青蛇の脱皮(仮) 2020/12時点
未完成作です。現時点で書けた分だけ。
いつか完成するかもしれないし、未完成のままかもしれません。
加筆修正はしたい。
死体の描写があります。
性描写があります。
2020/09時点
https://ncode.syosetu.com/n3425gn/
からぼちぼち加筆修正しました。
茶髪にしても淡い色合いの髪が視界を埋め尽くし、顔面を洗うようにくすぐる。自分が微睡んでいて、起こされたことに気が付くまで数秒かかった。上体を起こすのに更に数秒。美しい長髪の持ち主は傍らで、脚を崩して座っている。あのふくらはぎのかたちは、この角度だと視界に入らない。
「おはよう」幼い笑い声が混ざった挨拶。多分今は朝ではないけれど、さっきまで眠っていた人間がそれを言うのは憚られる。
「畳の上でこんなに寝ちゃって、身体痛めちゃう」声からは心配等の気遣いは感じられず、愉快そうに鳴っている。「今日はおでかけでしょ? お風呂沸かしたから、せっかくだし入っておいで。シャワーだけがいいなら別にそれでもいいけど」彼女はいつの間にか立ち上がっていた。
「その間に私、軽く何か食べとくから」
「……はい」
甘やかな雰囲気を残して、彼女が離れていく。台所から水の流れる音。
緩慢な動きで、言われた通りに風呂に入る準備をする。卵を割る音と小さな鼻歌が聞こえた。知らない歌だ。彼女の毒めいた甘い香りがする居間を出る。彼女は僕の義姉だ。
六歳年上の兄が結婚したのは二年前で、高校生だった僕はその唐突さに驚いた覚えがある。尤も兄は大学進学を機に実家を出たので、察せなかったのも無理からぬことではある。久しぶりに帰ったかと思ったら婚約者連れだった衝撃は、受験生の精神に深い混乱をもたらした。それは勿論、そこそこ仲の良かった兄が恋人を飛ばして美しい婚約者を紹介したからであるし、その美しさがこの世のものから乖離していたからでもある。
この世のものではない何かが溶け込んでいるんだろう、と今では思っている。溶け込んではいるけれど、彼女自体はこの世のものではあるのだ。厄介なことに。
風呂から上がると、まだ義姉は食事中だった。この人はゆったりと箸を動かし、ゆっくりと咀嚼し、よく噛んで食べるので、食事に時間がかかる。おまけに意外と健啖家。
今日は葱が入った卵焼きに納豆、食べ終わっているので分からないが恐らく漬物と、豚肉を焼いて何らかの味付けをしたものに五穀米だ。僕は余り料理が出来ないので義姉の料理の腕は分からないが、彼女が作るものはいつも美味しそうに見える。
しかし残念ながら、本当に美味しいかは知らない。僕は当然として、兄も。
義姉は人と共に食事をすることを嫌った。僕は勿論、夫である兄にも、実の両親さえもそうであったらしい。食事を共にしなくても、自分が食事をしている対面や隣に座られるのも「本当は嫌」、と。上等な料理店の個室で、義姉が食べている間の同席を許された兄は、義姉の食事中、酒はおろか水を飲むことも許されなかった。そして義姉の食事が終わると、兄が食事をする前に義姉はさっさと出て行ってしまう。ろくに何も言わず、兄が頼んだ料理も見ずに。
何度か義姉とファーストフードの店内利用をしたことがある。注文は一緒にした(奢って貰えた)。まず義姉が自分の食べるものを選び、次に僕が選ぶのだが、義姉と同じものを選んではいけない。そして別々の席に座る。店内が混んでいる時は渋々、本当に嫌そうに同席を許してくれるが、混んでいる時はまず行かないのでレアだ。同席した場合、義姉が食べているのを言葉少なに眺め(向こうは不機嫌なので、余り会話はできない)、義姉が食べ終わってから、僕の食事が始まる。僕が食べ始めると、あるいは食べ始める前に、義姉はさっさと他の所に行ってしまう。
残念ながら同席しなかった場合は、でも同時に食事ができる。義姉をちらちらと言うには露骨に見つめながら。義姉は食事に時間をかけるがこっちは食事に集中していないので、食べ終わる時間は余り変わらない。そしてタイミングを合わせて立って、出入り口辺りで合流する。タイミングを合わせるのは僕だけで、義姉は気にしない。思い出した時に連絡して合流すればいい、と思っている。
夫婦でもこうやって過ごしていたのだから、計り知れない。義姉は勿論、兄も。
