噂話・7
その日、セレナは機嫌がよかった。
リルに持ちかけられたクランへの勧誘は即日で判断できるようなことでもない。それでもギルドの上長と少し世間話がわりに転職の探りを入れてみれば、特に問題はなさそうだった。
リルの話を、受けてもいいかもしれない。少なくとも、ギルドの仕事よりはやりがいがあるに違いない。何よりセレナは、浅くない交流のあるリルに事務員として誘われた事実が、少なからず嬉しかった。
仕事を終えたセレナは、浮き足立った気分のまま久しぶりに一人でお酒でもたしなもうかと落ち着いた雰囲気の店に入った。
どの席に座ろうかと軽く店内を見渡して、セレナは瞠目した。
落ち着いた店内のカウンター席に一人、あまりにも場にそぐわない人物がいたのだ。
大柄な体格の男だ。整えてもいない無精ひげに、蓬髪をいくつもより合わせたような奇妙な髪型。何よりも奇異に映るのは、腰にぶら下げた双刀だ。ここは、冒険者が帯刀したまま入るような店でもない。
だがセレナは男を見て、ほう、と感嘆の息を吐いた。
その男があまりにも見事にその場に紛れていたからだ。
周囲にそぐわない風貌に対し、気配を均一に慣らすことで違和感を消している。そこにあるのは隠形の究極のひとつだ。周りに気配を馴染ませて同化する。格好によらずそれを成すなど、並大抵のことではない。彼が本気を出せば、その場にいることすら意識できなくなるだろう。
「隣、いいですか」
「ん? おう」
ちらりとセレナの姿を確認したクルクルが、あっさりと頷く。
「意外です。こういう店に来るような人だとは思いませんでした」
「たまには俺も雰囲気を気にするんだよ。験担ぎで、明日がいい日になりますようにってな」
挨拶がわりのセレナの皮肉を、クルクルはさらりとかわす。
明日。
何かあっただろうかと記憶を探って、すぐに思い至る。
「ああ、リルドールさんたちの叙勲式ですか」
「そんなとこだ。嬢ちゃん達もいい感じに成り上がってきたもんだな」
「確かに、そうですね。リルドールさんを初めて受け付けた時は、あんなに大成する人だとは思いませんでした」
「はっはっは! そりゃそうだろうな。あそこまで特殊な魔法もそうそうねえからな」
会話をしながら、セレナもカクテルを注文。カウンターに置かれた一杯を飲み、舌に転がす。
「そういえば、あなたはこの国に来る前は何をしていたのですか?」
「基本的にぶらぶらしてるが……直近で一番印象に残っているのは極東の桜列島だな。あそこはいい国だ」
「極東の……わたしは行ったことがありませんが、ライラさんが特に興味を示していましたね。それに、あそこの当主は、元は、私たちの仲間ですよ」
「らしいな。もっとも、俺がいた頃はそいつの兄貴、アキズ・カネサダが当主だったけどな」
クルクルの言う通りだ。『雷討』の初期メンバーだった彼が帰国することになったのも、先代当主の突然の死が原因によるところが大きい。
「今の当主はどんな奴だったんだ?」
「ライラさん曰く『変態』ですが……とても強く、優秀な人でした。ただコンプレックスのせいか、自分に自信が持てない人でしたね。自分の兄には敵わないんだと、よく愚痴っていました」
「ああ、そりゃしかたねえ」
セレナの人物評に、クルクルが相槌を打つ。
「先代は素晴らしい剣士だったからな。抜き手も見せない居合切り。目の前のすべてを千々に蹴散らす剣技だった」
まるで見てきたかのように話すクルクルを、セレナは不思議な気分で見やる。桜列島には、五十階層が解放された迷宮がある。先代当主も上級上位の猛者だったというのはセレナも聞き及んでいるが、クルクルのように見聞きしたような力量までは知ってはいない。
だがそこでセレナは、いや、と思い直す。
先代当主とクルクルは実際、面会があったのかもしれない。クルクルほどの実力者を目にすれば武芸者ならば誰だって興味を持つ。いまセレナが経歴を探るような会話をしているのも、興味本位によるものが大きい。
