6 侵入者だし、この程度の仕置きは当たり前だろう?(改)
ほどなくして、少年は目を開いた。ゆっくりと起き上がり、正体なく眠る魔王に顔を顰めると、その白い顔に手を触れた。
ゆっくり吐く息、深く吸う息――赤く瞳を輝かせながらのそれが繰り返されるたび、魔王の身体が色づいていく。
僅かに残っていた茨が芽吹きかけたけれど、それは引き抜いて、放り捨てた。蔓薔薇の根元に落ちたから、そのまま枯れ朽ちるだろう。
視線を戻した少年は、にっこり微笑む。まるでその音が聞こえたかのように、魔王が目を開いていたから。
「少年……その目……っ!?」
戸惑う彼に何も答えず、少年は目を閉じた。正確には意識を失った状態だが、フェネクスにそれはわからない。調べればわかったのかもしれないが、間を置かず襲い来た烈火のごとき灼熱は、それを許さなかったから。
歯を食いしばり、その身を縮めながら、フェネクスは考える。これは何だ、少年は何かをしたのか――だがその答えを導き出すより先に、記憶が蘇る。この苦しみを、以前にも経験したことがある、と。
(あの、ときの……!?)
魔王位を受けることになった、その切欠。いや、原因か。あのとき、自分は消滅しかけていたのではなかったか。ああ、確かにそれならこれは、効果的ではあるけれど!
(意識がないときにやるか、阿呆……!)
体内を巡る灼熱、それの正体は妖力だ。妖力の元は魔素だから、身体を失いかけた妖魔に流し込むという手段は、有効である。ただし、意識があるときに。そしてさらに、体内で魔素に分解するという手順を熟知している者に対して、だ。
もちろん、フェネクスにはそれが可能だし、経験もある。いや、ほかに方法がないのだから、選択肢としては上等だ。だからと言って、流石に意識を失った状態にそれをやられると、めちゃくちゃ、きつい。痛みを切っても、何の意味もないのだから。
幸か不幸か、妖力の供給は止まっていた。おかげで多少は物事を考える余裕がある。つまりは今、彼の妖力が異質すぎて馴染みきれない、そんな感じなのだと理解も追いついた。これ以上の追加供給がされる前に、片を付けるべきだ。
本来なら、流し込まれた妖力を分解し、魔素にして取り入れればいい。だが今は、流し込まれた妖力が多すぎてそんなことをしている余裕がない。
(よかったよ、お前が従者で……っ!)
ひときわ大きな灼熱をやり過ごし、乱れた呼吸を整えなおす。本当に、彼が従者でよかった。もしも相手が主であれば、この手は使えない。
「――従え」
声に出して、命じる。その声に、自分の妖力を乗せて、全身を巡らせて。
「主は、――私だ……っ!」
少年が彼を見ていたら、その全身が氷に覆われ、それが砕け散る様を見たことだろう。そしてきっと、慌てふためいた上で、狐につままれたような顔に変わるのだ。そこにはただ、荒い息を吐く彼がいるだけなのだから。
(二度と…、やるか…!)
疲労困憊の身体で、フェネクスは心に決める。命は助かったけれど、二度とこんな状況に陥らぬよう、まずは自分を戒めなければならない。だがそれ以上に、メモリアの教育が必要だ。下手をすれば自身が死ぬような真似を、またされては適わない。消滅しかけた魔王を回復させるとか、自分の命を削るようなものだ。やるにしたって消滅回避の最低限でいいものを、何も考えずにやったに決まっている。身体の回復を待って、常識を叩き込んでやらねばならない。
(……いや、待て。どうして、ここまでの妖力を流し込めた? 術こそ使えるようにはなったが、妖力そのまま流し込むなんて真似、誰に出来る……?)
自分なら出来る。だが、それは経験があるからだ。友人たちを思い浮かべるが、知識としては知っていても、現実に出来るかどうかは別と、彼らなら言うだろう。ああ、そうだ。魔王である彼らでさえ、皆が出来るような真似ではない。
気を失った少年に目をやって、フェネクスは溜息をつく。意識を失う前に規制をかけたはずだったのに、また妖力生成が解放されていた。
主の危機に際して規制が外れたと考えられなくもないけれど、果たして今、自分はそこまで危険な状態だったのかというと、疑問符がつく。それに加えて、彼にそんなことの見分けがつくのかという問題もあるし、何より、あの瞳。
(赤い瞳――……?)