また、義姉は自分が作った料理を他人が食べることも嫌がった。僕も兄も、手料理を振舞われたことはない。一度も。彼女は彼女が食べる為だけに料理を作る。例外は白米で、同じ釜の飯を食うことは許されていた訳だ。但しこれも白米以外は許されず、炊き込みご飯の類を義姉が作った時は、レトルトかお握りでも買ってくるか、外食するかになる。なので兄が義姉と結婚してから、兄とふたりで外食したことが何度かある。何度もある。
不思議なことに、食事中の義姉を眺めることは許されていた。何の問題もなかった。そして、普通に会話をする。義姉との会話は余り普通ではないけれど。
義姉のこの、食事に関するルールは大人になってから定めたのか、大人になるまで我慢していたのか、子供のうちから適用し周りに強要していたのかは分からない。義務教育で貫くには厳しい行動だが、あの義姉がクラスメイトと給食を摂っている光景はどうやっても想像できない。ただ、義姉の行動を妨げることも抗うこともできないことは知っているので、幼い頃からそうだったかもしれない、と推測することはできる。その光景は、想像できる。
義姉は田舎の名家のお嬢様だ。僕が泊っている家も、元は義姉の実家が所有している別荘のひとつだったという。やっぱり軽井沢にも別荘あるんですか、と昔尋ねたことがある。彼女は子供みたいに笑って、答えなかったけれど。
そんな人が、何故自由恋愛で兄と結婚したのか。経緯は未だに分かっていないが、少なくとも結婚までの父母、義父母のあれこれは順調に進んだ、らしい。
自由恋愛。尤も、兄と義姉に、恋愛感情があったように思えたことは一度もなかった。今もそれは覆されていない。兄が自殺した後も。
初めての話。
義姉との性交を兄に命じられた時、性質の悪い冗談だと思った。少し笑った覚えがある。笑いが抜けないうちに、義姉がのしかかってきた。指が食い込まない力で肩を掴まれ、太腿に脚が触れて、それだけで身体は動かせなくなった。胸元に優しく触れる唇から、何かが吸い取られる錯覚。何とか口を開いて、声を出す。けれどそれが言葉になる前に、口の中に義姉の親指が侵入した。それを堪能しなければならないので、喋ることはもうできない。喋れたとして、何を懇願していたかは自信がないけれど。
熱情を装う義姉と穏やかに見守る兄に困惑できたのはごく僅かな時間だけで、身体の単純な快感を速やかに精神も受け容れた。義姉が楽しそうに笑い、すぐに反応する。従順に。膨大な快感とあり得ない興奮の他には、悪戯を教えてくれるように笑う美しいひとだけが認識できた。あとは酷くぼんやりしていた。場所も時間も、兄のことも、自分のことも。
早々に達しかけたのを一度巧みに焦らされたが、大して長引くことなく終わった。あっさりと離れていく義姉に脳の何処かが動いた気がしたけれど、まだ身体は動かせなかったし喋れもしなかった。ゆっくりと正常な困惑が戻ってくる。義姉は「若いねぇ」と嘘みたいに俗なことを言って笑った。世間話かテレビでも観ている時の笑い方だった。
こうして僕は奇妙な生活の当事者になった。そして、兄が死んでからも抜け出せていない。
居間でボリュームを絞ったテレビをBGMに、企業取引法の教科書を流し読む。断片的に認識できる単語に途方に暮れていると、姉が遊びに来た。おそらく、遊びに。
人の膝下に両手を入れて、持ち上げ、伸ばす。そして足先までするすると移動して、足の甲を指先でなぞったり足の裏を指圧したり、指先をつまんだり、いつの間にか手にしていたウェットティッシュで丁寧に拭いたり、くすぐったり、爪を立てたりした。
右足は終わったのか、左脚の膝に近付くのに気付いて、曲げていた脚を伸ばす。左足も同じように、似たように遊ばれる。何が楽しいんだろう。本は随分前から開いているだけになっているので、諦めて閉じた。テレビは何の番組なのか分からない。掃除なのかマッサージなのか虐めなのか愛撫なのか前戯なのか、上手く認識できなくて身体が困惑しているのを感じる。
やがて左足も終わった。
「……何だったんですか」
脚を畳みながら尋ねる。思ったより低い声が出た。
「爪の切り方が下手」
けろりと義姉はそう的確に評価をして立ち上がり、何の名残もなさそうに部屋へと去っていく。
両足の裏を合わせて爪先を両手で包み、ゆらゆら身体を揺らす。落ち着いた気がしたので胡坐に座り直し、また本を開く。変わらず、内容が頭に入ってこない。
