第八十九話
父との面会を終えて帰宅したリルは、湯浴みを済ませ寝室で思案に暮れていた。
両親は完璧でもなければ理想的でもない。父は優秀な貴族なのは間違いないが融通がきかない頑固者だし、母は体面を整えるのに優れてはいるがヒステリックで感情的だ。リルだって、親から見たら完璧とは程遠い不出来な子だったろう。
けれどもそんな他人ならば切り捨ててしまうような欠点を抱えていても許容できてしまうのが家族なんだと納得した。
家族というものをなんとなく理解した気になれたリルは、帰ってから父と話して気が付いたことを真剣に考慮していた。
己の進むべき道、いくつか分岐して選び取れる将来。
いま自分は岐路に立っている。明確になった自覚のもと、選び取ったら自分の未来がどうなるかを検討していく。
自分が、冒険者を止める。組織の長としての仕事に従事する。
考えてみれば、その変化は悪くなかった。
そう、悪くないのだ。それがおかしなこととは思えない。リルが組織の運営に力を入れるのは、ごく自然な成り行きだとすら思う。
リルは別段、戦うことが好きだというわけではないのだ。魔物との闘争には随分慣れたが、それでも自分が、仲間が命を失うかもしれないと思うと身震いがする。迷宮の探索はリルにとっては成り上がる手段でしかなく、冒険そのものが目的だというわけではない。
コロやヒィーコ、カスミ達という得難い仲間が集まってクランという組織を得た。リルは戦うこと以外で、自分の名をあげる手段を得たのだ。
実家からの帰路でアリシアに相談してみれば、彼女は少し考え込んだ後にこういった。
「あくまで私個人の意見ですが……お嬢様には、もう冒険にでてほしくはありません」
やはりというべきか、それが一般的な意見なのだ。
命の危険があるような冒険者稼業など続けることはない。抜け出せる時に抜け出すべきだと、それが普通の感覚なのだ。
だというのに後方の仕事に従事することを未だに迷って、どうしてもなじまない理由はわかっていた。
その決断は、かつての自分の目的とよく似ていたからだ。
コロの才覚に嫉妬していた時の自分と、コロの才能を利用してやろうと思った時の自分の考えとよくよく似ていた。後方に下がって組織を運営することは、コロを利用して名を挙げようと無意識ながらも画策した卑怯者の自分の道と重なって見えたのだ。
だが、という反発が心に生まれる。
他ならぬリル自身に、かつての自分とは違うという自負があるからこその想いが生まれる。
リル自身冒険者としての経験を積み、コロやヒィーコのさらに一歩前を歩いていた。その経験を活かすことの何が悪いと、その経験があるからこそ後方でも輝けるのだと、そう思うのだ。
後方に下がること。
それは、この一年の生活を大きく変えることになる。ただ、生き方は変わっても生きざまは変えるつもりはない。
ならば、やはり迷うことはないのでは?