”白の領域”での彼を思い出しても、瞳の色は出てこない。けれど、…赤ではなかったように思えるのだ。あれほど鮮やかな赤い瞳であるなら、自分が気づかないはずは――……
思考が止まり、その瞳を目まぐるしく虹が駆けた。
そしてフェネクスは立ち上がり、身体に問題がないことを確信してから、少年を抱き上げる。向かう先は己の館、その自室である。
少年が放置した茨の茎が原因で一騒動起きることを、彼はまだ、知らない。
※ ※ ※
館へ戻ったフェネクスは、私室へと少年を運び入れた。元が初代妖皇の執務室でもあったせいか、控えの間がいくつもあるし、仮眠室もあるので書斎として利用している部屋である。もちろん客間もあるが、普段使っていないので、使うには掃除が必要である。術を使えばすぐに出来るけれど、それはまあ追々に、少年の練習にでもやらせればいいという判断だ。
執務室は通り抜けるだけにして少年を寝かせ、暖炉に火を入れ、水を入れた薬缶をそこへかけて、息をつく。ここまでやっても、少年はまだ目を覚まさなかった。本人の疲労もあり、暖炉前に椅子を持ち出して、足載せも用意して、ぐったりと凭れこむ。そこは隣室――つまり、本来の執務室からも見える位置にあり、扉を開け放してきたものだから、見たくないものが目に入ってしまった。縁取り模様が特徴的な、招待状である。
(……あれは、なんだったんだろうな)
とりあえず気づかなかった振りをして、フェネクスは自身の考えに没頭してみた。思い起こしたのはさきほど、ほんの一瞬だけ視線を交わしたときの少年の様子である。
(――あんな、燃えるような赤だったか?)
それであれば、こんなに気になったりはしないだろう。
本音を言えば、彼を起こしてその瞳を確認したいところである。それをしないのは、単純に彼自身が、眠りを妨げられるその不快さを熟知しているからだ。ましてあんな無茶をした後の眠りである以上、回復に努めるべきであるから、余計に起こせない。
――君、妖魔だよね生粋の!? なんでそんなにすぐ寝ちゃうのさ!?
――気持ちいいんだぞ、この寝台。
――そうじゃなくてさぁ……
くす、とフェネクスは笑う。
遊びに来た友人たちを放置して、眠ったときのことだ。酒が入りすぎた彼らから逃れたいということもあったが、それ以上に料理人の真似事で疲れたためだ。翌朝になって文句を言ってきた友人だったが、もう一晩泊めて、客間に用意した寝台を使わせたら意見はひっくり返った。
――あー…今までもったいないことしてきたかも……
適度な硬さと弾力、それから羽毛の敷布と掛布という組み合わせは、最高の寝心地を提供したらしい。確か彼は、そのあとで同じものを購入したと聞いた。あのときは、してやったりと笑ったものだ。
世界を放浪していたフェネクスだからこそ、人々が眠るということを肌で知っている。駐留する際には、何よりも寝台の心地よさを重視したものだ。そう、何をするにも寝台は重要――……
力をぬいたフェネクスの首が落ちる。その目は開いたまま、背もたれに身体を預けて。ふわりと惑う瞳の中の虹を、見る者はない。
(――眠いんだな、これ)
ちらちらと目の端に入る封筒は、努めて見ないようにしながら、うつらうつらと考える。
少年はまだ目覚めそうにないし、自分も眠りたい。いや、この疲労感はおそらく眠ったほうがいいのだろう。だが、何か騒動が起きそうな気もするし、それを考えると手を打ったほうがいい。魔素を取り込んで回復させるのが常道だが、手っ取り早い方法は、たぶん少年と同じ寝台で眠ってしまうことだろう。彼が動けば自分も目覚めるだろうし、何よりこの寝台は、最高の寝心地だ。腕のいい職人に注文し、上限なしで作らせたから、たぶん、魔王の誰が聞いても呆れるだけの値段だとは思うが、その価値はある。間違いなく疲労は抜けるだろう。