神様の悪戯で作られた美しいひと。普段冗談を言わない人が変なはりきり方をしたように、浮ついた滑稽さ。不気味で、まとまっていない。不安定で、安らがない。何処かズレていて、超自然。そんな美貌を、表情を、身体を、声を、仕草を、在り方をしている。だから誰も、義姉に惚れるなんてことはない。手元に置きたい、も厳しい。愛するなんてあり得ない。ずっと傍に居るのは余りにも不快で、耐えられない。
ただ、自分の視界が届く範囲に確保したくてたまらない。その為の犠牲はきっと膨大だが、彼女を観賞できるなら何も問題がない。観賞し続け、それだけで済ませられるなら。兄にはできなかったこと。
昨年の兄の誕生日にはビールを贈った。プレゼントのネタがなかった故の苦肉の策だったが、中々に好評だった。これに味を占めて父の誕生日にも同じことをした(とっくの昔にネタ切れだ)ところ、七割以上は母に飲まれたとのこと。仲のいい夫婦だ。
義姉へのプレゼントは、相手が喜ぶかは最低限、建前としての検討だけ済ませて、自分が贈りたい物を贈ることにした。僕が選んで、僕から義姉の手に渡って、使って欲しいものを。
黒檀の、女性用にしては長い箸。八角形に作られていて、持ち易く滑りにくい、らしい。キラキラした装飾が入ったものにするつもりだったが、品の有無が僕には分からなかったので止めた。
義姉さんよく食べるから、と言い訳みたいに言って贈った箸はお気に召したらしく、普段使いされている。尤も、物の良し悪しは関係なく、こちらの下心を好意的にからかう為かもしれない。「ありがとう」と笑って「これからばんばん使うね」と言った義姉の目や唇のかたちや声音に、悪戯めいた余裕がふんだんに含まれていたので。いつもよりも、更に、とろりと。下心。だって箸だ。毎日使うもので、食事に使うもので、手で持って、ろくに意識せずに口に含む。そして替えが効く。
昔、女の子への誕生日プレゼントを選んだ時はこんな風ではなかった。ちゃんと、相手のことを考えて喜ばせたいと思っていた。高校生の時、ごく短期間付き合っていた同級生の子。考えた結果は空回りという有様で、まだ僕が成熟していないのでほろ苦いというよりは苦々しい思い出だ。誰かの日常に自分を如何に浸透させるかなんて、必要じゃなかった頃。
義姉は人の失敗談を聞いて、屈託なく笑った。まだ兄が生きていた頃で、多分、義姉に話したのではなく兄と話をしていた筈だ。弟の恋愛関係の失敗を妻と聞く男というのもどうかと思うが、僕が恥ずかしい以外は、楽しい日常の一場面だ。
「でも、もうどうでもいい思い出でしょ?」
微笑む義姉に、頷いたのは覚えている。何を思ったかは覚えていない。
義姉はほぼ毎日、僕が贈った箸を使っている。
後期日程で大学に合格した(前期で落ちた)ので部屋探しが遅れたから。入学したばかりは慌ただしいから。急いで部屋を決めるとろくなことにならないから。そんなことを言ったのは兄と時々義姉で、僕ではなかった筈だ。いくらなんでも、大学に兄夫婦の家から通いたいなんて。
両親──僕と兄の──は「新婚さん」に対する常識的な遠慮をしたが、当事者がそういうなら、とあっさり決まった。ちょっとしたら部屋探しの余裕もできるだろうし、と。
一緒に暮らす前から兄と義姉は僕を巻き込むつもりだったし、僕は手遅れだった。だからもう、何もかもが今更だ。体表を滑るように絡みつく義姉に、抗う意味はない。そうして受け入れると、唯一無二の興奮に達し支離滅裂な快楽が訪れる。
腕につけられた歯形が視界に入り、それだけで身体が昂り始めている。
変な時間に寝て変な時間に起きた。具体的には、十六時過ぎと二十三時前。軽い自己嫌悪を済ませ、布団から出る。顔だけ洗って、自転車で一番近くのコンビニに行く。ホットスナックが欲しかったのだけれど多分この時間にはないな、と駐輪場に停めてから思い出し、案の定なかったのでちょっと豪勢なサラダを買った。帰って冷凍食品の唐揚げを電子レンジに。ビールもあるけれど麦茶にして、食卓で飲み食いする。スマホで一線級じゃないお笑い芸人のライブ映像を観ながらなので、そこそこは楽しい。
足音がする。素足のそれは控えめな音しか出さないので、気付いた時には義姉はすぐ近くに居た。
「夜食だ」
「夕飯食べてません」
「寝過ぎ」
仰る通り。義姉が同じ空間に居るのに義姉を見ないというのはとても難しいことなので、我慢せず横目で義姉を見る。義姉はやたらまじまじと食卓を眺めている。
