5 お前、実は気が短いだろ?(改)
2018年12月25日 再々改稿。さて、一気に進め…。
それは、一瞬の出来事だった。頬に涼しい風を、フェネクスは感じたのだ。
「――え?」
周囲を見回せば、そこは草原が広がる丘陵地帯――その真っ只中に、卓袱台その他と自分たちが座っている。それも、着流し姿で。奇妙に超現実な光景である。
どうやってかは分からないが、即時、現界へ戻ったらしい。
「……お前、実は気が短いだろ?」
混乱する彼から反応がない。いや、たぶん聞こえていないのだなと見当をつけて、少年は放置することにした。何の目印もない、だだっ広い草原――さて、ここはどこなのか。
(徽章に反応なし、と。なら国内か)
”魔王徽章”の特性に、「国外へ出ると色が変わる」というものがある。初代が仕組んだ特性らしいが、その理由は誰も知らない。下手をすると、忘れているかもしれない――特に、国から出ない内政関係の魔王たちなら。そんな哀れな特性だが、今回はそれが役に立ったようだ。
(…とは言え、場所はわからない、と。さて、どうするかな)
従来なら”異域”から――”白の領域”からであっても、抜け出すときは術式を利用する。それには基点となったあの泉の座標が組み込んであるから、うまくいけばあの隠し庭に、そうでなくても自分の敷地かその近くに抜け出せる仕組みだ。しかし、今回はそれを使っていない。つまりは、迷子である。おそらく少年が、現界へ抜けることだけを考えたのだろう。
「――どうした、少年?」
一言もしゃべらない彼を振り返り、その顔を覗き込む。戸惑ったように口を開く彼ではあるが、そこから声は漏れてすら来なかった。
しゃべれないわけではないはずだが、と言いかけて魔王は気づき、呆れた視線を向けた。
「……”急いてはことを仕損じる”だな」
身体が完全には出来上がっていない状態で、さらには”白の領域”で容を失って、どうにか取り戻したばかりなのにいきなり現界へ降りてしまった。たぶん、身体がこちらに慣れるまでは声が出せないだろう。”異域”ではそもそも音が伝わらないから、全て念話だったのだが、理解しているだろうか。まあ、念話に切り替えてもいいのだが、とまで考えて、やめた。聞こえてはいるようだし、たかが会話のために、術を使う必要はない。荒療治のうちにも入らないだろう、と。
自分の口数が少ないことは棚に上げて、フェネクスはそう決め込んだ。
「すぐしゃべれるようになる。気にするな」
卓袱台に向き直ったフェネクスに合わせるかのように、白一色の天板が表れる。
「――術式”興図”――発動」
その言葉に少年が己を庇うかのような仕草を見せたのは、解き放った妖力を感じたためだろう。術式に乗せてあるとは言え、体感出来る者は珍しいなと頭の片隅で思いつつ、指で一つ、天板を叩く。と、中央に六角形のマスが現れた。
とんとん、と今度は二回。そこに二つ、チェスの駒のようなものが現れた。王と騎士の二つを、少年が不思議そうに覗き込む。
そこからは、とん、と叩くたびにその周囲にマス目が増えていった。まるで蜂の巣のように数を増やし、天板の端まで辿り着いたところで――ドン。ひと際大きく鳴らした音で、二週目までのマス目に草が現れる。風に靡く様まで映し出された、小さな立体画像を見て、少年が息を呑む。だが、彼にかまう余裕はない。
彼の知らぬことではあるが、フェネクスの脳裡にはそれの元となる情報が次々と流し込まれているためだ。解き放った妖力が消えるまで、それが続く。量は、膨大であり、集めたそれらをどう利用するか、そこは腕の見せ所とも言えた。
だが流石に、とフェネクスがその場にひっくり返った。実は卓袱台がなくなって宙に浮いた天板状態なので、これまた別の意味で超現実である。
「”興図”という術式だ」
天板に触れないように身体を伸ばしつつ、深く息を吐く。これを基点にしてしまったものだから、触れるとそこから描画が再開されるためだ。当然そこで妖力が必要となるので、休憩にならないのである。
「周囲の情報を集めて、地図を作る術式とでも言うかな。いつもなら補助の術具を使うんだ、全部やると流石にきつい」