「…寝るか、なぁ……」
しつこく視界に入ってくる封筒から顔を逸らして、ソファに埋もれる。このソファもいいものではあるが、仮眠には向かない。やはりしっかりと寝台へ移動するべきだろう。そういえばこの少年、ハンモックも気になるようだった。イイキでも吊り籠のような椅子だったし、そのほうが好みなのかもしれない。それならいっそ、狩り小屋へ連れて行こうか。
小さく小さくソファに隠れたはずなのに、そんなことを考えているとその視界にやっぱり封筒が入ってきたので、目を閉じてソファの背もたれに身を預けた。
(この部屋にはハンモックを置くわけにいかないしなぁ)
土台を作って置いてみるのも悪くはないと思うが、と考える。それなら狩り小屋へ連れて行こうか。ああ、そうだ。狩りが出来て損はないから、とりあえずそれは覚えさせよう。それから一緒に狩りに行って、せっかくだし獲物の捌き方も教えるか。ああ、食べられる実を教えて、毒草を教えて…うん、やることはけっこうあるな。
少年の様子を見ようと振り返った先に、封筒が飛び込んできた。視界に入ったのではなく、文字通り、彼の目の前に飛んできて、そこにいるぞと主張しているのである。
「……」
ぷい、と視線を逸らし、また目を閉じる。疲れたな、とわざとらしく呟きながら。
うん、このまま寝てしまおう。どうせ寝台は広いし、二人で寝たところで十分な広さがある。ああ、先ほどのあれで身体がどうにか安定しただけなのだ。まだ疲労が抜けていない。うん、眠るべきだろうというか眠ろうそう決めた。
拳を握ってそれを決めた彼の耳元に、ばさばさと音がした。鬱陶しい、だが、目は開けない。内容はわかっているし、普段から放置しているし、新年の夜会に出ないのはいつものことだし、何の問題も無い。それに用があるなら、伝達者が直接持ってくるはずだ。ああ、いやそれでも日付だけは確認しておかなければ。どうせ、奴らが押しかけてくるだろうし。まあそれは別に、この封筒を見なくてもいい。誰か友人に声をかけて、いつになるかだけ聞けばすむ。
(煩い)
……必死に自己主張する封筒が哀れに思えるレベルの無視っぷりであったが、流石にフェネクスも切れて、封筒を掴んだ。そのまま暖炉へ叩き込み、逃げ戻ったりしないように見えない壁をつくったりしたら燃えたので驚いたが、しかし。
『読まずに燃やしたらダメだよっ』
ふわ、と無傷の招待状だけが舞い戻り、楽しげな声が響いた。
『今日の招待状には術なんかかけてないのに、ひどいなー。そんなに勇者は嫌い?』
え、とフェネクスが目を見開く。今、何と言った?
『新年の夜会はいつもどおりでいいけど、お土産期待してるからねー』
おいおい、とフェネクスは苦笑する。参加要請ではなくてお土産のおねだりだったらしい。というか妖皇宮の文官たちよ、そこにはチェックを入れなかったのかお前たち?
なお、これがエレーミアの招待状というわけではない。断じてないので、そこを誤解してはならない。さらに言うなら、これはフェネクスにだけ起こりうる事態である。当代である妖皇は何故だか彼がお気に入りで、こんな悪戯を仕掛けてくることがあるのだ。
(にしても、勇者? メッセンジャーにでも使ったのか?)
先代妖皇の食客、勇者と呼ばれる少年がいる。誰も名は知らず、ただ勇者と呼ばれているだけの謎な存在だが、彼はこの館に入れないし、術も使えない。招待状だけなら妖皇が直接この部屋に送り届けるだけで済むのに、何故勇者がかかわってくるのだろう?
