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寒夜

作者: n

 長いこと屋内にいたので、外が寒いことをすっかり忘れていた。受け取った商品をバッグに詰め終える頃にはもう私の手先は完全に冷え切っていた。やはり手袋を家に置いてきたのは失敗だった。

 この日は日が落ちるのと同時に気温が激しく下がった。夜には朝方降った雨の残りが路面で凍てついて曇って、側溝からは湯気が立った。つい先週までは季節外れの暑さが続いていたのに、今となってはそれがどれほど辛かったかを思い出すこともできない。自転車のブレーキに触れても何も感じなかった。おそらくかなり冷えていたのだろう。はじめ白かった息は、しばらく繰り返して吐いているうち見えなくなった。

 配達員の仕事を始めてからもう三ヶ月ほどが経とうとしている。最初のきっかけは自分でもよく思い出せない。なにしろ配達用のバッグが家に届いたのはもう一年以上も前の出来事だし、そのときにしたって取り寄せた覚えがなかったのだ。酒に酔って気が大きくなっているときにでも登録したのかもしれないと思ったが、そういうことは後にも先にもこの一度を除いてほかになかった。単発で入った引越しの補助作業から帰ってきた日、その足で風景からこのバッグを剥がした。きっと仕事場で何か嫌なことがあったのだろうが、それがなんだったのかはこれもまた覚えていない。私は周りの人に比べるとどうやら記憶したくないことはすぐに忘れてしまうようだ。覚えているか忘れるかという違いだけで嫌なことがないわけではないが、彼らはときどき私を羨ましがる。他に生きたことがないから私にはそれが良いのか悪いのか分からないが、どちらにしてもこの癖によって大きく困ったことは今までなかったのでそれほど気を揉んだことはない。もちろんこれは困ったことがあったことを覚えているという前提があっての話だ。

 働き始めてから、私はもっと早くこの仕事を始めるべきだったと思った。配達業務は始める時間もやめる時間も自分で決めることができた。稼ぎたいときには朝から晩まで働くこともできるし、急用ができればすぐ仕事を中断することもできるというわけだ。始めるまでの手順が手軽だったことも大きい。必要となるのはスマートフォン一台のみで、自分の好きなタイミングでオンラインに繋げば近隣店舗からのリクエストが入り、それを受けることも断ることもできた。店舗と注文者からそれぞれ評価がつけられるようになっているが、商品の受け渡し以外には関わりがないのでそれほど気にする必要もない。報酬は本人次第で配達回数によって左右されたので、多く運べば週末に振り込まれる金額はそれに比例して大きくなった。その逆も然りなのでひと月に二十万円を稼ぐときもあれば一万に満たないこともあったが、不満はなかった。自分次第、ということが私には何より重要だったのだと知った。誰に強制されることもなく自律的に仕事をこなすのは、今までになく快適だった。だから三ヶ月も同じ仕事を継続できたのだと今では思う。アルバイトのようなものを全て含めても、ここまで長く続いた仕事は今までなかった。

 信号で停まり、向かいに一人の男性を見つけた。彼は自転車に跨り同じバッグを背負っていたが、モデルは私のものよりいくらか古いものを利用していた。明らかに私より歳上だった。彼はしばらく自転車に取り付けられた携帯を触っていたが、顔を上げると私に気付き、小さく会釈した。それを見て私も同じように返した。私はごく自然に彼に親近感を抱いた。信号が変わってすれ違うとき、私たちはお互いに目を合わせようとしなかった。私たちは同じように働いていながら、誰とも永遠に赤の他人同士だった。それもきっと私の性分に合っていた。

 大通りを抜けるための信号で、位置情報を示すマップが正確な地点を指していないことに気が付いた。フラグの位置に建物がないことを私は知っていたのである。この辺りでは近頃急激に再開発が進められているため、このようなことは珍しいことではなかった。すぐさま注文者に配達場所を詳細に教えてほしいという旨を書いたメッセージを残した。こういうときのために、アプリには予め注文者と配達員の間でのチャット機能が備え付けられてある。しばらくして返事が帰ってきたが、この場所は舗装道路が狭いのと人通りが多いのとで手元を見ながら運転するのは危険だったので、渡りに出るまではひとまず運転だけに集中しなければならなかった。小さな段差にさえも注意を払い、立ち漕ぎはできる限り避ける必要があった。商品の崩れは、何よりも配達員の評価に直結するからだ。

 裏の玄関口でインターホンを押すと、しばらくして中から警備員らしき男性が迎えに出てきた。扉の内側は暖かく、私は身体を包まれたような安心感を感じたが、耳と指先だけは熱湯に浸かっているように熱かった。彼は私の先を歩いた。私は彼の後をついて歩いた。外壁は一面コンクリートが打ち付けてあって下水管の中を歩いている気分だった。前の彼が死刑執行人で私が死刑囚のようだと思うと、警備用の青い制服がそう見えた。しかし彼は気を張ってはいなかったし、どちらかといえば気怠そうに歩いているのが印象的だった。

「ここに来るのは、初めてですか?」

 彼は前を見たまま聞いた。

「初めてです」

「ここ、わかりにくかったでしょう? すみませんね、表の玄関は居住者様しか使えないようになっていまして」

 私は黙っていた。

「大丈夫です。はじめはみなさん迷われますからね」

 彼は奥の警備室の扉を引き、私もその後をついて入った。入ってすぐの正面机に用紙が何重にもまとめてあった。

「氏名と用件、それと目的の部屋番号を書いてください」

 私は悴んでいる手を頻りに握り込み、言われた通り前の記入を参照しながら書いた。彼はその間ずっと私の方を見ていたが、書き終わると無愛想に入構許可証を手渡した。そこには5という数字だけが大きく記されてあった。

「ではエレベーターまで案内しますので、こちらへどうぞ」

 エレベーターの前には除菌スプレーと中の様子を映すパネルがあった。当然のことだが、人が乗っていないとエレベーターは動いているとは思えなかった。

「では帰りもこのエレベーターを利用するよう、ご協力お願いします」

 入構許可証を手に持ったまま乗り込んだ。まもなく扉が閉まると、エレベーターは静かに上り始めた。

 

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