少年が恐る恐る、天板に手を伸ばす。止めないのは、彼が触れても別にそれで何が起きるわけでもないからだ。ただの映像なので、触ることもできないし、消えることも無いから、止める理由がないのである。実際、彼らを模したチェス駒にも触れられず、驚いていた。不思議そうな顔をしたのは、……動物らしき影が升目を通り抜けていたり、また現れたりしているせいだろうか。
「ああ、生態調査にも使うからな。……普段なら、補助の術具があって、筆記はそれに任せるんだ。今はそれがないから、全部やってる。情報集めて、再現して……まったく、慣れないことはするものじゃないな」
つまり、本当にそこを行き来している動物がいるのである。行動範囲を把握することもできるし、何か異常が発生したこともわかるので、重宝している。一応、自分の領地内の異常には目を光らせているのである。
「お前が勝手に抜け出したから、どこにいるか全くわかってないんだ。魔物の中には厄介なやつもいるし、闇雲な移動は出来ん。もう少し分かりやすい場所に出てくれると、楽だったんだがな?」
ぷい、と少年がそっぽを向いた。自覚があるんだかないんだかと、フェネクスは笑う。どんな魔物がいるかは、見せてやれれば早いが、“興図”の範囲内にはいないようだ。しかし本当に行き会うと厄介この上ないものばかりなので、匙加減が難しいところである。
そんなことを考えていたら、ふと袖を引かれた。何かと思って目を開けると、慌てた顔の少年が空を指す。その先には上空に浮かぶ岩――巨大な岩山が浮かんでいた。
「ああ、浮遊島か。いちおう、エミーリアの領土だとされてるぞ、あれ」
定まった航路を一定の速度で飛び続けていて、人間であれ妖魔であれ、過去にも誰一人として到達したことがないはずなのだが、どういうことかエレーミア妖皇国の飛び地として認識されていたりする、謎の岩山である。確か今の時期は、エレーミアの南西部を飛んでいるはずだ。
「あそこまであがれたら早いんだがなぁ」
忍び寄る眠気を振り払いつつ、フェネクスはまた天板に向き直った。描画を再開しようとして、少年のもの言いたげな視線に気づく。
「……飛べないからな?」
なぬ、と少年の口が動く。うん、やはり飛べると思っていたらしい。まあ、そこまで突っ込んだ説明はしなかったのは確かなので、自身の落ち度だと納得しつつも視線を逸らした。
「言わなかったけどな、上空へ行くほど魔素が薄くなるんだ。当然、妖力を練れなくなる。そうしたらどうなるか、わかるだろう?」
ということで空を飛ぶことは彼ら妖魔にも出来ず、人間たちが飛行船などを利用するので、それに便乗したりするのである。自力で出来ることなど、せいぜいが高く跳ぶ程度なのだ。
少年が考え込む様子を見て、フェネクスは笑う。彼もどうやら、飛びたいらしい。それはフェネクス自身も旅をしている間に思ったことなので、わからなくはない。けれど別に自力で飛ぶ必要もないかと考えが変わったのである。いろいろと、人間たちは面白い。
「ん? ああ、ガゼルの群れがいるな。見るか?」
水場が描かれた枡の上に、曲がった角を持つ鹿がいた。フェネクスが指先で触れると、一瞬で群れが再現される。それを見て、少年が頭を抑えた。いやいやと首を振っているし、何か言いたいことがあるらしい。
「何が言いたい?」
念話だろうと何だろうと話してくれればいいのだが、その様子がない。まあたぶん、念話は使い方が飲み込めていないのだろう。こちらから仕掛けて、彼の考えを読み取ってやれば、意思の疎通は可能なのだが……余計なことも聞こえて来るから、やりたくない。
が、次の瞬間にそれを後悔させられるとは、流石に思わなかったに違いない。少年がガゼルの群れに触れたら、ただ一頭のガゼルに戻ってしまったのだから。
待て、と声をかける暇もなく、”興図”が姿を変えていく。
ガゼルはオセロのような駒に形が変わり、頭と角だけの絵に。映し出されていた水面はただ水色に塗られた枡に。靡いていた草原は、緑の枡。森はそれよりも濃く、流れる小川はただ、一筋の線になった。