不思議に思いながらも、招待状を開く。こういうときだけは、従属を持つべきだと思わなくはない。彼らに任せて素知らぬふりを決め込むことが出来るのだから。
(好きにしろと言ったのは私だしなぁ)
少年と同じく、”異域”から救い上げた妖魔たち。従者になりたがる彼らにそう言ったが最後、誰一人顔を出さなくなった。代わりに、世界各地の土産やら情報やらは届くので、嫌われているわけではないようだが。
「舞踊闘武会開催…これか」
招待状は二通あり、いずれも十日後の開催日が記されていた。片方はもちろん妖皇――妖皇宮主催の夜会である。もう一枚が勇者主催の余興であり、そちらへの招待…というか、選手としての参加要請だ。
“舞踊闘武”とは、套路と言われる一連の演武から発展した武道である。本来は技を鍛える、技を見せるための連続した型であるそれを、音楽に乗せて披露したことが始まりらしい。それがまず“舞踊演武”として発展し、これは芸術の世界に受け入れられた。そこから武術の世界に逆輸入されたのが、“舞踊闘武”である。実際に武器を持ち、音楽に乗った上で舞踊を披露しつつし合うものだ。
そしてフェネクスは、世界を放浪している間にそれに嵌ってしまい、いろいろな流派に顔を出していたので、けっこうな段持ちである。そのことは隠していないので、招待状が来ること自体は、気にならない。
「舞踏会に出てそのまま逃げるか」
下手に最初から欠席すると、館へ押しかけられる。それの対処を考えると、顔を見せておいてパスしたほうが、たぶん楽。そう呟いたフェネクスの手から、招待状が舞い上がる。反射的にそれを捉えたフェネクスの手には、じたばたと暴れる妖精のような何かが、いた。
『やだやだやだーっ離してーっ』
甲高い声が響き、フェネクスは思わず肩を竦めた。しかし迷わず、水差しに叩き込む。暖炉の上に置いてあったそれは、正真正銘ただの水差しなので、そんなものに捕らえられる魔物はいない。故に叩き込むと同時、それは捕獲用の水牢と化させている。
「妖精モドキか。ったく、どこから入り込んだ?」
水差しからぴちゃぴちゃと水が跳ね散っているものだから、フェネクスは顔を顰めた。何しろこの水差し、唯の飾りである。中の水は普通に本物の水ではあるが、いつ用意したものなのか覚えがない。水は近場の井戸から召喚出来るし、お茶を入れるときは薬缶を使うし、火を消すときは術を使うか灰をかけるだけだから、用がないのだ。水を入れておいたのは、…どうしてだろう。というか、本当にいつの水だろう? 緑色の水はちょっと臭う気がするが、まあそこは気にしなくていいし。
「……、!! ……!」
うん、出すとうるさいだろうし、閉じ込めたままにしよう。妖精モドキには嗅覚も味覚もない(とされている)し、妖魔と同じく呼吸も不要だ。苦しんでいる気配もないし、出られなくて文句を言っているだけだろう。無論、出すつもりなど、あるはずもない。
ただ、このままというのも具合は悪い。というのも、下手すると水差しが壊されるから、水差しからは出してしまいたいのだ。表面から飛沫も飛ぶし、何とかしたい。周囲に結界を張れば済むことではあるが、こんなやつのために僅かとはいえ消耗したくないのである。
(本来は水晶だしなぁ)
実はこれ、魔物を捕らえる術の一つである。妖魔と同じく魔素から成る身体を持つ存在であれば、水晶に閉じ込めることが可能なのだ。難点は、水晶の質が低いと封じに失敗し、中身ごと壊れることである。むろん、術者にも跳ね返る。術者の技量ではなく水晶の質に起因するため、けっこうな博打である。
水珠ももちろん失敗することはあるが、術者の力量頼みであり、しかも中身が壊れたりはしないので、何の呵責も感じない。
「…ああ、あれがあるか」
執務室の飾り棚に置いた落鳴琴が目に入り、フェネクスは笑った。
元は人間が作った玩具で、廃棄された木琴の鍵を螺旋階段上に並べただけのものだが、天辺から玉を転がすと曲が奏でられる。それが面白くて、けっこうな額で譲り受けた品である。
ただ廃棄品の再利用だけあって壊れやすく、かなり修復している。その過程で、木の鍵盤だったものを水晶に替えてみたら思いのほか好みの音になり、最終的にすべての鍵盤を入れ替えてしまった経緯がある。当然、支えも強度を求めて代えてしまったので、元の製作者が見たらどれほど驚くか分からない。
ちなみにその水晶は創ったものではなく、商品価値がないような屑水晶を集めて溶かし、再形成したものである。人間と違い、道具なしにそれが出来るのでけっこう気楽にやってしまったのだが、後から市場価格を推察してちょっとだけ冷や汗を流したこともある魔王さまである。
――なんだこれ、氷の城? すごいな!?
