噂話・1
リルがメイドに逃げられたと気が付いてしょんぼりする少し前。
コロとリルを見送った受付嬢、セレナは暇を持て余していた。
実は訳ありのセレナに受付業務を依頼するのは、もの知らずな初心者か肝の据わった中級者以上の冒険者のみだ。他は恐れおののいてセレナの座る受付には近づこうとしない。冒険者ギルド内でも、同僚はもとより上司すらどう接していいのかという困惑がにじみ出る態度でセレナに接する。
ギルドに雇われているセレナだが、そもそも受付業務は本業ではない。ただ平時にやることが少ないため、受付に座っているだけだ。避けられる理由も承知している。だから彼女は特に気にしていなかった。
今日は変な縦ロールの人が来ただけで、他は特に変わりなく平和で良いことだ。セレナがそう思っていた時、ざわりと冒険者ギルドが動揺に包まれた。
何だろう、もしや自分の仕事案件かと騒ぎのもとに視線を向けたセレナだったが、すぐに納得した。
黒髪黒目の、小柄な少女。
ざわめきの発生源であるギルドの入り口から堂々と入ってきたその人は、あまりに有名な冒険者だった。
王国の、いや、大陸全土でも最強と名高い特級冒険者、ライラ・トーハだ。
彼女はぐるりとギルドを一望して、セレナに目を止める。
そうして居場所を確認するや否や、一直線にセレナの座る受付に向かってきた。
「久しぶり、セレナ」
「お久しぶりです、ライラさん」
気さくに声をかけてきたライラに、セレナは丁寧に頭を下げる。
なにせ今のセレナはギルド所属の受付嬢。そしてライラはギルドの最優良利用者の一人だ。
「最近どう? 馴染めてる? いじめられたりしてない?」
「やめてください」
保護者のようなことを言うライラに、セレナは顔をしかめた。
ライラとは旧知の仲であり、その実績実力に尊敬の念を覚えているが、自立しているいまでもこうして保護者のように接されるとさすがに気恥ずかしい。
「ライラさんは学園に入学したとか。王子といい仲になっているとか婚約しただとか結婚は三か月後だとか、噂だけは聞いていますよ?」
「なにそれ。無責任な噂ね」
セレナの嫌味に、ライラはあきれ顔をみせる。
「あの王子様には営業してたのよ。うちのクラン、でかいだけで人材不足だから、人脈紹介してくださいってね。交渉なんてなれないことしたせいで疲れたわ。深層の魔物を殲滅してる方が気が楽よ」
「それはライラさんくらいですよ」
「そう? セレナもじゃない?」
「一緒にしないでください」
ライラがマスターであるクラン『雷討』は王国で最大の規模を誇るクランではあるが、同時に若いクランでもある。来るもの拒まずの姿勢で人を増やしていたため、メンバーの比率が戦闘しかできない人員に偏っているのだ。
「何だかんだ、上流階級って頭のいい人間が多いわよ。例の王子様の紹介もあって、事務職ができそうなの何人か引き抜けそうでほっとしてるわ」
「それはよかったですね」
少なからずクランの内情を知っているセレナは心の底から祝福する。
『雷討』の人員不足は深刻だ。なにせ、一時期は目の前のライラが経理事務を担当していたのだ。
「これで引き抜いた人たちが馴染めば、ようやく組織として安定するわ。学園に通っているような貴族の子息って、余裕のある生活をしてるんだから、心も余裕のある人ばっかりよ。……まあ、貴族のなかでも、とんでもないバカがいるのは確かだけどね」
なにか思い出しのたのか、ライラが酷薄な笑みを浮かべる。
「それで、今日は何をしに?」
王都には、合計四つの迷宮が存在する。そのうち二つは国の管理下で冒険者の出入りが制限されている。ライラの根城は、こちらの迷宮ではない。
ライラがこちらに来ることはめったにない。なにせ、こちらの迷宮は五十層以下が解放されていない。九十層以下が主な探索域であるライラにとっては無用の場所のはずだ。
いくら知り合いとはいえ、ライラも忙しい身だ。まさか自分と話に来ただけではないだろう。そう思って問いかけたセレナに、ライラはあっさりと要件を切り出す。
「ちょっと新人の引き抜きにね」
「新人、ですか」
言われて、セレナは何人か有望な新人を思い浮かべる。
「ただの好奇心で聞きますが、誰ですか?」
「コロっていう、燃えるみたいにきれいな赤毛をした十五歳くらいの女の子。間違いなく天賦の才を持っている子よ。たぶん、今日来てるはずなんだけど、知らない?」
「部外者に、ギルドの情報を漏らすわけにはいきませんので」
ちらりと流された視線に、セレナは機密を盾にする。