嘘だろうとフェネクスは息を呑む。発動した術を書き換えるなど、術者自身にも不可能だ。なのに、彼はあっさりと変形せしめた。その描画まで、術式内で規定してあるものなのに。
とんとん、と少年が天板を叩く。だが、それ以上の変化は起きない。起きるはずがない、それはフェネクスの支配下にあるのだから。
溜息一つで、フェネクスが天板を叩く。瞬きほどの間で、白かった升目が埋め尽くされた。少年が一つ頷くが、…変化はそこまでだ。何しろ、天板の余裕がないのだから。
「――駄目だな、やはり場所がわからない」
森も草原も、広すぎた。植生からは自分の領地だと思うけれど、という程度にしか分からない。闇雲になってしまうが、方角を決めて移動するしかないかなとちょっとだけ落胆したフェネクスを、更なる驚愕が襲うことになる。
少年が、その図を――枡目を縮めたのだ。何かを摘むような仕草で、掌ほどの大きさだったそれが、硬貨程度まで縮んでいた。天板に出来た余地は、すぐに升目で埋め尽くされる。
「いや…これ、術式……」
自由自在に好き勝手できるものは、”術”。誰が使っても同じ結果をもたらすように組んだものが”術式”。
”興図”という術式は、情報収集と地図の描画、二つの術を組み合わせたものである。簡単に出来るものではないし、自分専用なのでかなり強引な組み方をしているから、そもそも自分にすら変形させることは出来ないのに、いったいこの少年は何をしたのか。
じっと自分を見てくる少年に、はあ、とフェネクスは溜息を吐く。そう言えば、”白の領域”でも同じようなことをやられたんだったな、と。
とんとんとん、と再度天板を叩き、情報を送り込む。近いうちに、術の構造を作り変えよう。少なくとも、縮尺を任意で変えることが出来るくらいには。負けず嫌いと言われようが、かまうものか。そんなことを考えながら。
「……ん?」
天板の六割が埋まったくらいで、描画がとまった。やめたつもりはないのにと首を傾げかけたフェネクスだったが、すぐに気づく。単純に、集めた情報を使い切ったのだと。普段の利用に照らし合わせれば、そもそもがその程度しか収集していない気もする。
だが、認めるのは癪である。仮にも自分は魔王であって、彼はその従者になると約した相手。術式を改変されたあげく、指摘されてばかりは、面白くない。
天板に触れれば反応があるから、まだ術の主導権は自分にあると確信できた。では、どうするか。決まっている、彼と同じことをすればいい。少なくとも自分の術式だから、無理ではない。
(発動しているものを変える必要はない)
集める情報に焦点を合わせ、絞り込むことにした。実際、連携させてはいるけれど、描画と情報収集は同時に稼働しているわけではない。そしてやっぱり癪ではあるが、少年の真似をすることにした。集める情報を制限し、とにかく広く、浅く大まかに分かりさえすればいいと、考え方を変えたのだ。
ただの動物なら群れの情報は不要。魔物であればそうはいかないが。植物も大まかに…いや、いっそ、森か草地かが分かればいい。
そう判断してしまえば、構築は早かった。即時で発動させた術は、先ほどよりもずっと軽く、ずっと速く走りぬける。少年がたたらを踏んで尻もちをついたのを見て、ふふんと笑ってしまったのは、やはり悔しかったからだろう。
盤面が一気に塗り替わったところで、フェネクスは息を吐く。術の疲労半分、これからの騒動を思って半分、だ。
「…ああ、見つけた」
自分の館――ではなくて、見回りなどで使う小屋らしきものが、天板の端にひっかかっていた。小屋の絵に加えて自分の徽章と同じような模様がついているから、たぶん間違いないだろう。ここまで簡略に出来るものなのかと苦笑しつつ、その距離を考えた。ここからの距離はわからないが、小屋から館へ行こうと思うとかなりの距離だ。
まあとりあえず、とフェネクスは少年を見た。
「”興図”の本領を見せてやるよ」
天板の端を叩くと、周囲がぶれたかのような歪みが一瞬現れて、広がり消えた。少年には、自分たちを囲む透明な天球のようなものが、見えただろうか。いや、それ以上に彼らの背後、襲い来る緑の何かが、彼には理解出来るだろうか?