思い悩むリルの顔をひょいとのぞきこむ顔があった。
「どうしたんですか、リル様」
「……コロ」
お風呂上がりなのだろう。薄手の寝間着をはおったコロは全身からほのかに湯気を漂わせている。いつもは頭頂から巻いている髪は真っ直ぐにおろしてあり、赤毛はしっとりとした艶やかさを見せていた。
湯上りのコロは、ぽすんと軽い音をたてて同じく寝間着姿のリルの隣に座った。
「リル様、今日は帰ってきてからずぅーっと難しい顔してます」
「いろいろと考えることが多いのですわ」
「リル様でも解決できないくらい難しいことなんですか?」
「ええ、なかなか解けない命題ですわ。……そういえば、コロは人員の選出は進んでいますの?」
「え、えーと、とりあえずニナさんとか、コロナお姉ちゃんと特に仲が良かった人たちを中心に声をかけて話を聞いてます!」
わたわたと釈明を始めるコロは、まったく考えていなかったというわけでもなさそうだ。引き抜きの人員を選出するにあたって、きちんと本人たちとも面談しているらしい。
今の悩みをコロに相談してみようか。
とりとめもない会話の中で思いついたそれは、むしろ今まで思いつかなかったのが不思議なくらいのものだった。
コロのことだ。リルが悩み事を話せば真剣に聞いてくれるだろう。コロは一見もの知らずに感じられるが、本能的に物事の本質を見抜いたりもする。コロの視点に気がつかされたことは多い。今回のことだって、コロに相談すればなんらかの打開策が思い浮かぶかもしれない。
だが、それでもコロに相談するのに踏み切れないのだ。
正確に言えば、リルの心のどこかがコロに相談するのに怯えていた。
ヒィーコはいい。カスミも構わない。アリシアには相談できた。セレナが相手でも問題ない。でも、コロにこのことを話すのだけは、どうしてか躊躇われた。なぜか怖かった。
「コロは、どうして冒険者を続けていますの?」
臆病に迷った末に出たのは、そんな中途半端な相談の仕方だった。
案の定というべきか。唐突なリルの問いに、コロは目を瞬かせた。
「どうして冒険を、ですか?」
「ええ」
それは今更な問答で、いつかの問いかけに似ていた。
冒険をする理由。命をかけて冒険に挑む行動原理。初めて会った時、コロはこう答えた。
わたしは、戦うことしかできないから、と。
コロナはこう答えた。
自分は、戦うことならば一等だからと。
ならば今のコロはどうなのだろう。ただ生活をするためならば前に進んでいく必要もない。もっと安全圏で稼げばいい。また、コロは戦いが大好きだというわけではない。さらには色んなことを学びつつあるコロは、どうして冒険に突き進むのだろうか。
思いをこじらせるリルとは対照的に、コロは迷うことなく純粋な言葉を選び取った。
「リル様が、そこにいるからです」
恥じず、照れず媚びることなく、コロは自分が見つけた道を答える。
その思いを受け取って、しかしリルはあえて厳しい言葉を返す。
「ならばコロは、もし私が冒険に出なくなったら、どうしますの?」
「リル様が冒険に出なくなったら、ですか」
「ええ」
瞳に戸惑いを宿すコロに、リルは追求の手を緩めない。
「私が迷宮にいなくなったら、コロが迷宮で戦う理由はなくなってしまいますの? わたくしがいるから戦うというのは、つまりわたくしがいなかったら戦わないということじゃありませんの? それはおかしいですわ。わたくしはコロのためにいるわけではありませんし、コロはわたくしのためにいるのではありませんわよ」
自分の立場をコロに置き換えて問い詰める、ちょっと卑怯な相談方法。けれどもいまのリルの言葉は確かに思い違いをしてしまってはいけない部分なのだ。
コロはコロであり、コロ以外の何者でもない。
コロはリルのためにいるわけではない。リルのためコロがいるわけでもない。リルとコロは別々の人間で、二人の人生は違うものだ。
コロがコロナとなってしまった時に、リルはそれに気が付いた。
「リル様が、迷宮の探索を辞めたら……」
ふっと目を閉じ、わずかな思考の時間を挟む。
たった、三秒程か。
改めて目を開いたコロは、明るく笑った。
「ならわたしは、迷宮で戦ってリル様の助けになります」
現状の変化への対応。何時間もうだうだ迷っていたリルとは違い、コロはたったの三秒で答えを出した。