それがただの受付記録だとして、ギルドで記された情報をぺらぺらとしゃべるわけにいかない。親密な知り合い相手ということもあっていまのセレナは多少緩んでいるが、そこをはき違えるようなことはしなかった。
「というか、そこまで知っているのなら、直接会っていけばいいんじゃないんですか?」
「んー……私も、今日ここにきているはずっていう情報だけで来てるのよ。だから、今日来てなかったら、会えない可能性が大」
「はあ。そうですか」
要領を得ない情報に困惑を隠せない。
名前に特徴、しかも秘められた才能まで知っていて、なぜ本人の居場所については知らないのか。語られる情報に偏りがある。
だがセレナの知る限りでもライラは昔からそういうところがあった。
本来なら知りえないはずの場所、知らないはずの人物、知れるはずのない未来のことなどを言い当てることがあるのだ。
「まあ教えてくれないならいいわ。無理に聞き出すのも悪いし。あ、それとちょっと聞きたいんだけど……」
何か思い出したのか、ライラはカウンターにずいっと身を乗り出して自分の黒髪を軽くつまむ。
「私の髪って、そんなに傷んでないよね?」
「はい?」
唐突なおしゃれトークに、セレナは目をぱちくりさせる。
「えっと……ライラさんの黒髪は、綺麗だと思いますよ? 会った時から、素敵な色だなと思ってましたし」
「セレナ大好き!」
正直な感想を言うと、ものすごくオーバーな感謝をされた。
最強の冒険者も乙女である。
髪の毛の手入れをロクにしてないとか言われて、ちょっとだけ傷ついたりもしていた。
「……なんなんですか」
そんな事情を知らないセレナはわけのわからないテンションに、辟易とつぶやく。
「ありがとう。癒されたわ」
「癒されたって……」
「いやさ、さすがに貴族のお嬢様みたいに手入れの専門の人を雇ったりはしてないけど、それでも自分なりにちゃんと手入れはしてはいたつもりだったのよ。枝毛もないし? 別にバサバサってわけでもないし?」
「はぁ……」
「じゃあ、それだけ。今日はもう帰るわ。またね!」
あからさまにご機嫌になったライラは手を振って立ち去っていく。
「なんだったんでしょう……」
結局何をしに来たのか、よくわからないまま終わってしまった。
ただ、久しぶりに会ったライラと接して、一つだけ思う。
「思ったより元気そうで、よかったです」
セレナが最後に会った時のライラは、もっと追い詰められていた。大切なものを失って、それでも止まれない場所に立たされていた。
ぽつりと感想を呟いたセレナは、ふと仕事中だということを思い出す。業務を再開しようと自分の机の中を探って、そこにあるはずのものがないことに気がついた。
「……あの人はっ」
受付の記帳ノート。それが抜き去られていた。
おそらくは、カウンターに身を乗り出したときだろう。さすがは最強最速の冒険者か、と舌打ち。
「怒られるの、私なんですけど」
いや、果たして怒られるのか。
半端に自分へと気を使う上司の顔を思い出して、この件を報告してもお互い気まずい沈黙が流れそうだなと憂鬱な未来を幻視したセレナは、深々とため息を吐いた。
一方、手癖悪く受付記帳を抜き取ったライラは、天下の往来を歩きながらノートをめくっていた。
「んー……」
じっくり読むようなことはせず、ぱらぱらとめくって目を通す。
身体能力が極まって思考速度も極限にあるライラには、速読のような真似も可能だった。
「コロ……コロ……コロ、ネル? 惜しい。こんなコロネパンみたいな名前じゃない」
受付の記帳には同姓同名の場合も考慮して軽く特徴を記してある。そこに髪の色が赤毛ではなく茶髪となっていることも確認して、続きに確認する。
「コロ、コロ、赤毛のコロは……やっぱり、ないか。あの時の決闘騒ぎのせいかな。婚約破棄の時期が早すぎるし、私のせいで変わってるって考えるのが妥当か」
最後まで目を通したノートを閉じて独白する。
赤毛のコロについては、もともと彼女の記憶の中にしかなかった情報だ。その情報と現在の状況が適合しなくなるしたら、手掛かりはなくなった。
どうするか。
これからの予定が変わったことを自覚して、ライラは少し思考に時間を費やす。
いまのライラの様子を見たら、セレナはおそらく悲しみ、落胆しただろう。
己の求めるべきところへ至るために考え込むライラの瞳に彼女の本来の陽気さはなく、狂おしいほどの執念が宿っていた。
「……見てみたかったんだけどな。主人公の器を」
ぼそりとつぶやいたライラは、己の本拠地に足を向ける。また新しい試練を求めて。困難を克服し、また自分を磨くために足を進ませる。
結局、家名が記されていない『リルドール』という名前に、ライラが目を止めることはなかった。