「でも、なんだか悪いよ。食べられなくて死ぬ人がいるのに、働いていない僕が食べてもいいだなんて」
「あなたは王になってから、嫌になるほど働くことになります。だから今は、食べなさい」
「でも……」
「王子、食べてあげた方がいいですよ」
ピカリングが御者台から声をかけた。「王子が食べないと、イライザ殿も食べられませんからね」
「なっ、私はそんなつもりで言ったのでは――」
「アハハハッ」
ヘンリーはイライザの前で、初めて笑った。
その子供らしい純真な笑顔は、イライザの目にまぶしかった。
どうやら、今後のイライザとヘンリーの関係はうまくいきそうだ、と三人は感じていた。
だが、そうはならなかった。
王都に帰った彼らを待っていたのは、イライザの解雇の通知だった。