「どうしたんですか」
「ご飯食べないの?」
「炊く程でもないかなぁと」
「ええー……酒も飲まないのに」
苦々しい声音だ。義姉はまあまあの和食派なので、主食がないのが気に入らないのだろう。多分。
「その割に肉多いし」
「腹は減ったんで」
唐揚げを齧る。熱すぎない肉汁。冷凍食品、侮れない。
視界から義姉が消える。義姉がしゃがんだから。太腿に顎を載せられて、脚へ背中へと伸びてなぞる指から、侵される感覚が手慣れた早さで脳に伝わる。満腹中枢が仕事をするとは思えないが、食べ進める。求められていないから。味覚は多分、正常だ。
僕を見上げている義姉と目が合う。通常通り、義姉が居ない時と同じように食事をしている。恐らく。視線を下げた以外は。視線が絡み合う前に、皿の上を見ることにする。義姉は相変わらずこちらを見上げている。彼女の視線は質量を持つので、見なくても分かる。それは霧のように纏わりついて、染みて濡らす。僕の皮膚へ。そしてあの綺麗な眼球には僕が映っている。囚われている。抜け出すことはできないが、彼女はあっさりと逃がしてしまう。いつも、気まぐれだったとばかりに。
肉ばかり食べてしまっていたので、意識してサラダを食べ進める。義姉はそれなりに高身長だが華奢で、僕は鍛えているとは言い難いが一応は成人男性だ。だから腕力に訴えられなくはない。あの、目。眼球が欲しい、と思っている。勿論、そんなのは恐ろしいとも感じているし、理解もしている。ただ良心や倫理道徳でなく、保身が理由だ。それも、犯罪者になりたくないから、ではなく、欲望からの保身だ。あの人が欲しいなんてのは、間違いなく破滅が待っている。与えられてはいけない。求めてしまった兄は自殺した。破滅の結果の死なのか、破滅しない為の死なのかまでは、分からない。
でも我慢は簡単にできているので、そこまで問題ではない。強いて挙げるなら、抑制の理由で一番効果があるのが義姉の存在ということだ。今までの人生で培われた倫理とかでなく。我慢していられるなら、彼女は近くに居続ける。
支配されている、と思う。思考も、感情も、行動の基準も、義姉に支配されている。義姉にその気がないので、占領されている、と言う方が近いのかもしれない。あるいは、浸透。いずれにせよ、大した問題は起きていない。それくらいは、当然のことだ。
義姉に腹と背中を撫で回されながらの食事は、ちゃんと美味しかった。
義姉が食卓で早めの夕食を摂っている。仄かな夕餉の香りが空腹を刺激する。後で何食いに行こうかな、と思いながら僅かに聞こえる咀嚼や嚥下の音を聴く。もっと音量がある筈の食器の音は意識できない。テレビが付いていないのに気付いて、のそのそ動く。立ち上がっているのに這い蹲る気分で、リモコンに手を伸ばす。掴む。
「明良くん」
声に反応して、握力が弱まる。義姉を視界に収めると、薄く微笑んでいる。卵焼きを箸でつまんで。
「食べる?」
食べます、と答えた。でも声は聞こえなかった。義姉が大きくなる。近付いている。食卓に手をついて、親鳥から与えられるように口に入れる。噛んで、歯で潰す。時折混ざる葱の食感。どのタイミングで次を食べたらいいのか分からない。何を食べたらいいのか分からない。義姉を見る。義姉の顔を見る。でも表情が分からない。嚥下した自覚がない。差し出される。食べ物が与えられる。義姉が作ったもので、まだ冷めていなくて、温かい。口を動かしている感触がない。でも喉を通る感触はちゃんとある。右手で義姉を掴む。義姉の身体。服越しに。錯覚では力が入らないのに、義姉は痛いと言った。笑いながら。嘘みたいな気軽さで。手に力を入れる。違う、緩めた。それ以上はしない。離してという声はしないから。
皮膚から酷く遠くにある心臓が、動いている。きっと、義姉のも。感じないだけで。速度はきっと違う。別の人間だから。
箸が伸びてきて、口の端に付いた米粒を啄む。僕が選んで贈った箸。傷くらいはついているけれど、経年劣化は大したことがない。替えが必要になったらまた買えばいい。僕が。
義姉が照り焼きを嚥下してから、僕に差し出す。口の中に何かが入っている。
「よく噛んで食べて」
従う。脚に力が入らない。さっきまで力が入っていたとは思えないのに。
「喉、詰まらせないでね」
彼女はとても楽しそうに笑う。日常的で、普段通りだ。僕が知っている笑い方。今まで通り。