「先代の当主とは、お知り合いで?」
「ああ、少しな。堅物だが、いい奴だった」
「そうなんですか……お悔やみを申し上げたほうが?」
「ははっ、それはかえってあいつに失礼だろうよ」
信じられないことだが、先代当主は迷宮の外で斬り殺されたという。上級上位。世界に数えられるほどしかいない強者が、だ。
その犯人は、手がかりすらつかめてはいない。
「ちょうど、私たちが七十七層を突破した頃でした」
「そうだな。ちょうどカネサダとあんたらの時が重なってすれ違いになったんだったよ……。カネサダの野郎の相手を優先してたら、まさか、そっちがあんなに早く下るとは思わなくってなぁ」
「なんの話ですか?」
本筋から外れた独り言のようなセリフになんのことだといぶかし気に眉を顰めたセレナに、相手はなんでもないと手を振る。
あるいは、酔っているのだろう。度の強い酒を飲みながら管を巻く。
「カネサダみたいな英傑ですら、敵わない奴がいるんだ……なあ、セレナの嬢ちゃん。例の噂は知っているか?」
「ああ……知っています。時として、英傑が不審な死を遂げることがよくあると。その犯人は、いまだ大陸を彷徨うクルック・ルーパーの腕試しによるものだと、そういう噂ですね」
実際、上級上位の中でも選りすぐったような実力者が迷宮の外で殺される事件は、史実で絶えず続いている。しかも例外なく、刃で斬り殺されている。
それがクルック・ルーパーの犯行だという大陸伝説だ。
「そうだよ。どう思う」
「どうとも。ただのゴシップです」
面白がるような質問に、あっさりと答える。クルック・ルーパーが三百年生きているなんて、現実味がなさすぎる。おおかた、上級上位という実力に惹かれ挑んだ戦狂いの凶行がどの時代にもあったと、そういうオチだろう。そもそも強者を、英傑を選んで襲うというなら、言わせてもらいたいことがある。
そのクルック・ルーパーとやらは、セレナ達の前に出てきていない。
「しかし、クルック・ルーパーといえば欠かせないのが、イアソンだよなぁ」
「ああ、大英雄ですか」
時代に名だたる猛者。彼の挙げた名前に、なるほどと頷く。
背負うような大剣を振るったとされる、戦時代の英雄、イアソン。
「戦場の神さ。この世界で誰よりも強かった奴だ」
「クルック・ルーパーも敵わなかったという話ですからね」
実際、クルック・ルーパーには二つの時期がある。
一つは、とびぬけて優秀な傭兵であった時代。彼が擁する傭兵団は、大陸全土で戦乱が巻き起こっていた時代にあって、雇えば勝てるといわれるほどに精強であった。だが同時に、その頃のクルック・ルーパーが特別凶悪な人物だったという史実はない。もちろん傭兵らしくあれくれものであり、殺生もしたが、しかし戦場のルールを大きく破るようなこともなかった。
そうして、彼が稀代の大悪党と呼ばれるようになった時期。
それは、イアソンが消えてからだ。イアソンが死んでから、彼の凶行止める者がいなくなったといわれる。クルック・ルーパーの伝説的な殺戮は、イアソンが迷宮の奥底から帰還することがなくなった数年後から始まった。
「そういえば、背中の大剣はどうしたんですか? 随分身軽になりましたね」
「あれはただの思い出の品だ。重いから置いてきたよ。それにしてもセレナの嬢ちゃんは、なんか機嫌がいいな。酒が入ってるにしたって、いつもよりかなり饒舌だ。いいことでもあったのか?」
「わかりますか? 実は、リルドールさんに誘われたんです」
「なに?」
上機嫌に言葉を弾ませるセレナに、クルクルがぴくりと反応する。
「事務員としてクランに入らないかって、そう誘ってくれたんです」
「ふうん。なるほど、悪い気はしてねえみたいだな。別にいいんじゃねえのか」
いままでになく素っ気ない返答に、おやと思う。クルクルの表情を確認してみれば、彼の顔から笑みが消えていた。
「俺はあんたの人生を知らねえ。好きにすればいいさ」