思い出したその声に、ぐわし、とこぶしに力が入って水球がひしゃげてしまった。幸い、水が飛んだり中身が潰れたりはしていない。力が入るのは許せ、といちおう胸のうちで詫びておく。其の声の主は勇者であり、面白がって触りまくって加減が出来ずに本体を壊されたことは、…たぶん永遠に許さないだろう。彼を出入り禁止にした理由である。このときばかりは、どの魔王も出入り禁止になって当たり前だと同意したし、二代目妖皇でさえ取り消せとは言わなかったことが懐かしいほど、古い話だ。
「おとなしくなったな」
それは流石に、こぶしの中で握りつぶされかけたらそうなるだろう。まあ、静かな分には問題もない。
落鳴琴の足元には、いくつもの珠が転がっている。鍵を鳴らすための珠であり、これもやはり水晶である。そこへ水珠を置くと、…大きさ的にはけっこうな差である。手のひらサイズと大きめのビー玉、と言えば近いだろうか。単純に、ガラスよりも割れにくいという理由で選んだものだが、こういう用途にも適合しているなと魔王さまはほくそ笑む。
隣り合わせた水晶玉と水珠に片手で触れて、珠同士をぶつけるかのような指裁きで、かちり。消えた水珠の代わりに転がったのは、苔色の水晶珠だ。その中に、妖精もどきは閉じ込められている。めいっぱいに暴れているようだが、強度の違いだろうか、ぴくりとも動かない。
「簡易牢獄だから、そのうちに解ける。…まあ、しばらくはこの絡繰りを堪能するといい」
水晶珠をすべて、落鳴琴に配置する。珠留めの楔を外すと、僅かな傾斜に従って珠が転がっていく。途中で行き止まり、回転する台に乗るための順番待ちが発生するので、一斉に落ちていくということはない。…まあ、水晶玉の中に閉じこめられた身からすると、けっこうな恐怖かもしれない。
やがて、キンと澄んだ音が響いた。リズミカルに、しかし静かに次々と音を響かせるそれは、一つの曲を奏でていると制作者は言っていた。作り替えるときに、同じ高さの音が出るように調整するのは骨だったなと思い出して微笑う。
一つの玉が転がり終えて、柱にぶつかると次の玉が落ちる。面白いのは、これが一曲限りではなくて、回転台に用意された席の数だけの曲が奏でられるということだ。相当長く聞いていても、飽きることがない。
このまま流しておくことにして、とりあえず、少年の様子を覗いてみる。日が差し込む時間でもないので天蓋をあげると、少年は体を縮めて掛布に潜り込んだ。ぷくく、とフェネクスは笑ってしまう。
「少年。目覚めたなら起きてみないか?」
声をかけてみると、うにゅあむにゅあと呻かれた。ぷくくくとさらに笑うと、少年が顔を出す。
「なんか、いい音がする」
「気に入ったか。今流れてるのは、パッヘルベルのカノンだな。旧世界にもあったようだが、分かるか?」
「――”パッヘルベルのカノン”。バロック期、独国で活躍した音楽家パッヘルベルが、その生涯で唯一残した追走曲であり、世界中で親しまれている。特に極東の国では、これに歌詞をつけた『遠い日の歌』も人気が高い」
「そんなものがあるのか。歌えるか?」
「――歌特化のメモリアを探してください」
ふ、とフェネクスが笑った。少年も呆気に取られているところを見ると、これもメモリアとしての受け答えらしい。
「いいさ、そのうちにどこかで見つかるだろう。で、少年? 起きるか?」
あー、と動こうとする少年だが、上手く動かないらしい。仕方ないかとその背を抱き起こし、枕を当ててやると、どうにか姿勢が定まったようだ。
「…オレには優しいよな、魔王さま」
「ん?」
「いや、さっきのあれ、非道いことしてなかったかと。処刑秒読み、みたいな」
「ああ、妖精モドキか。侵入者だし、この程度の仕置きは当たり前だろう?」
潰そうと思えば出来るし、と事も無げに彼は応じた。実はその声を聞いた妖精モドキが必死に救いを求めているのだが、どちらも気づいていない。
「てか、モドキなんだ?」
「ああ、モドキだな。本物の妖精は、そうそう出会えんよ。で、いつから起きていた?」
「んー、ついさっき。なんか、きゃんきゃん聞こえた気がして」
きゃんきゃん声、と言うとやはり、あの妖精の声だろう。あれが当代妖皇陛下の声真似だと知ったら、どう思うだろうか。声だけでなく口調もあの調子なことがあるから、文官たちは出来る限り表に出さないよう苦労しているようだし、今はまあ、教えなくていいだろう。
「――ん? 見てたのか?」
天蓋越しの出来事だから、声が聞こえることは不思議ではない。だが、落鳴琴は隣室で、扉が開け放してあるとは言え、見える位置にはない。
「……え、あれ?」
少年が戸惑う様子を観察し、納得する。
彼はさきほどからこちらを見ていない。視点も合っているようには見えない。おそらく音も聞こえていないだろう。…まだ身体の各種機関が働いていないのではないか、と。
(この辺りはやはり同族か)
視覚その他を使わずに周囲を認識することは可能である。特に現界に降りてすぐは、皆がそうなるからよく知られている。身体機能が安定しないかわりの安全機構――と、自分は見ているが、どうだろうか。そしてどう説明したものか。妖力を周囲にばら撒き、そこから得られる情報を再構成して認識している……とか、言葉で説明して理解できるものだろうか?