「――っ!?」
「妖化植物の一種だ。まあ、…元は宿根性朝顔なんだが」
次々と襲い来る緑の蔓に一瞬で囲まれた。もっとも、天球に阻まれるそれらに何が出来ると言うわけでもない。少年はわたわたしているが、フェネクスは平気な顔である。
何しろ、元が朝顔である。とにかく生命力が強くて繁殖しまくる厄介な妖化植物ではあるが――所詮は、朝顔だ。蔓につかまらなければ何もおきない。
「片付けるのも別に、難しくはない」
ぼそりとフェネクスが呟くと、同時に周囲――朝顔が凍りつく。不意に訪れた静寂に、少年が恐る恐る彼を振り返った。もちろん、彼の仕業以外、考えられないからだ。だが、それに答える余裕は、魔王にもない。
「この後に厄介なのが来る。目を閉じてろ、酔うぞ」
混乱している少年がそれに従えるはずもなく、またフェネクスもそれは気にしなかった。
バリン、と背後で音がすると同時に、天板が光り、セルの幾つかが連なって光を帯びた。中央に配置されたセルとそれに載る駒が、フェネクスの手で盤上の光をすべり、移動する。それにあわせたかのように、周囲の景色がめまぐるしく入れ替わり、二人は森の中に立っていた。
「なんだ、平気か。ま、これが”興図”の本領だ。本来は移動術なのさ」
驚いたような顔の少年だが、特に酔った様子はない。彼らがいる空間自体は、天球に守られているから、移動の際に何の衝撃もないし、移動していると言う感覚もない。だが周囲の景色がめまぐるしく変わる様を見ると一瞬で目を回す者は少なくないし、フェネクス自身も自分で制御するようになるまでは、目を閉じて周囲を見ないようにしていたものだ。この辺りは個人の資質によるところが大きいので、仕方がない。
「どうせ追いつかれるからな、行ける所までいく」
フェネクスはそれだけ告げて、天板――地図に視線を戻した。相変わらず、中央に駒が二つ立っている。目標とした小屋を指で叩くと、駒からそこまでの光が走る。だが先ほどと違い、色が変わるのはその途中までだ。舌打ち一つで色が変わった先端を叩く。今度は流れるように周囲が姿を変えて、止まったときには少年が口元を押さえていた。
なんだ、とフェネクスは笑う。こちらのほうが弱かったのか、と。
新たな基点となったセルが、地図の中央に配置された。二度ほど同じことを繰り返し、目標としていた小屋に出る。森の端、ちょっとだけ開けた土地にある丸太小屋だ。そこでもう一度、妖力を解き放った。ここからどうやって帰ればいいかは分かっているが、確実に目覚めたであろう魔物への警戒だ。
「――まだいけるな」
丸太小屋を中心に描かれた地図、その端で、彼らの軌跡を辿るかのように染まったセルがある。幾つかのセルが真っ赤に、その周囲は徐々に赤くなり、小屋に迫り来る勢いだ。その中には薔薇のような花が描かれているものがった。
あわてる様子はなく、フェネクスはまた指を走らせた。小屋のセルから続く一筋の線は、普段から彼が整えている道である。見知った道ではあるが、距離と時間を稼ぎたいためにも興図は解かない。一度、二度とセルを滑らせて相当な距離を稼いだはずなのに、赤いセルは地図上に増えていた。
「相変わらずだな、化け物め」
忌々しげに舌を打つ。既に妖力の余裕はないし、少年から借りるにはいかない理由もある。せいぜい出来て、あと一度。
そんなことを判断しつつ、さらにセルを光らせて――移動したけれど、唐突に森へと投げ出された。予想はしていたもののその衝撃にフェネクスはたたらを踏み、少年は立ち木に抱きつくような形でどうにか衝撃を殺せたようである。
「術が解けた。――走るぞ、舌を噛むなよ」
その一言で抱えあげられた少年は、とりあえず落とされないようにしがみつくので精一杯だった。投げ出される寸前、赤いセルがさらに迫っていたことに気づいてはいたが、何が起きているのか彼には把握できていない。
「さっきの奴だ、あれに捕まると面倒でねっ」
