2.「食」の授業
頬を張られたヘンリーは、何が起きたのか理解できず、呆然としている。
真っ先に反応したのは王妃だった。
「私のヘンリーに、何てことをするの!」
そう言って席を立ち、イライザのもとへつかつかと歩み寄った。
「教師とはいえ、平民の分際でこんなことをして、どうなるかわかってるんでしょうね!」
「お言葉ですが、平民ではない王妃殿下が普段からヘンリーを叱るべきでした。それをしなかったから、彼は人の気持ちが分からない人間に育ってしまったのです。あなたは母親としての義務を果たしていません」
まさか言い返されるとは思わなかった王妃は、顔面が怒りで紅潮している。
「衛兵! 今すぐその女を捕えて、牢に放り込みなさい!」
「まあまあ、そのように熱くならないでください」
いつの間にか、ピカリングがそばに来ていた。「暴力はよくないですが、今のは仕方ないと思います。王子は殴られる者の痛みを知っておく必要がありました」
「あなたまで何を――」
「王太后陛下は、イライザ殿に体罰の許可を出しています。死なない程度なら構わないと」
「なっ、なんですって!? お義母さまがそんなことを!?」
王太后は王妃よりも立場は上である。
「私は体罰を肯定はしません」
イライザは王妃の目をまっすぐに見つめて話す。「でも、ヘンリーは普通の子供ではありません。彼は将来、王になることが確定しています。他人の痛みが分からない人間が王になっては、五百万人の国民が苦しむことになります」
それで王妃との話は済んだとばかりに、イライザはヘンリーに向き直った。
「来なさい。食べ物を粗末に扱ったあなたには、まだ教えなければならないことがあります」
「ふ、ふざけるなよ、おまえ。ぼ、僕にこんなことをして」
ヘンリーは泣いていた。頬の痛みではなく、心の痛みのためである。
王子である自分が平民の女に平手打ちをされ、それに反撃することができない。これ以上の屈辱はなかった。
「いいから来なさい。これは命令です」
「だって、まだ食事が……」
「食事はあなたが捨てたのでしょう」
「さっ、行きましょう王子。もう充分食べたじゃないですか」
ピカリングは軽い調子でそう言うと、ヘンリーを半ば強引に引っ立てて、イライザと共に食堂を出て行った。
「ヘンリー。これから三日間、水以外のものを口に入れることを禁じます」
イライザは衝撃的なことを口にした。ヘンリーは信じられない言葉に、口を開けたまま固まっている。
「イライザ殿、さすがにそれは――」
やりすぎではないか、とピカリングは言う。
三日間も食事をさせないのは、いくらなんでも厳しすぎる。
「ヘンリーは食べ物のありがたみを知る必要があります。飢えることは苦しい、と言葉で言うのは簡単ですが、実際にどんなに苦しいかは経験した者にしかわからないのです」
イライザは引かなかった。
―――
翌朝、イライザはピカリングと共にヘンリーの私室を訪れた。
今度はスリッパは飛んでこなかった。ヘンリーはベッドに寝転がり、ぐったりとしていた。
「もう駄目だ、僕は死ぬんだ」
「まだ一食抜いただけですよ。人はそう簡単には死にません」
「昨夜からおやつを全く食べていないんだぞ。おなかに何も入ってないなんて、あり得ない」
「王子、イライザ殿も王子に付き合って断食をするのだそうですよ」
ピカリングの言葉に、ヘンリーはガバッと体を起こした。
「えっ? なんで?」
「教え子に苦痛を与えて平然としていられるほど、私は強くないのです。だからせめて、あなたと同じ苦痛を味わうことにしました」
ヘンリーはイライザの顔をまじまじと見つめた。
「ふ、ふん。だからと言って、おまえのしたことが許されるわけじゃないぞ。僕が王になったら、おまえを処刑してやるからな!」
「どうやら、まだ元気があるようですね。では、行きましょうか」
「どこへだ?」
「あなたに見せたいものがあるのです」
三人は王都を出て、馬車で街道を四時間ほど移動した。
「ここからは馬車では行けないので、歩いて行きましょう」