妖力の生成を停止出来ていれば、この状態にはならないはずなのだが――命令の効果が切れたのか、そもそも効果がなかったのか。まあ、とりあえずもう一度。
「魔王フェネクスが主として命じる。妖力の生成を止めろ、メモリア」
ふ、と。少年の身体が強張った。どうやら効果は出たようだ。妖力の生成は、過ぎると身体に負荷がかかる。あまり縛りたくはないが、自分でそれが出来るようになるまでは、ときおり命令してやるしかないだろう。
少年は目を数回瞬かせ、そこからゆっくりと首を回して彼を見た。
「――わ、何それ、虹!?」
「ああ、見えたか」
にや、とフェネクスが笑う。光の加減によっては煌いて見える、七色の髪である。うわあ、とため息をつきながらも少年は、自分の髪を見た。少し癖のある、真っ黒な髪である。
魔王の髪を見て、自分の髪を見る。そーっと手を伸ばし、魔王さまの髪に触れてみた。
「おわ、さらさらっ!?」
「あー……まあ、そういう効果もあるな」
「効果?」
実を言えば、と魔王はあっさり明かした。元の色は単なる白銀であって、虹色に見えるのは特製染料を使っているためなのだ、と。
「染めてんのかよ」
「染めたくもなるさ、白髪扱いされるんだぞ!?」
白銀の髪という存在は、実は妖魔の中でも珍しい部類に入る。仲間内では普通に白銀と認められていたものの、人間世界を放浪している間はほぼ、白髪扱いであった。おかげで髪染めは勧められるは、苦労人と見做されるは、挙句の果て老人扱いされるはと、かなり理不尽な思いをさせられてきたのである。
「……で、虹色?」
「そう、虹色。いいだろ?」
「いや、すごく似合ってるとは思うけどさ?」
突き抜けすぎじゃね? と少年は素直に口にした。魔王さまは、まったく気にしない。
「実を言えば、明るいとさほど目立たないんだ」
「へ?」
「太陽光の下だと、薄い灰色とか、光の加減で虹色に見えるとか、そんな感じでね。今もそんなに派手じゃないだろ?」
言われてみれば、と少年は気づく。虹色ではあるが、それほど濃いわけではない。そう、それこそ空に懸かる虹のように、淡い感じだ。
「夜会では目立つしな。これくらいでいいんだよ」
ふふん、と片目を閉じて見せる彼に、少年が苦笑する。まるで子供の自慢のようだ。
「自分の目で見たほうが、面白いだろ?」
「え?」
フェネクスは自分の目を閉じて、それを指す。
「さっきまでのお前はさ、こんな状態だったんだよ。目を使わずに周囲の情報を集めていたから、この色に気づかなかった」
「え、オレそんなことやってたんだ」
目を閉じた彼が何を考えたのかは、想像に難くない。だが、とフェネクスはその頭を小突く。
「せっかく目を使えるようになったんだから、やめておけというか、見えないだろ?」
「…うむ、全く」
偉そうに、と今度はその頭に拳骨を落としておいた。
感知術は本能のようなものなので、一度各種器官を使えるようになると、その感覚を取り戻すのは非常に難しい。加えて、先ほど妖力の垂れ流しを禁じたので、そもそも情報伝達が出来ないから無意味である。
「で、どうする? まだ寝台にいたいか?」
「いやー…起きたい気はするんだけど……」
実は身体を起こすのがやっとで、歩ける気がしない。少年のその言葉に、フェネクスは頷いた。その辺りは、みな同じなのだろうと。
「まあ、焦ることはないさ。とりあえず、お茶でも入れようか」
「あー…焙じ茶?」
「……薔薇茶を淹れようか」
フェネクスは何の動揺も見せず、戸棚から茶器を取り出して、茶葉を用意した。もっとも少年が見たそれは、赤いような茶色いような……あまり綺麗ではない、乾燥した枯葉のような何か、である。
「庭の薔薇を乾燥させて保存しておいたものだ」
少年は差し出された茶碗を受け取り、恐る恐る口をつける。
「あ、薔薇の香りだ」
「わかるか。庭の薔薇を摘んで、私が作ったんだ」
ああ、と少年は庭の生垣を思い出す。確かに薔薇の花が咲いていた。
(…ってあれ? なんか言ってなかったっけ……?)
