平野奈子の場合
ぐるぐるぐると何回も手を回す。
貴方のためのチョコレート。
でも、貴方には絶対あげないチョコレート。
勇気を出すことは、あまりにも難しくて今年も私は嘘をつく。
「これ、好きな人にあげるんだ」
真っ白な雪が降り積もる。
そんな今日はバレンタイン前々日でだった。
私は張り切って、近所のスーパーにいた。
店内はバレンタイン一色で、所狭しとチョコレートが置かれている。
「うぇ、気持ち悪い。早く帰ろうぜ、奈子」
「まだ、来たばっかりなんですけど!今日は荷物持ちとして、ちゃんと働いてください!」
「俺にチョコレートくれたら、いいよ?」
「やだ!あげない!」
私はそう言うと、そっぽを向いて歩き始めた。
横で、尚がブツブツと文句を言っている。
こういう時、可愛らしい女の子は素直に返事をするのだろうけど、私にはできない。
なんてたって、相手は幼馴染で初恋の人で親友なわけで。
尚がいない生活なんて想像できない。
だから、告白なんかしてこの関係が壊れるようなことなんてしない。
絶対に、一生、しない。
特設されたチョコレート売り場をキョロキョロしながら進む。
探しているのは、尚が好きなビターチョコレート。
それで、今年も作るのだ。
たくさんの愛情がこもったテリーヌショコラを。
テリーヌショコラは、私が初めて作ったお菓子である。
尚のお母さんの得意料理で、私も小さい頃からよく食べていた。
尚はそんなお母さんの作るテリーヌショコラが大好きだった。
いつもおかわり、と元気よく言っていたのを思い出す。
そんな尚の姿を見ていたせいなのか、私が初めて自分で作りたいと思ったお菓子はテリーヌショコラだった。
まぁ、最初は散々で、人様に見せられないようなものが出来上がってしまったのだけれど。
そんなことを思い出しながら、材料を次々と入れていく。
生クリーム、ココアパウダー、くるみにバター。
「これって、もしかして……?」
「そう、テリーヌショコラ。今年も作るんだ!」
「へぇ、誰に?」
毎年恒例のこの会話。
尚は凝りもせずに私に同じ質問をする。
私は少し口角を上げて、また嘘をついた。
「好きな人に」
尚はそんな私の返事に全く興味を示さなかった。
早くここから出たいのか、私を強引にレジまで誘導する。
ちょっとぐらい動揺してくれたら、なんてそんな甘い妄想はとっくの昔に捨ててしまった。
毎年、この光景が続いてくれたら私はそれで十分なのだ。
それだけで。
帰り道。
私は尚に服などの荷物を持たせていた。
「ねぇ、奈子……」
「やだ!絶対持たないよ!尚は今日荷物持ちなんだから!」
「あぁ、うん」
なんだか、今日の尚はいつもと少し違っていた。
歯切れが悪いというかなんというか気持ち悪い。
どうせ、体調が悪いとかそんなところだろうと私は高を括っていた。
沙恵が尚に駆け寄ってくるまでは。
「尚くん!偶然だね!何してたの?」
そう言って、沙恵は尚の腕に絡みついた。
まるで、尚は私のものとでも言わんばかりに。
尚はそんな沙恵を少しも気にせず、普通に会話を続けていた。
「あぁ、荷物持ちかな、奈子の」
「そうなんだ!じゃあさ!じゃあさ!今から暇ってこと?」
「まぁ、そうなるかな」
「じゃあ、一緒に映画観に行かない?この前、言ってた映画、今日が公開日なの!」
「いいね、行こうか」
そこでようやく尚は私の方を向いた。
いつもと変わらない、その顔で。
尚は私の方を向いた。
尚の表情から、私は何も読み取ることが出来なかった。
長年の友情、想い出、そして私の驕りが足元から崩れ落ちるような音がした。
「というわけで、映画観に行ってくる。荷物、よろしくな」
そう言って、尚は私に荷物を渡した。
尚は荷物持ちなんだよ、なんて反論は出来なかった。
尚は呆然としている私を置いて、沙恵と映画館の方に歩いて行った。
私はその後ろ姿をただただ見つめていた。
小さい頃の私の夢は尚のお嫁さんになることだった。
お父さんでもなく、お兄ちゃんでもなかったのは、多分尚と過ごす時間が圧倒的に長かったからだと思う。
そう思えるくらい、私と尚はいつも一緒だった。
小学生や中学生になって、周りの子からからかわれるようになっても、それは変わらなかった。
そして高校生になった今でも、その関係は変わらないはずだった。
しかし、今日でそれも終わりみたいだ。
なんてたって、尚に彼女ができたのだから。
しかも、相手は学校で可愛いと噂の沙恵だ。
私ごときがかなうわけがない。
そうやって諦められたら、どんなによかったか。
私は家に入った途端、荷物を床に置いてわんわんと泣き始めた。
まるで、子供のようにみっともなく。
朝から私は軽快にシャカシャカと音を鳴らしていた。
渡すあてもないテリーヌショコラを作るためにである。
今年も結局自分で食べることになるんだろうなとはぁとため息をついた。
しかも、尚には彼女が出来たのだ。
自分で食べる他はない。
何度も頭の中であの光景がリフレインする。
仲よさそうだったなとかお似合いだなとか先越されたなとか。
私の方が何倍も好きなのに、なんて負け惜しみは言うつもりはなかった。
この想いをこれから先、私は尚に伝えることはないだろう。
そう決めないと今すぐ尚に想いを伝えてしまいそうだった。
「尚くん、彼女できたんだな。とびきり可愛い」
「そうみたいだね」
「あれ、知ってたの?」
兄は目を丸くして、私の方を見つめた。
そんなに私の反応が可笑しかったのだろうか。
兄はきっと私の想いを知っているのだろう。
「それでいいのか?このままで終わって」
「別に、いいんじゃない?」
「本当に?」
兄はしつこく何度も私に尋ねた。
兄の会話を全て受け流しているうちにテリーヌショコラが出来上がっていた。
兄はそれを見つめて、再び私に尋ねた。
「諦めていいのか?」
すぐに返事をすることが出来なかった。
諦めたくない、そんな想いが心の底から湧き出すのを感じた。
この関係を壊すことを恐れて、ここまで引き伸ばしにした結果が、これだ。
「やだ」
思わず、口をついた言葉が私の意思を固めさせた。
もしかしたら、テリーヌショコラを作るのも最後かもしれない。
そう思うと、少し勇気が出た。
天気は快晴。
清々しい冬晴れの今日はバレンタインデーである。
はやる胸を抑え、震える手でインターホンを押した。
はい、と聞き馴染みのある声とともに出てきた君に少し胸が高鳴る。
そして、私は押しつけるように箱を渡した。
「ずっとずっと好きだったよ、尚」