食事が終わった。よく覚えていない。
久しぶりにベッドの上に居る気がする。勿論気の所為で、二十四時間以内にもベッドは使ったのだけれど。タオルケットを変えたからかもしれない。
「そんなに引っ張らないで」
義姉の声が愉快そうに耳に届く。それで漸く、自分の身体がどう動いているかを自覚した。慣れていないみたいに力が入っている。
「伸びちゃう」
それは申し訳ないので、引っ張るのを止めて握る。まだ兄が生きていた頃に、三人で買い物に行った時に買った服。
「どうせなら直接、腰でも肩でも掴めばいいのに」
指先に唇が落とされる。小ぶりな音はきっと、演出的に立てられた。
「脱がせたいの?」
「はい」
即答したら笑われた。バラエティを観ている時に近い笑い方だった。すべり芸がやけにハマる人なんだよな、と色んな記憶がフラッシュバックする。多分、どうでもよくはない。
「何か言ってください」
それでも笑い声が止まない。触れ合っていなかったら、笑い転げてたんじゃないかという程、面白がっている。
漸く落ち着いた義姉はそれでも笑顔で、いつの間にか回された腕が背中を少しだけ圧迫した。腕が長い人だから絡まれているのは全身で、もう動けない。錯覚に従って、彼女が顔を寄せるのを待つ。耳元で、彼女はゆっくりと囁く。他の音を聴かせないように。
「もっと」
言葉の意図を推測する。ゆっくりと言葉と思考が結び付いて、ぼんやりと感じ取る。
もっと求めて。
「何て言って欲しい?」
この世界にない蠱惑の毒を孕んだ声。耳に届くのも、頭に響くのも、全身を這い回すのも義姉の声だけだ。
だから、自分が言ったことは覚えていない。
なんだかやけに眩しい。カーテンが中途半端に閉まっているから、むしろ光が集まっているのかもしれない。多分そんなことはないのだろうけれど、そんな仮説を立てる。
義姉が少しずつ、体重をかけてくる。僕が支えられる程度に。身体の前面の大半が触れ合う。背中が寂しい代わりに。
「目を閉じて」
肩に添えられる手のひらで動けなくなる。言われた通りにすると、予定調和に目蓋に唇の淡い感触。音も立てずに、くっ付いて、離れた。
小さな笑い声が首元をくすぐる。
「流石に眼球はちょっとね」
何を言っているんだ、と表情で訴えたつもりだけれど、義姉がどう受け取ったかは分からない。まだ笑っている。
「眼球に口づけって浪漫はあるけど、実際は危ないでしょ? だから目を閉じてって」
「言われなくても閉じますよ」
「そうかなぁ?」
言うまでもないから返事はしなかった。口を開いたら自分が何を言うかは分からなかったけれど。
僕の肩に手を置いたまま、肘を伸ばしている。少し身体が離れた。目を細めて、変わらず僕を見つめている。観賞している。その眼球に映る僕は囚われている。睫毛の隙間から漏れる眼光が、愛している、と定番の嘘をつく。
「僕の目にも価値はありますか」
ふと、質問をした。疑問でも気にもなっていない、ただの思いつき。きれいなひとは分かり易く目を丸くした。分かり易い表情だけれど、意外とこういうのは無意識に出たものかもしれない。
「私の判断では」
肩から手が離れる。惜しむ寸前に、親指の腹が目の周りに触れる。眼球そのものには触れてくれない。
「素晴らしくきれいだよ」
親指も離れた。今度は何処にも手の感触がしないので、素直に要求する。さわってください。義姉は無視している。
「義姉さん」
「私の目」左手の人差し指が視界に入る。たまらず噛みつく。舌で包む。自分の唾液が鬱陶しい。他の指は何で動かないんだろう。こんなに欲しいのに。
「私の目も欲しい?」
頷く。歯が拙い当たり方をしたらしく、「痛い」と義姉が顔をしかめた。きれいに。
ああ違う。欲しい訳じゃないんだ。この人を求めてはいけない。
「喋って」
いつも通り、従う。この声に抗う理由はない。呼吸が大体整ってから、声を出す。
「義姉さんの目は、そのままの方がいいです」
首を傾げる動きに一拍遅れて、髪が揺れる。毛先がくすぐる感触に色んなことを投げ出したくなるのを堪える。
「目蓋があって、睫毛があって、唇が動いたり、視線が逸らされたりする方が価値があります」
「なるほど」
にんまりとした笑顔。
「じゃあ、ちょっと目は逸らした方がいい?」
「……このままで」
「しょうがないなぁ」
背中で指先が蠢く。効果的なタイミングで、腰に爪痕が残される。