イライザは、街道から外れた細い道を示した。山中に分け入っていく道で、上り坂になっている。
「すきっ腹で力が出ないのに、こんな道を登れるもんか!」
「たいした距離ではありませんから」
ピカリングは「まあ、いざとなったら私がなんとかしますよ」、と言って王子をなだめた。
ヘンリーは抵抗しても無駄だと悟り、渋々と歩き始めた。
着いた先は、ひなびた村だった。
「ずいぶんしけた村だな。誰もいないのか?」
「向こうに人がいますよ」
ピカリングが指差す先には、地面に座り、家の壁にもたれかかっている男がいた。全く動かないので、ヘンリーには生きているように見えなかったのだ。
イライザはその男に声をかけた。
「ネポマックさん、大丈夫ですか」
「おお、イライザじゃないか、またこの村に金と食い物を持ってきてくれたのか?」
「ええ、少ないですが。サー・ピカリング、その荷物の中からパンを一つ、ネポマックさんにあげてください」
「わかりました」
男はピカリングからライ麦のパンとミルクを受け取ると、すごい勢いで食べ始めた。
ヘンリーは、その男がひどくやせているのに気付いた。手も足も棒のようになっており、ほとんど肉がついていない。
頬がこけ、大きな目が飛び出ている。衣服はボロボロで、体全体から悪臭を放っていた。ヘンリーは思わず、鼻をつまんだ。
「おまえ、なんでそんなところに座ってたんだ?」
「ん? なんだそのガキは」
「ガキじゃねえ! 僕はもう十五歳だ!」
「まあまあ坊ちゃん、落ち着いて」
ピカリングはヘンリーをなだめた。彼が王子であることは伏せることになっている。
「彼は私の教え子です。それよりネポマックさんはここで何をしていたんですか?」
イライザが代わりに尋ねた。
「ああ、これから畑を耕しにいかなきゃならねえんだが、腹ペコで動く気になれなかったんだ」
「だらしないな。僕は昨夜から何も食ってないが、ここまで歩いてきたんだぞ」
「そうか、俺は二日食ってねえ。その前に食べたのはいつだったかな」
ヘンリーは驚いた。
「なんで食わないんだ? おまえも誰かに食うなって言われてるのか?」
「んなわけがあるか。食う物がないからに決まってんだろ」
「この村は、自給自足ができる程度の収穫しかないのです」
イライザが説明した。「それなのに、収穫物の多くを税に取られてしまうので、自分たちが食べる分がないのです。この辺りの村は、どこもそうです」
「そ、そんな……」
ヘンリーは信じられない、という顔をしている。
「あなたは三日我慢すれば、また食べることができます。でもこの村の者は、明日食事ができるかわからない状態で生活しているのです。それがどんなに不安で怖ろしいことか、想像してみなさい」
「都市に出て行って働こうとは考えないのですか?」
ピカリングがイライザにたずねた。
「街道には関所があり、都市への移動はできなくなっています。都市に貧民が流入すれば治安が悪化するからでしょうね。農村に住む者は、国によって移動を禁止されています。彼らは国から貸し出された畑で農業をすることが、義務付けられているのです」
「イライザはこの村から外に出た唯一の人間だ。頭がよかったから、特別に学校とやらに入れてもらえたんだ」
ネポマックが口をはさんだ。
「それでは、ここはイライザ殿の故郷だったのですか」
これにはピカリングも驚いたようだ。イライザは伏し目がちにうなずく。
「私は運よく、王都の学校で学ぶことができました。そして学業で身を立てるまで、故郷には帰らないと誓いを立てました。ですが、帰らないでいるうちに、両親は亡くなっていました。二人とも、栄養不足による衰弱死だったそうです」
「栄養不足……」
つまり、餓死である。
ヘンリーは声も出せずに固まっている。食べないで死ぬ人間が現実にいるとは思わなかったのだ。
「私の妹は、生まれてすぐに間引かれたそうです」
「ま、間引くって……?」
ヘンリーが震える声でたずねる。
「殺したということです。口べらしのため、そうせざるを得なかったのです」