駆けながら、フェネクスはそれだけ告げた。風を切る音がするほどの速さで、在るか無きかの小道を行く。
少年の目に映るのは、逆回しのように流れていく森の木々――そしてその奥に、しなる蔦。そしてどういうことか、通り過ぎた木々が傾いたり枝を曲げたりして、蔦の行く手を阻んでいるように見えた。
前方がざわついたのを見て、フェネクスは向かう道を変えた。多少遠周りにはなるが、その先に川がある。館まで水を引いている小川だから、それを辿ったほうが早い。
ヒュ、と彼らの脇を何かが抜けた。地に落ちると同時に何かが生えて来たが、それを見越したフェネクスが踏みつける。凍りついて奇妙なオブジェとなったそれは、どう見ても草の芽だ。種なのか、と少年は気がついた。自分たちを撃つつもりか、それとも別の目的があるのかは分からないが、それがいくつも増えて、そのたびに奇妙なオブジェが増えていく。
ふわ、と奇妙な感覚を覚えた少年の目には、自分が浮き上がったように見えただろう。そして着地点、それは見えなかったけれど――地を蹴る音がしなくなり、その視界が急に開けた。そして、景色がさらに速く、流れ出す。
フェネクスは小川に飛び込んでいた。もちろん泳ぐつもりはないし、そもそもが膝までつくかどうかの浅い小川だ。普通なら、足が濡れて水に取られ、動きが鈍るだけである。だがそんなことは、フェネクスとて百も承知。彼が足をついたその先、ほんの二歩分ではあったが、水面は凍りついていた。いや、彼に合わせて氷の道が先に伸びていく。少年がそれに気づくのは、しばらく経ってからである。
「避けて、右から!」
一気に伸びた蔓に、少年が叫ぶ。振り向くことは無く、フェネクスは身体を捻ってやり過ごし、たちまちに凍りついたそれは彼の足を止めるには至らなかった。
「止まって、上へ!」
無茶な指示に眉根を寄せるが、岩を蹴って枝の上へと駆け上がり、そのまま枝を数本渡った。その背後、彼が走るはずだった辺りに蔓が生えていることを少年なら確認出来ただろうか。
「上から!」
頭上から来た蔓は身を低くしてやり過ごし、ついでに進路を変えて、氷の上を滑る。走ると滑る、どちらが楽かと逡巡している暇もない。
自分を飛び越えた蔦や種は、凍らせて踏み切り台に。背後に弾いて凍らせて壁にして、少年の指示に沿って身を縮めたり飛び上がったり、いい加減疲れそうなものだけれど、その速度は緩まない。
単純な話、妖力を体内に巡らせて、疲労を軽減しているのと身体強化の術を発動させているためだ。そうでなければ如何に妖魔の王と言えど、疲労困憊の頃合いである。まるでそれを知っているかのように、少年の指示は配慮がない。
地から生える蔓は、その先端が地に着く度に新たに増える。自分たちを囲むだけの結界を張ってはいるが、それはあくまで周囲を凍らせるためのものなのだ。一歩間違えば、身動きは取れなくなるし、それで囲まれたら終わりだろう。
(まあ死にはしないけどな。にしても坊や、しっかり見てるな)
そんなことに考えを巡らせるのは、余裕があるからではない。単純に集中力が切れてきたためだ。小半時近く、走り続けている。体力はまだしも、精神的に疲れてきたのだろう。まったく、彼の指示がなければ厄介なことになったとしか思えないほど的確で、ありがたい。
「見えた!」
フェネクスの叫びに、少年が安堵したような吐息を漏らした。遠目にだが、深い緑の垣根が見えている。ところどころに散る赤は咲き誇る薔薇である。彼の館を囲う、薔薇の生け垣だ。それもただの薔薇ではなく、初代妖皇が侵入者対策として作り上げたという代物で、これまた妖化植物である。三作目ということで、これは勝手に動くこともなく、ただその花から放たれる芳香で、妖化植物の麻痺を誘うと聞いている。その効果か、蔓の速度はわずかに落ちた。
相変わらずだと苦笑しつつ、フェネクスは氷面を滑る速度を上げた。朝顔の動きが鈍ったことも相まって、二者の距離は離れ出す。だが、それは彼の目的ではない。このまま進めば生垣の下を突っ切ることになり、当然そこで、行く手を阻まれる。だから。