いままで不敵にだらしなく、大胆で適当に笑ってばかりいた男が見せた感情は、怒りに近かった。どことなく、不愉快そうな色をにじませている。そして不機嫌さの奥には、どす黒い激情が見え隠れしていた。
どこか覚えのある感情だ。いったいどこで、と記憶を探って気がついた。
その激情は、ライラが時折覗かせる苛烈な感情によく似ていた。
「ただよお、セレナの嬢ちゃん」
飲み干したグラスを置き、突然不機嫌になったクルクルの態度に、その奥にある狂気にも似た見覚えのある感情にあてられて戸惑うセレナに告げる。
「百層で死んだ仲間達を、忘れていいのか?」
セレナの顔が、凍り付いた。
「ああ、いや、そうなんだよなぁ……知ってたさ。あんたほどの人間でも、忘却に流されるんだ。トーハほど功績を積んだ奴でも、時間に負けちまうんだ。重々承知済みさ。それが人間さ」
「な、なにを――わ、私はっ、忘れてなんてッ!」
「おいおい、気にするなよ。たわ言さ」
心臓を鷲掴みにされたようだった。心に刺さった言葉に、セレナは声を荒げて立ち上がる。忘れていない。忘れてなどいない。百層で失ったトーハを、己の師匠の死を、どうして忘れられるものか。その思いを込めて、セレナは怒鳴り付けるように言葉をぶつける。
だがクルクルは、その反応を気にしたそぶりすらない。むしろセレナの心中なんてお見通しだとばかりに立ち上がる。
「悲しい心が、悲しかったなんていう言葉に変わったんだろう? 消えないと思っていた傷が少しずつ癒えたんだろう? 忘れられないと思った記憶が薄れていくのが救いだったんだろう? 喪失に浸るより、新しくできた友人が喜びなんだろう? 二度と動かないと思った心なのに、最近、笑えるようになってきたんだろう?」
一言も、言い返せなかった。
クルクルは踵を返し、絶句するセレナに背を向ける。
「よかったな、セレナ」
立ち去ったクルクルを、見送るしかできなかった。
立ち尽くしたセレナの耳に、残されたグラスの中で、からんと溶けて動いた氷の音が響いた。
セレナを置いて店を出たクルクルは、ゆっくりと夜道を歩く。
気分が悪かった。夜風が頬を撫でる感触も、飲んだ酒による酔いの余韻も、時折通りかかる酒場の馬鹿騒ぎも、何もかもが気に障った。
「どいつもこいつも、忘れっぽすぎるぜ」
大嫌いな世界を歩きながら、彼は皮肉っぽく唇を歪めた。
忘却は罪ではない。時間は害悪ではない。人を苛み苦しめ粉々に砕いてしまうような感情を摩耗させて癒す、唯一の手段であると歓迎すらされている。その味方と共に、人間は前に進むのだ。なるほどそれが人間だ。それが、人間なのだ。
だからこそ、彼は許せない。それが人類だからこそ、彼は人類の害悪になったのだ。
不意に彼は立ち止まり、夜空を見上げた。
限界が定められたこの世界。空は途方もなく巨大なドーム型の天蓋に覆われ閉じられている。
そこすら抜け出せない矮小な自分を知る彼は、それを知らない世界をあざ笑う。
「このちっぽけな世界で、思い出させてやらねえとなぁ」
人は忘れる。大切なものも、憎いものも、降り積もる時間に抗うのはあまりに難しく、忘却と時間に勝利できる人間はあまりにも希少だ。
けれども、忘れたのならば頭を叩いて思い出させてやればいいのだ。癒えてしまったのならば、新しい傷をつくってやればいいのだ。
「俺がどんなにすげえ奴だったのか、この世界に刻みつけてやらねえとな。そんでもって、だ」
そうすれば、世界は思い出す。
それこそが彼の道だと、狂気に落ちた男は知っている。
「この世界がどれだけちっぽけで大したものじゃねえのか、あの三人に思い知らせてやらねえとなぁ」
ケタケタと男は笑う。
細工は済んだ。仕込みも上々。あとは天地と人に結果を示すのみ。
明日、リルドール・アーカイブ・ノーリミットグロウが上がる晴れ舞台。
その場を殺し、クルック・ルーパーは再び表舞台に踊り出す。