耳かきしてあげる、と義姉が言い出したのでソファで横になっている。枕は義姉の膝、というか太腿。
くすぐったい。
「まあまあ多い」
「すみません……」
なんか恥ずかしい。
「し甲斐がある」
手つきも表情も分からないが、真剣さを伺える平淡な声音。未だに、その辺りの基準がよく分からない。
「くすぐったい? 痒い?」
「痒くはないです」
耳掃除中に動いたら単純に拙いので、身動ぎしない。
トンネルを掘り進めるイメージが浮かぶ。幾ら何でもそこまでではない筈だけれど。
「はい、交代」
肩を掴まれ、起こされる。……え。
「僕がするんですか?」
「いや、左右交代」
「……はい」
「お。こっちはちょっと少ない」
「良かった……」
口から息みたいに言葉が出てきた。内心で首を傾げる。けれど、いちいち自己分析して肯定するのも否定するのも面倒だったので、ぼんやりすることにした。
なかなかにしっかりと掃除されてしまった。耳掃除が終わったので、義姉は不真面目に僕の耳で遊んでいる。だから僕はまだ膝枕されている。
耳の外側、指の腹の感触がする。自分の耳の形を意識したのは初めてかもしれない。
「耳、好き?」
「いいえ」
「じゃあ次は足だね」
「…………」
返事に悩んだので、言い訳をする。
「上半身動かしたら、危ないじゃないですか」
「ぐさっとね」
「痛ぇ……」
実は経験がある。勿論、義姉と会う前に。
指が離れない。
「明良くんはピアスしないの?」
「兄ちゃんもしてなかったじゃないですか」
「そこは貴女も、じゃないの?」
冷たくはない筈の指先から、熱は感じられない。
「兄ちゃんにもしてたんですか」
「耳摘まんだり撫でたり?」
「いや、耳掃除……いやまあ、どっちでも」
顔が、唇が、近付く気配。内緒話を装って囁かれる。
「妬いてる?」
「まさか」
即答した。自分でも驚く程に自然で、慌てて否定したようにはとても聞こえない。
「知ってる」
義姉の声が、正常な距離から届く。耳掃除の時と違って、悪戯の楽しさを孕んだいつもの声。
「惚れてないもんね」
漸く指が耳から離れた。すぐに感触は消える。
「貴方たち兄弟は、ちっとも私に恋してくれないんだから」
いつもと変わらない声音の、変な台詞が聞こえた。横になっているので、どんな表情だったのかは分からない。
足を触られそびれた。
ハムレタスサンドと唐揚げを二番目に近くのコンビニで購入。自転車の空気が大分抜けている。
飲み物を何にするか決められなくて、冷蔵庫を開けてぼんやりする。涼しい。一回冷蔵庫を閉めてグラスに氷を大量に入れる。薄めた麦茶にした。義姉が淹れたばかりなんだろう、氷がすぐ溶ける。
皿を出す程でもないものしか買わなかったのを幸いに、レジ袋をランチョンマット代わりに食事をする。レタスの食感がいいので、野菜をちゃんと摂取している気分になれる。
爪楊枝で唐揚げを刺した頃に、義姉が居間に入ってきた。足音でも声でも、勿論香りでもなくて、気配で気付いてしまう。
「美味しそうな匂いがしたから」
どうでもいい嘘を言って、義姉が正面に座る。いや、どうだろう。本当に、唐揚げの匂いはしたのかもしれない。風向きがどうかまでは分からないし。
「ひとついいですよ。唐揚げもサンドイッチも」
「サンドイッチも?」
「はい」
本当に嬉しそうに声が弾んでいる。空腹じゃないだろうに、多分、きっと。結構昼食べてたし。セロファンごとサンドイッチを差し出す。ありがと、と彼女は受け取って、両手を合わせて育ちの良さを見せてから食べ始めた。この人お嬢様なんだよな、見せつけている訳ではないんだろうけれど。
「明良くんはお昼これだけ?」
「夜を早めに摂ることでバランスを取ろうかと」
レタスが歯で舌で、裁断され砕かれて潰される音が重なる。大体同じものを食べて、口の中の構造も近いから似たような音になる。あの唇をこじ開けると何があるのか、僕は知っている。良く知っている。
五個入りの唐揚げを結局ふたつ差し上げた。ふたつ目は文字通り、爪楊枝に刺した唐揚げを差し出した。一口が大きかったのは、単に肉汁が溢れないようにしただけだろう。歯に詰まってません? と尋ねると笑われた。何だろう、そんなこと訊くなと窘められた気分だったけれど、それにしては愛想が良かった。義姉の愛想が良いのはいつものことだけれど。嗚呼。いや、でも。