「目と口を閉じてろ、舌を噛むぞ!」
氷でアーチを造り、踏み切る。いや、それはもう跳躍だった。生垣よりも僅かに高く、走るよりも僅かに遅く――空中で蔦が追いつきかけたけれど、芳香に鈍ったそれに捕らえられることはなく、二人は地面に転がり倒れた。確かにこれでは、舌を噛んでも不思議は無い。
しばらくして、フェネクスが身を起こした。その足に絡みついた蔓を引き剥がしているところへ、少年が近づいてくる。
「それ、さっきの奴?」
「ああ、最後に追いつかれてね」
答えながら、フェネクスが顔を上げた。そういえば先の指示も声が直接聞こえたのだったなと思い出す。
「――なんだこれ?」
「ああ、初代妖皇が創った妖変植物だよ」
「つくった?」
普段はただの植物である。しかし、とある切欠で厄介極まりない妖物となる特性を持つ、面倒な植物である。そもそもが宿根朝顔であり、花期は初夏から秋の終わりまで。下手をすると真冬にも咲き続けていることがある。
「花は綺麗なんだけどなぁ。下手すると花をちぎって放置するだけでも根が生えるくらいには丈夫らしいぞ」
茎が地面に触れると根を生やし、さらに発芽するというくらいに、生命力が強い。更にその根も伸びた先で発芽する。その辺りは妖皇宮で植物を管理する友人が言っていたので、事実だとは思うが見たことはない。
「もともとは、未熟な妖魔を発見次第保護するために造ったらしいんだが」
「……保護?」
「ああ。だから一応、朝顔自身は蔓を伸ばしてくるだけなんだ」
「だけっておまえ、…あの勢いで……?」
しかも、たしか、ものすごい勢いで逃げていた、気がする。蔦を伸ばしてくるだけというなら、そこまで焦らなくてもよかったのではないだろうかと少年は疑問に思う。そんな彼を見て、フェネクスはくすりと笑った。
「朝顔は問題ないさ、普段はただの花だしな。…っと、抜けた」
朗らかに笑うフェネクスに、少年はちょっとだけ引いた。
考えてみて欲しい、身体の中にもぐりこんだ草の蔓を引き抜いて、成功して、嬉しいのはわかるがその抜けた跡を見てしまった少年の心境を。まあ、顔色が変わるより先に、その跡は綺麗に修復されて、見た目は正常に戻ったのだが。
「……んで、その頭のそれ、何? めちゃくちゃ痛そうなんだけど?」
「いや、大して痛くはない。”茨の冠”だそうだ。何か、由来があるらしいが」
「――”茨の冠”。ある宗教に置いて、神の子を騙った罪人に被せられたという冠。その罪人は十字架に張り付けられて絶命したが、その後に復活したことから本物の神の子であったと言われている」
へえ、とフェネクスが感心したように笑った。確かに、そもそもが未熟な妖魔を守るために創った妖化植物なのだから、それが襲い掛かる相手は罪人と、言えなくはない。
頭に載った茨を触ろうとする少年の手を笑いながら弾き、やめさせる。やっぱり痛いのかと顔を顰めた彼だったが、次の瞬間に蔓が茶色くなったのを見て首をかしげた。
「――これ、枯れたのか?」
「ああ、枯らしているからな。対処方法くらいは知ってるさ。…さっきは、悪かったな。妖力を吸うと成長するんだよ、これ」
”茨の冠”は、巻きついた相手の妖力を吸い上げて成長し、檻を作る。その檻から抜け出すのは非常に手間がかかるし、下手をすると他の魔王の助けが必要になるから、その前にという判断だ。妖力を創らずにいれば魔素を吸い上げることになり、どういう理由かはわからないが、それで枯れ落ちる。
しかし、少年に自覚はないようだが、彼は今も妖力を生成しているので、万が一にも彼に巻きついたりしたらまずいのである。
ぽとり、と茨が落ちた。幾重かのうちの一つではあったが、フェネクスはつい安堵の息を漏らした。当然、それは少年にも聞こえるわけで。
「……辛いなら別に、しゃべらなくていいけど?」
