第六話:生贄令嬢は邪竜の住処でもう一つの邪悪と出会う
目も眩むような光に、一瞬目を閉じる。
次に目を開けた時には、私は見知らぬ場所に立っておりましたわ。
目の前には、ぽっかりと昏い口を開けている洞窟。きっとこの奥が、邪竜の住処……なんでしょうね……。
「……灯りを!」
目元に指を置いて呟いて、暗視の魔法を発動させる。これなら、照明もなさそうな洞窟の中でも進めるはず……ですわよね?
松明を持つ必要もないから両手も使えるでしょうし……。
洞窟の中に足を踏み入れると、暗視の魔法のおかげで地面のでこぼこまではっきり捉えることができた。これで、転ぶ心配は少し減ったかしら?
ヒールの低い靴を履いてきてよかったと、心から思いますわ。
少し進んだ頃、奥から生暖かく湿った風が吹きつけてきた。腐肉と腐血の匂いが微かに混じっている。
緊急時の為に右手に魔力を込めながら少しずつ歩を進める私の足が、ゴリッと硬いものを踏みつけてしまった。
恐る恐る視線を下に向ければ、そこにあったのはまぎれもない人の骨……。
「ヒッ!!!」
覚悟はしていたけれど、噛み殺しきれない悲鳴が思わず唇から漏れる。
心臓が、早鐘のようにドクドクと脈打っていた。呼吸が乱れ、集中が途切れてしまったせいか、暗視の魔法が揺らいで視界が激しい明滅を繰り返している。
「……っ、ふ…………お、落ち着いて……落ち着きなさい、フランチェスカ……!」
空いた手を胸に当て、深い呼吸を意識して行うようにする。
目を閉じて、今だけ視界からの情報を遮断すれば、脳の隅々にまで行き渡ってきた酸素のおかげで固まっていた思考が少しずつ動きを取り戻していくのがわかる。
もう一度目を開けた時、そこには変わらず人の骨があったけれど、それはもう私の心を乱すものではありませんでしたわ……。
きっと、私の前に送られた生贄の女性なのでしょう。
明日は我が身かと思いつつ、祈りを捧げようとした私はふと妙なことに気がついた。
「………………か、噛み傷……のようには、見えませんわね……」
しゃがみ込んでよくよく観察してみる。白骨が纏っているドレスの残骸のようなものに残された痕跡が、やはりおかしいような気が……?
そこにあったのは、竜のような大型の動物の歯型ではなく、明らかに刃物で切り付けられたような傷。
骨の方も、それに沿うような形で傷がついている。
「生贄を襲ったのは、竜ではないということ……?」
竜の生贄として捧げられたはずなのに、竜ではないものによって命を絶たれた女性……その違和感に私が眉を顰めていると、不意に私の耳が不自然な音を捉えた。
がしゃがしゃと金属が触れ合う耳障りな音と、ギャハギャハというしゃがれた不気味な笑い声……。
咄嗟に右手に送る魔力の量を急激に増やす。
ややもしないうちに、洞窟の奥から二つの影がこちらに向かって歩いてきた。
半ば錆びているとはいえ武器と防具を身に付けた子供ほどの背丈のそれは、緑色がかった灰色の皮膚をしている。
魔物の一種……ゴブリン、ですわね……。
彼らが携えている片手剣……不自然な斬り傷……きっと、あれがさっきの女性の命を奪った道具なんじゃないかしら。
……あら? でも、そうなると……竜の生贄として贈られた娘を、竜ではなくて魔物が殺した、ということ?
でも、ここ50年の間で、大きな自然災害や戦乱は起きていないはずなんだけど……?
『ギャハ! ギャアアハハアアアハアハッハハハハハ!!!』
思考に耽る私の意識を、鼓膜を引っ掻くような耳障りなゴブリンの哄笑が引き戻す。
魔物の目は、光がなくても獲物を捕らえられるという。きっと、この洞窟に私が来ていることにはもう気付いていたのでしょうね。
下卑た笑みを浮かべながら、こちらへ近づいてくるゴブリンに向かって私は魔力を溜め続けていた右手を突き出した。
「爆炎烈風!!!」
『グギャッッ!!』
『ギャアアァァァアアアァッッッ!!!』
私の言葉を契機に、炎と竜巻がゴブリンを巻き込んで暴れ狂った。炎と風の渦の中、ゴブリンの濁った悲鳴が周囲に響く。
その隙に、ドレスの裾をたくし上げて私は横をすり抜ける。膝から下が丸見えになっているけれど、はしたないと思っている暇はなかった。
今はとにかく、この場を離れないと……!
切れる息ももつれる足も、今は無視して洞窟の奥へと足を進める。
「あぅっっ!!」
いくら低いとはいえ、ヒールのある靴でデコボコした洞窟を走るのは、流石に無理があった。こけつまろびつ……淑女にあるまじき醜態を晒しながら、私は走る、走る。
炎と風がごうごうと荒れる音と、ゴブリンの断末魔が聞こえなくなって……私はようやく足を止めた。
足の力が抜け、その場にへなへなとへたり込んでしまう。
「……っ、はっ…………はぁ……はぁ……こ、ここ、は……?」
ダンスの練習だって、こんなに息を切らしたことはありませんでしたわ……。
弾む息をどうにか整えて、周囲をゆっくりと見渡してみる。涙で滲んだ視界に広がるのは、半ば朽ちかけた遺跡のようなもの。
未だにガクガクと笑う膝を叱咤して、ゆっくりと……でも確実に立ち上がる。
気が付けば、左足のヒールが折れてしまっていた。歩きにくいけれど、歩けないわけではないから我慢いたしましょう。
ぴょこぴょこと不格好な歩き方になってしまうけれど、そこは仕方ありませんわね……。
近付いてみれば、途中から折れたり、倒れたりしている大理石の柱に、かつてはよく磨かれていたのであろう石張りの床、所々崩れかけた祭壇のようなものが遺っている。
どういう原理かはわからないものの、青白い炎が灯る篝火のようなものがいくつも据えられていて、暗視の魔法がなくとも周囲がわかる程度の明るさが保たれていた。
「……古代の神殿跡………………っっっ!?」
見たことのない遺跡に、つい物珍し気に周囲を眺めていた私の視線が、ある一点で釘付けになった。
崩れた大理石の祭壇の、その奥。
塗りつぶされたかのような暗闇の向こうに、闇の粋を集めたような漆黒が凝っている。
その闇の中に、太陽の光のような金の光が二つ、唐突に輝きを放つ。
それが巨大な瞳だと気づいた瞬間……闇が、動いた。
半ばから折れた石造りの柱が、ごしゃりと潰される。巨大な竜の前足が、踏みつぶしたからだ。
気が付けば、闇色の竜の黄金色の双眸が、私をじぃっと見つめていた。