「リル様は、字が書ける人です。いっぱいたくさんのことを知ってる人です。身なりが良くって気品があって、お金にも困ってない人です。すごく立派な、お城みたいな家に住んでいる人です。だから、迷宮で戦う以外でも色んなことに挑戦できる、すごい人です」
あまりにも早く出た明快な答えに驚くリルに、コロは太陽よりも明るく笑う。
「わたしは、てっぺんなんてわかりません。自分が一等だとも思いません。でも、だからこそわたしは戦えます。リル様が何にでも挑戦できる人だから、きっとわたしが戦うことで、リル様の助けになれます。自分のやることがリル様に繋がるから、そこにリル様の縦ロールがあるから、わたしはいつだって迷わないでいられます」
リルの髪を一房持ち上げたコロが、照れくさそうに笑う。
「いつでもどんな時でも何をやったってリル様が前にいて、いつかはリル様に届くかもしれないんです。わたしはそれを追って全力全開全速力で進めます。止まることなんて考えません。転んでも、痛くっても、そこに道があるんだって信じられます」
にこりと笑うコロの顔は、初めて会った時より随分大人びて見えた。
「わたしはリル様がいる『そこ』に向かって走れます。リル様は、いつだってどこにいたって、世界に輝くリル様なんです」
本当に、この子は。
自分が思っていたよりもずっとずっと自分を思ってくれるコロの言葉に、リルはふっと口元をほころばせる。
コロはいつだって、自分の欲しい言葉をくれる。
胸がふわりと浮き上がるようなあたたかい気持ちが胸を満たす。迷走して、葛藤して行き詰まっていた感情が、あっという間に軽くなる。
だからこそ、リルはコロの信じるリルでいられるのだ。
リルはコロではないし、コロはリルでもない。
けれども、リルはコロがいるから、世界に輝くリルドールでいられるのだ。
「あ」
そこでリルは気が付いた。
どうして自分が冒険者としての活動に未練を残しているのか。
いまと変わってコロにどう思われるか、その変化が怖かったのだ。いま冒険をしているリルへ真っ直ぐに向けてくれている憧憬が薄れてしまうのではないかと、無自覚にびくついていたのだ。
「ふ、ふふふ」
思い至った理由に、リルは思わず肩を震わせる。
なんと子供っぽい理由だろうか。あきれるほどに怖がりだ。なんだ、結局自分は何にも変わっていないではないか。それに改めて気がつかされた。
自分は、見栄っ張りで意地っ張りのリルドールのままだ。
だがそれが自分なのだ。卑しくみじめな意地っ張りが自分なのだ。
「リル様?」
「いいえ、なんでもありませんわ」
ああ、なんだ。
自分というものを理解する。
成長したつもりだった。かつて見放された両親にも見直された。それほどのことを成したつもりだった。
でも、こうなってすら、自分は見栄を張らずにはいられない。コロの前ではいい格好したがりな小娘でしかない。結局、自分はたいした人間ではないのだ。
なら、目指そう。
自分はまだ大した人間ではないのだ。ならば、こんなところで満足してたまるものか。
もう迷うことはない。
「えいっ」
「っわぶ!?」
リルは勢いをつけてコロの首筋に抱き押し倒す。
いつになく子供っぽ仕草のリルにコロは目を白黒させつつも、抵抗はしない。そのままゴロンと二人で並んで寝そべった。
「今日のリル様、ちょっと変ですよー?」
「ふふ。そういう日だってありますわ」
リルは悪戯っぽく微笑み、ぎゅっとコロと手を繋ぐ。
まだまだ問題は解決していない。リルの道は確定していない。それでもただ一つだけ決めたことがあった。
「迷宮の底、百層まで。一緒に進みますわよ、コロ」
「もちろんです!」
できるだけコロと、自分が見つけた光と一緒に冒険するのだ。そして同時に、クランの運営だってやってやる。異なるベクトルの二つのことを同時に極めるまで追求する。欲張りで無謀で無茶で無理? いいや、そんなことはない。
だってコロが憧れた自分の輝く縦ロールは五本もあるのだから、二つのことをこなすなんて、きっと楽勝だ。
「ついでに、一緒に組織の運営もがんばりますわよ」
「うび!? そ、それは、そのう……」
「が、ん、ば、り、ま、す、の、よ?」
「うぅ……はいぃ」
コロと一緒にどこまでも進む。
それだけは絶対に正しいのだと、晴れやかに笑うリルは誰にはばかる言い切ることができた。