気遣われたそのことに、フェネクスは苦笑する。辛いと言うほどでないからな、と。
「多少は気持ち悪いが、辛くはないよ。妖魔の身体ってのは、けっこう便利でね」
しつこく繰り返すが、妖魔の身体は人体を模したものである。所謂五感は存在するし、怪我をすれば痛むのだけれど、…実は、痛覚を遮断することが出来る。日常生活に不便が出るので普段はやらないが、ありえない怪我をしたときやそのほか、必要があれば痛みは無視出来るのだ。当然今も、集中力を散らさないという目的もあり、遮断している。異物感が消えないので、気持ち悪さだけで済む。
それを告げたのだが、…少年の顔は晴れない。
いや、そんなことを聞かされて晴れるはずがないのだが、彼には理解できない。他の妖魔たち相手であれば、これだけで話は通じるのである。
「……」
「……」
互いに何も言えず、気まずさが辺りに満ちる。フェネクスは、館まで戻れば大丈夫だろうかとか、誰が不振がるでも心配するでもないし、このままで戻り始めるべきだろうかと無茶を考えるほどである。
それでも、ぽそ、と枯れた茨が落ちて、ほっとする。これで、残るは一重である。
「……まだあるのかよ」
「ああ。”三重苦”とか聞いたな。何か分かるか?」
「――“三重苦”。三種の苦しみを指す言葉。聴力、視力、会話を失った女性を世界有数の人物に押し上げた“奇跡の人”は映画化もされている」
いやまて、と少年が額を抑えた。くっくと笑う魔王さまも、相変わらずだ。
「違うよな、これ。意味違うよな、きっと!?」
「違う、だろうな、きっと」
笑いが止まらない魔王さまに、少年が憮然とした顔になる。
初代妖皇曰く、そもそもが「”朝顔”は先鋒で、あくまで足止め役。”茨の冠”は確かに檻に仕立てたけれど、周囲のちょっかいを防ぐためのもので、中にいる誰かに痛い思いをさせる気はなかった」のだとか。しかし、それを信じるならそもそも、”三重苦”という言葉が残される理由はない。廃棄された理由は、ほぼ無差別攻撃であると発覚したからだと聞かされているが、それ以外は伝わっていないのだ。
「何なの? 妖皇さまって何なのさ!?」
「さあ、何だろうなぁ? 何しろ百年以上前に行方不明になったままだからなぁ。ま、あまり言ってやるな、かなりがんばって駆除してたそうだからな。ほら、あの生垣。あれも、初代が作ったんだぞ?」
彼らが逃げ込んだ、薔薇の生垣である。館を保護したり、それを使った駆除剤を開発させたり、いろいろと頑張ったようだし、相当後悔したのだろうからそこは責めてやるなと笑う彼に、納得がいかない顔のままで少年は頷いた。
「なあ。顔色白いけど、大丈夫だよな?」
「ん? まあ、人間と違って血液というわけじゃないからなぁ。別にそこは、心配ないと思うが?」
不安そうな少年に、笑い返す。
実際、顔色から妖魔の体調を推測するなど不可能である。もっとも、全身から血の気が失せているようなとか、実は彩度が白に近くなっているのだとか、そういう目で見ることが出来れば、それだけ調整に余裕がない状態だともいえるので、危険度は高いと知れるのだが。
「情けない顔をするな、少年。いい男が台無しだぞ?」
「自分の顔なんか見えてねぇよ」
くしゃっと顔を歪めて、少年は言い返す。それもそうかとフェネクスが笑って応じた。
「そうだなぁ…どちらかと言えば子供に近い顔立ちかな。鼻は高い方ではないが、整っている。まあ、町で女に声をかければ、八割くらいは応えるんじゃないか?」
「いや、そういうの興味ねぇから。てか、鏡か何か作ってくれると嬉しいんだけど?」
「ああ…今は無理だな、術を封じられてるんだ」
「……え」
少年の声に、フェネクスは自分の失敗に気づいた。心配させないように誘導するつもりだったのに、と。
「不思議か?」