食事を他人と同席すると、義姉は機嫌が悪くなるのだった。元々は。肉親とでも、兄とでも、僕とでも。
僕が注ぎ足した麦茶を飲み干して、義姉の食事が終わった。
「これだけだとお腹空いちゃわない?」
結局、サンドイッチがひとつと唐揚げがみっつ。僕にしてもまあ、少ない。
「その時はまた食べましょう」
一緒に。
義姉が死んでいる。死体になっている。首吊り死体だ、兄と同じく。足がつかないような高い所ではなく、膝がつくかつかないかの位置で首を吊った。これも兄と同じだ。思っていたより、仲の良い夫婦だったのかもしれない。あるいはこれから、仲の良い夫婦になるのかも。死後の世界。あるかどうかは知らないけれど。
死体になった美しい義姉。それは死んでいる。死んだ、とは少し違う言葉。死んで存在している、死であり続ける。勿論、辞書を引いたら違う、ちゃんとした説明が書いてあるんだろうけれど、別にどうでもいい。義姉の死体は一般の定義からかけ離れているに決まっているし、僕だってまともじゃない世界に居る。
美しい義姉は美しい死体になった。とても、綺麗な。僕は目を奪われ続けている。
理屈では、思考ではこの美しさを否定している。少なくとも生前よりは美しくない、と考えている。スカトロジーは遠慮したいので、身体の弛緩による排泄物の表出はそれなりに嫌悪感を覚えるし、それを含めた死体の匂いは辛くて鼻を摘まんで離れたい、と感じている。それでも未だ、離れられない。あの、抗い難く侵食する声は喪われているし、身体は何処も動かないし、熱を帯びることもない。僕を求める演技もしない。死後そう経っていない状態だから、目玉が飛び出している等は大人しいとはいえ元々の造形の方が綺麗だった、筈なのに──義姉が死んでいる混乱で視線を動かせない訳ではない。どうして、美しいからという理由でこうも彼女の死体に縛られているのだろう。絡みつかれて咬まれたみたいに。
いや、正確に言おう。
青くて美しい、と感じている。
義姉の死体を、全身が視界に入る位置から観賞する。脳に記録する。僕の世界にずっと居続けることは決まってしまっているから。
それから。
どうすればいいんだろう、と普通のことを思った。
●
私の恋人は混じり気のない黒い髪を持ち、程々の長さで整えている。細身でちょっと痩せていて、たくましくはないけれど全く頼りないという程でも、心配になる程でもない。喋りが上手とは思わないが、下手という程でもない。落ち着いた、そこまで低くないかちょっと高いくらいの声は聞き取りやすい。これは私が惚れているからかもしれない。彼は結構きれいなひとで、まあ美青年に該当すると思う。なんとなく色が深くてきれいな瞳とか、赤すぎないし厚すぎない唇とか。睫毛が長いのは痩せているのも関係するのかもしれない。昔の写真を何枚か見せてもらったことがあるけれど、子供の頃はとても、高校生になってもそこそこ幼い印象が強くて、あの妙な色気は成人前後くらいに獲得したものだと思われている。私に。共通の知人や友人は、美形とか格好いいとか整っているとか可愛いは話しても、耽美とか色気までは言及してくれないので。
多分、付き合うまでは普通だったと思う。いや、今でも普通だ。私の友達なんかは私達を普通の、または幸せで恵まれたカップルだと認識している。私も、優しそうな人だね、とか相性良さそうだね、と言われては注釈なしに頷いている。でも、私は私達が、普通の恋人同士だとは認識していない。異常だ。そして私は異常な世界に入れていない。仲間になりたいのに。
どういう訳か、気付いたのはすぐだった。他人の機微や人間関係に鋭い訳でもないのに、すぐに分かった。私の恋人は私に恋していない。なんの疑いもなく、私はそれを理解した。何がきっかけだったのかはもう思い出せないし、何かきっかけらしい出来事があったかも自信がない。自分でも驚いたことに、悲しくはなかった。騙されたとも思わなかったし、倒錯して喜んだりもしなかった。強いて言えば少しだけ、彼のことを知れてよかった、と極々普通のことを思った。私はちゃんと、彼に恋しているのだ。今まで他の人にしてきた恋のかたちは思い出せないけれど、今は間違いなく恋をしている。
今、私はもう驚いていない。恋情や信頼よりは、無関心や趣味に近い気持ちで恋人が私の隣に居ることや、私が恋人に愛情を求めていないこと。そんなことは当たり前になった。昔どうだったかは余り思い出せないけれど。