彼が何かを言ったような記憶が頭を過ぎるが、思い出せなかった。そして嬉しそうな彼を見て、居た堪れない思いに苛まれる。何せ、わかるのは香りであって。
「……ごめん、これ、味…ある?」
「あー……味というほどのものはないかな。香りを楽しむためのものだし……」
「いいのかよそれで!?」
ん、と魔王が首を傾げた。おかげで少年から、味がわからない、せっかく出してくれたのにと感じた罪悪感が霧散していく。
「生垣の薔薇が咲くたびに摘んで、造っておくのさ。やってみるか?」
「え」
魔王さまとしてはけっこう本気である。単純に、身体を動かすことに慣れさせるためにはそういう単調、簡単な作業の繰り返しが効果的だというだけで、自分の趣味に巻き込むつもりはないが。
それから、とガラス瓶を差し出した。
「これも試してみないか?」
朝露がついたかのように煌めく黒い薔薇が入っている。国外から持ち込んだ品種で、砂糖漬けにしたものだよと言いながら花弁を剥がし、食べてみせる。ほんのりと香る薔薇と、けっこうな甘みが口の中に広がり、ちょっとだけお茶が欲しくなる味である。
「…あ、いい香りだ」
やはり少年は、甘みがわからないらしい。これは本格的にしばらくかかるかなとフェネクスは残念に思った。趣味は園芸――ではなくて、そこから取れる香草や花を使っての料理なのだ。ほかにもいろいろ造れるし、友人たちにも評判はいいし、食べさせたい。正直、妖魔としての成長よりもそういった方面での成長を期待したいところなのだ。
三枚目を剥がして食べ始めたところで、薔薇を引っ込める。少年からも否は出なかったので、まあ十分なのだろう。
「……あのさ」
食べ終わったところで少年が彼を見て、そこから視線を逸らしつつ問いかけた。
「…魔王さまって呼べばいい?」
「あー……まあ、対外的にはそうなるな。だが、この国には魔王がたくさんいてね。それぞれ、称号がある」
いまさらではあるが、一応とはいえ、少年は従者であり、主は魔王である。となれば、それで問題はないはずなのだが、フェネクスは何やら考える素振りを見せた。
「改めて言おうか。私の称号はフェネクス。普段もそう呼ばれてるな。――ソロモンの魔神の一人らしいぞ?」
「――”フェネクス”。 歌舞や音楽に秀でた魔王。その姿は美しい不死鳥とされ、呼び出した人間に才能を与えると言われている」
うん、とフェネクスはうなずいた。授与のときにそれは聞かされていて、そんなところまで見ているのかと驚いたことも、それがあったからこそ、この称号を受け入れたこともまだ、忘れてはいない。
「ただ、これはあくまで称号だ。名は、覚えてないんだ」
「え?」
「称号を得たときに、名を喪ったらしくてな。まあ、消滅と引き換えだから、後悔はしてないんだが。あ、偽名は大量にあるぞ?」
「はい? 偽名?」
名を失ったことも気になるが、なんで偽名。と少年がフェネクスを凝視する。
「……まあ、やってたことがあれだからな」
遠い目で過去を思い出すフェネクスは、自分がしていたこと――要は各国へ入り込み、間諜のようなことをやっていたから、とだけ答えた。その過程で名が必要になるから、適当に名乗っていたらしい。おかげで助けた面々にはただ”主様”と呼ばれているのだと。
「で、お前は?」
「え?」
「お前の名。私にだけ答えさせる気だったか?」
「――オレ?」
「ああ、お前だ」
楽しげな笑顔で、フェネクスは問いかけた。まるで、その答えを知っているかのように。
少年はしばし、考える様子を見せた。首を傾げたり、腕を組んだり、額を押さえたり――そうして、顔を上げて、同時に白旗を揚げる。
「わからん」
「やっぱりか」
「っておい!?」
あはは、と笑いながらフェネクスは答えた。
「妖魔の名は、妖魔であるという自覚と同時に得るものだからな。メモリアにはその自覚が出来ないのだから、なくても不思議はないだろう?」
どこか違う、絶対に何かが違う。少年はそう思ったけれど、では具体的にはと言われると反論できそうもないので、そのまま押し黙った。結果、二人の間に沈黙が訪れる。
まあ別に、とフェネクスは思う。悪くは、ない。もともと口数は少ないから、別に居心地は悪くない。名に関しても、急がなくていい。いっそ、自分のように偽名でも名乗らせようか。ああ、それがいいかもしれない。であれば、どこから名を取ろう?