仕方ないから、事実を告げることにする。ちょっかいを防ぐ、には周囲が勝手に逃がすことも含まれている。それに加えて、未熟な妖魔はその妖力を暴走させやすい。それを防ぐため、妖力を吸い上げて術の発動を防ぐ機能を持っているのだ、と。しかも野生化して繁殖した個体だから、その威力は半端ではない。
そこまで説明したところで息を吐いた彼を、少年は自分に寄りかからせた。フェネクスは逆らうこともなく、ただその茨が彼に触れないようには気をつけた。
「…おまえが女じゃなくて、残念だよ」
「言ってろ」
わざとらしい溜息と軽口を叩く程度には余裕があるかと、少年は安堵した。だが、何かに気づいたようにフェネクスを睨みつける。
「お前、やっぱりおかしいだろ。――透けてるよな、その身体?」
「茨を枯らせば、すぐに取り戻せるから大したことじゃない」
否定もごまかしもできず、目を閉じた彼が応える。その応答は力なく、…まるで眠りにつく寸前の子供のようだ。
「で、何で透けてる?」
眠りたいんだけどなあと呟いて見るものの、少年の表情は変わらない。絆されたり騙されたりはしないようだ。誤魔化したい思いは溜息一つで隠し、フェネクスは答えた。
「この茨は、妖力を吸い上げて成長し、檻を作る。そうならないように、妖力の生成はしていない。逆に、魔素を吸い上げると枯れるから、今はそれをやってる」
かなり眠い頭をがんばって働かせたが、それが限界だった。もう少し、ごまかしたかったけれど。それを聞いた少年は、数瞬だけ黙り込む。
「――どういうことだよ?」
「…だからな……」
妖魔の身体は、魔素で創られている。人間の身体を模倣しているため、その活動には人間で言う血液が必要となる。それが流体魔素であり、彼らの生命線だ。
そして今は、それを吸わせることで”茨”を枯らそうとしている。ただ問題は、そもそもがフェネクスには余剰の魔素が少ないこと、先の逃走劇で相当に消費してしまっていたことだ。
普段、そんなことは意識する必要が無い。何しろ周囲に魔素は満ちているし、あんな派手な動きをすることなど滅多にない。そもそも、そんなことを思い出すことすらもしないのだ。今のように、茨に捕まりでもしない限りは。
「…ごめん。オレのせいだな」
「いや…、…まあ、突き詰めればそうなる……か……?」
そう、本来なら直接、自分の庭に出た。つまり、朝顔に追われることにはならなかったのだ。どれほど消耗しようが、問題は無かった。その考えに思い至り、まずいと唇を噛む。このままでは、変なことを口走りそうだ、と。
もちろん、少年の故であるはずが無い。そもそも、”異域”へもぐらなければよかっただけの話なのだから。だが、それを告げても今は伝わらないだろうしと、フェネクスは諦めた。
口先三寸とまではいかないが、今ここでこれ以上の会話は避けたい。眠気も手伝って、何を口走るかわからないし、それの訂正が出来るかどうかも怪しい。だが眠いだけでこれはないだろうから、たぶん、犯人はあれだ。もしここまで計算に入れてあの文面を造ったなら、褒めてやる。…絶対にないけど。きっとここまで考えてはいないだろうけれど。ああ、そういえば…一応、命令しておこう、か。
「…悪い、本気で少し眠る。…お前は、妖力の生成を止めて、待ってろ」
これなら逆らえまいと、魔王らしくフェネクスは笑う。嘘ではないし、眠ってしまえば何を答えることもない。だから、これが一番楽な方法だ。
だというのに。
「なんか、方法ないのか?」
意識が無理やり縫いとどめられた。眠いんだよ、と内心で毒づいたことに少年は気づいただろうか。
「大したことじゃない…どうせなら、寝台で寝たいけどな……」
館の方角を指したフェネクスの手が、ぱたりと落ちる。少年があわてるが、既に意識は無く、そして軽い寝息を立てていた。
だからフェネクスは気づかなかったし、防げなかった。少年の身体に、額から落ちた最後の茨が触れてしまうことを。ほぼ枯れかけていたそれが、まだ生きているのに。
だから。
「うわ…!?」
一気に体温が下がる、そんな感覚に襲われた少年は、意識を失った。