彼がどうかは分からないけれど、私は幸福な恋人の片割れをしている。実際、彼は世間一般の基準からしても良い人だ。変な無駄遣いはしないし、私が料理をすると絶賛する。安全運転で、服の趣味は悪くないし清潔感もある。イチャつきたい時は応じてくれるし、離れて欲しい時はすぐ察してくれる。そしてとても丁寧に、愛していると嘘を吐く。
ベッドに誘導するのは全然強引じゃないのに、抗えない。違う、抗う気が起きない。必要ないから。
穏やかに微笑む時の唇と、意地悪に笑う時と唇のかたちがどう違うかを知っている人は少ない。それは素直に嬉しい。
随分昔に思える、実際にそれなりに昔の話。薄暗い安っぽい休憩室で、汚くはないだけで古いソファにふたりきりで座ったのは、ただタイミングが良かったんだと思っている。一席分の距離を空けて、自動販売機で買った紙コップの飲み物を飲み切る間に、ちょっと世間話をする。砂糖を沢山入れた安物の珈琲は苦くて甘くて、美味しくなかった。彼は都合よくココアを飲んでいて、まあまあ美味しいと笑った。何となくいつもと違う、頬の動き。だから今までの、彼に対する感情の揺らぎを尊重して、そのきれいな笑顔を都合よく解釈した。苗字じゃなくて名前を呼んだらやっぱり笑って、その笑顔が普段と明確に違うことが嬉しかった。それを自分が理解できるのも。くん付けじゃない方が嬉しいと言われて、舞い上がらなかった理由は自分でも分からない。
「飲む?」
飲む、と一口ずつ交換した。確かにまあまあ美味しくて、交換して、と言ったらやだ、と出した舌だって初めてだった。これは不味いねと返された紙コップの温度を確かめた後に飲んだ珈琲は、色んな補正込みでも美味しくなかった。その日から、私達は偶然以外でも良く会うようになった。
大事なことだからよく覚えている。まだ私が相思相愛の類を、ないよりはあった方がいいものである前提で生きていた頃。彼と付き合う前。
「服買ったら」繋いでいる手を軽く引いて、彼が言う。「夕飯にしようか。何処がいい?」
明良ん家、とあらかじめ用意していた答えを返すと、彼は前を向いたまま頷いた。
パーカーとTシャツ、ちょっとした惣菜と生野菜と生肉を買った。入り慣れてきたワンルーム。彼が米を研いで炊飯器のボタンを押すまでは、テレビを眺めていることにしている。
「スマホの充電大丈夫?」
大丈夫じゃなかったので借りることにした。彼の手は少し冷たくなっている。交代で私がキッチンに立ち、野菜を切る程度の下拵えをする。
前に買った、普段彼が使わない(し、私もそんなに使わない)スパイスとかの調味料を取り出す。引き出しを開けると見当たらない。あれ、何処置いたっけ。引き出しの中には菜箸とフライ返しとお玉の横に、普通の箸が一膳ある。黒い箸。置き場所間違えてる気がする。
「これ、場所合ってる?」
一番上にあったけど、と見せると、彼がこっちに身を乗り出して、笑う。私の手じゃなくて、箸を見て、私の知らない世界を思いながら。
「使わないんだ、それ。僕のじゃなくて遺品」
ぎゃっと手放しかけたのをギリギリで留めて、両手でそっと元の場所に戻す。苦笑にしては楽しそうな音で、ごめんごめん、と軽い謝罪が聞こえた。
「親御さんとか……?」
「両方健在だよ」
下拵えはもう中断して、そうだな、と呟く表情を眺める。説明は出来ないけれど、普段とは違う色をしている。此処じゃないところに居るような。
「昔、好きだった人のだからさ。捨てるのがちょっと嫌だし、使うのはもっと抵抗があるし」
「リコーダー理論は……」
くは、と吹き出した勢いのまま、「抵抗があった」ともう一度言って彼は頷いた。善良だね、と褒めると頭に載った手がどうもありがとう、と撫でる。この人は動作が丁寧だから、色んなことを感じ取ってしまう。きっと、彼の思い通りに。
頭から手が離れてから、脳が色んなことを思い出す。洗面台にある櫛が多い気がした、とか。
「お箸以外にもその、遺品ってある?」
「幾つかは」
予想通りの返答に、それでも少しだけ驚いてしまう。好きだった人の遺品。
もうちょっと厳重に大切に、一箇所にまとめて保管するべきじゃないかとか言うことはあるけれど、後回しにして、訊きたいことを訊いた。声もきれいだなぁと思いながら。
知っても知らなくても、何も変わらないこと。
「その人のこと、今でも好き?」
「さあ」
この世にいないひとが笑う。