1.イライザとヘンリー
「イライザ先生、ヘンリーが王子だからと言って遠慮はいりません。死なない程度に痛めつけてやってください」
「よろしいのですか? 王太后陛下」
「構いません。息子たちはあの子を甘やかしすぎています。
おかげでもう十五歳だというのに、我がまま放題に育ってしまいました。勉強もスポーツもせず、一日中何かを食べているのです。
高名な人文学者であるあなたの力を見込んでお願いします。どうかヘンリーを鍛え直してください。あの子には、将来この国の王になるという自覚を持ってもらわねばなりません」
イライザはまだ二十二歳の若さながら、学識は学界において並ぶ者がなく、その名声は王国中に知れ渡っていた。
王の母親である王太后は、そんな彼女の力を見込んで、第一王子ヘンリーの家庭教師として招いたのだ。
家庭教師といっても学問だけを教えるのではなく、王子の人格の矯正まで期待されていた。
「この件は国王陛下も同意なされておいでですか?」
「家庭教師を雇うということは伝えてありますが、詳しい話はしていません。
でも、あのバカ息子が何か言ってきたとしても、気にしないでください。あれは酒にしか興味のないクズです。ヘンリーがあんな王にならないように、先生のお力に期待しているのです。
愚かな王が国を統治すれば、三百万人を超える国民が不幸になるのですから」
今がまさにそうですね、という言葉をイライザは飲み込んだ。
「わかりました。非才なれど、全力を尽くして王子を鍛え上げてみせましょう」
「ありがとうございます。先生のサポートとして、私が最も信頼する騎士、サー・ピカリングをお付けします。彼には先生に全面的に協力するよう、伝えてあります。どうかヘンリーをよろしくお願いします」
―――
「ここがヘンリー王子の部屋です。イライザ先生が来ることは、伝えてあります」
ピカリングに案内され、イライザは王子の私室にやってきた。
ピカリングは二十三歳の若い騎士で、実直そうな顔つきをしている。背が高く、その体は分厚い筋肉に覆われていることが、服の上からでも見て取れた。
イライザはドアをノックした。
「王子、家庭教師のイライザです」
返事はなかった。
イライザはピカリングに目配せするとドアを開け、中に足を踏み入れた。
スリッパが飛んできた。
イライザは身をかがめて、それをかわす。スリッパは、背後の壁に勢いよくぶつかった。
「チッ、よけやがったか」
ヘンリーは天蓋つきのベッドに腰かけ、クッキーをボリボリとかじりながら、イライザをにらみつけていた。
ふっくらとしたほっぺにはツヤがあり、かわいらしい顔立ちではあるが、十五歳にしては幼く見える。無造作にのばした銀色の髪は、寝癖がついていた。
贅沢な食事を与えられ、あまり運動することもないためか、全体的にぽっちゃりしている。
イライザは入り口に立ったまま、落ち着いた声で語りかけた。
「私は今日から王宮に住み込み、あなたの家庭教師を務めることになったイライザです。初対面の挨拶にしては、ずいぶん乱暴ですね」
「うるさい! いいからそのスリッパを拾って履いてこい! この部屋は土足厳禁だからな!」
「私の仕事はスリッパを拾うことではありません。履いてもらいたいのなら自分で取ってきなさい」
まさか拒否されるとは思わなかったのか、ヘンリーは目を見開いている。再び命令しようとするが、イライザの眼光に気圧され、思わず顔をそらした。
「チッ、まあいい。ピカリング! スリッパを拾って、この生意気な女に履かせてやれ!」
「サー・ピカリング、拾ってはいけません」
イライザは振り返って言った。「そのスリッパは、ヘンリーに拾わせるのです」
ヘンリーは憎らしげに、この新しく来た家庭教師をにらみつけた。今まで、彼の命令に従わなかった教師はいなかったのだ。
「ふざけるな! 僕がそんなことをするとでも――」
「拾ってくるまで、食事は与えません」
「は!?」
何を言ってるんだこの女は、と言いたげに顔をしかめた。
「王子、イライザ殿の言う事を聞いた方がいいですよ」
ピカリングが言った。「王太后陛下は、イライザ殿は王子に何をしてもよいという権限を与えられました。食事を与えないとイライザ殿が決めたのなら、その通りになります」
「おばあ様がそんなことを!? なんで!?」
「このままでは、あなたはダメになってしまうと、王太后陛下は判断なさったのです。だから私がここに来ました。さあ、スリッパを拾ってきなさい」
ヘンリーはイライザとピカリングの顔を交互に眺めたが、彼らが本気だと知るや、「クソッ!」と吐き捨ててから、スリッパを拾うために立ち上がった。
―――
夕食はイライザ、ヘンリー、王妃、ピカリングの四人で取ることになった。王妃はヘンリーの母親である。
王は昼から酒を飲んでいて、今は自室で就寝中である。午後八時ぐらいに目を覚まし、それから数時間たって頭がすっきりすると、また飲み始める、という生活を送っていた。
大きな長方形のテーブルの上には、肉や魚、山海の珍味がこれでもか、というほど並べられていた。
イライザは呆れた。どう考えても、四人で食べ尽くせる量ではない。
「王妃殿下、私はこんなに食べられないのですが」
「もちろん私だってそうよ。食べきれない分は残せばいいわ。残った分は使用人が食べるんじゃないかしら」
王妃はあっさりとそう言った。王族の食事とは、このようなものなのだろう。
だが、貧しい家に生まれ、豪華な食事とは縁のない人生を送ってきたイライザには、食事を残すのには抵抗があった。
ヘンリーはすごい勢いで食べ物を口に運んでいる。フォークをわしづかみにし、口の周りをべとべとに汚しながら食べる彼は、作法など全く気にしていないようだ。
そして何か気に入らないことがあったのか、給仕を呼びつけて怒鳴った。
「おい、このステーキを作った料理人を呼べ!」
「は、はい。少々お待ちください。今、呼んで参ります」
料理人が連れて来られた。五十歳ぐらいの、真面目そうな男だ。
「あの、私の焼いたステーキに何か問題がありましたでしょうか? 王子のお好み通り、ミディアムで焼き上げましたが」
「こんな堅いステーキが食えるもんか!」
ヘンリーはそう言って皿をつかむと、肉を料理人に向かって投げつけた。
「うわっ!」
料理人の顔にステーキが当たって、床に落ちた。
イライザの行動は素早かった。立ち上がり、料理人のところへ駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
「え、ええ。慣れていますから」
つまり、王子は普段からこんなことをしているわけだ。
イライザはヘンリーの横に立ち、にらみつけた。
「食べ物を無駄にしてはいけません! それにあなたは、せっかく作った料理を投げつけられた人の心を、想像できないのですか? 彼に謝りなさい!」
「なんで僕が謝る必要があるんだよ! 悪いのは、まずい料理をつくったそいつだろ!」
「あの、私のことなら気になさらないでください。王子の言われる通り、私が悪いのですから」
料理人の表情には諦めが感じられた。彼の立場では、このような不当な扱いを受けても文句を言う事はできないし、それが当然だと思っているようだ。ヘンリーからの謝罪など、望んでもいないのだろう。
イライザはヘンリーに謝罪させる必要があると思ったのだが、仕方なく諦めることにした。
その代わり、大きく手を振り上げると、ヘンリーのふっくらとした頬を、思いっきり引っぱたいた。
バチーンと高い音が、食堂に響き渡った。