そんなことを考えながら、ふと少年を見る。既に夕暮れといって差し支えのない景色が広がっていて、彼はそれに魅入っていたようだ。それほど時間が過ぎたかと驚いたが、もしかしたらあの招待状で遊んでいる間、結構な時間を食ったのかもしれない。
そして、ふと気づいた。自分のことばかりで、彼に何も言っていないことを。
「――いい色だな」
そんなふうに言葉がこぼれる。意味の分からないらしい彼に、枕もとの鏡を示した。それを覗き込んだ少年が、おおと息を漏らす。
真っ黒な髪はそのままだが、瞳の色は深い青。まるで夜空のような深みの瞳を持つ少年が、鏡の向こうで驚いていた。
「――宵闇色。日が落ちきる寸前に、高い空を見上げたときにだけ見える色だ」
落ちきれば夜闇となり、消えてしまう空の色。ほんの僅かな間した見られないその色だと、フェネクスは評した。
「 宵闇 」
ぽつりと少年から声が漏れる。何かまた答えるかとフェネクスは期待したが、それは裏切られた。
「 薄暮 」
それは、夕暮れを示す旧い言葉だ。意味を語らないのは、問われたわけではないからか。
「 誰そ彼 黄昏 薄明 twilight abent dusk aabentdanmerung early evening abent 」
ふと、少年が魔王を見る。虹彩のない、宵闇色の瞳で。
「――”アーヴェント”。夜よりも早く来て、黄昏よりも遅い時間に広がる、薄い闇のころ」
ああ、とフェネクスは頷く。それがどういう意味なのかを、正確に読み取って。
「――『アーヴェント』。それがお前の名だ」
シャリン、と空気を震わせない音が響いた。まるで細い鎖を振ったかのような、高く澄んだ音色で。シャリン、しゃりんと響いて――少年の姿が解けるように消えた。
「……え? おい、少――アーヴェント!?」
驚くフェネクスの脳裏に、声が響く。
『 虹霓 』
知らない言葉――なのに、脳裏に空を翔る龍が翻る。
『 星虹 』
流星のように線を引く虹。何故、そんなものが見えるのか。
『月虹 霧虹 赤虹 光冠 彩雲 rainbow arc-en-ciel arcus ιρι? arco-iris 』
円を描く淡い虹が、夕日を受けて赤く染まり、薄い雲に隠れて広がるように淡く輝いて、雲が虹色に染まり棚引く。
天使が弓を引いたかのような虹が広がったそれはもう、脳裏の幻覚ではなかった。光の渦の中にいるかのように、彼らを彩が鮮やかに、淡く、濃く、踊るように取り囲んで光り輝く。
『イーリス』
その一言に眩いほどの輝きが放たれて、収束。魔王さまご自慢のその髪に、光を残して。
「うわ……」
すごいなそれ、と姿を取り戻したアーヴェントが感嘆の吐息を漏らす。
魔王さまは、少年の変化にちょっとだけ、目を見張って。
「――ああ。自慢の髪だからな」
破顔一笑。