第六十二話
コロが『栄光の道』に行って一週間あまり。
リルは、いまだベッドのある部屋から出ようとすらしなかった。
学園から除籍され親から見放された時ですらもこんな有様にはならなかった。
それだけ心がコロに頼っていたのだろう。それが欠けてしまった反動が今のリルだ。
日がな一日ベッドに潜り込み、そのくせ部屋に運ばれる三食はぺろりと平らげ、不潔なのは嫌うらしく湯浴みは欠かさない。そんな自分の雇い主を見て、アリシアは情けないとは思わなかった。
むしろこれでも別にいんじゃないかなとアリシアは思わなくもない。
だってこのままなら、リルが冒険をすることもなくなるだろう。
それなら、問題ないだろうと思うのだ。
コロの前ではリルは強くあらねばと己を律している。いなくなればこのざまだが、しかし今のリルも紛れもなくリルの本質の一つなのだ。
アリシアは知っている。
リルは弱い人間だ。今でこそ強くなろうと、身の程知らずなほどに強くなろうと自分を励ましているが、本当は弱い女の子だ。
天然で純粋に心が強いコロとも、生まれと育ちで嫌が応にも心身を鍛え上げたヒィーコとも違う。
貴族としての生まれにも淑女としての育ちにも、リルを強くする要素はなかった。
だから強くなろうと強がるリルを好ましく思うと同時に、時に不安になるのだ。
いつか、木っ端みじんに砕けてしまうのではないか。
側で見ていてそう恐れてしまうほどのひたむきさが今のリルにはある。
アリシアは一般人だ。貴族社会に片足を突っ込んでいるとはいえ、一介の使用人でしかない。ただ日々の糧と将来の蓄えのために働くごく普通の社会人だ。
だからアリシアには冒険者の誇りなどわからない。
闘争に明け暮れるなんて野蛮だと感じるし、いくら稼ぎが良くなっても命の危険にさらされる迷宮に知り合いが行くのは嫌だった。
それでもリルは迷宮に向かった。
最初はすぐやめると思った。次はそのうち行き詰まると考えた。最後に、冒険はやめないかと一度だけリルに申し立てた。
リルは絶対に譲れないんだときっぱりと断り、冒険を続けた。
そんなリルだから、少し足を止めて休むことぐらい許されるのではないかな、と思うのだ。あるいはこのまま立ち止まったとしても、アリシアはリルを責めることはしない。むしろ少し嬉しい。
甘くなったな、と自分でも自覚している。
どうしようもなく手が付けられないようなお嬢様に対して、いつの間にこんな入れ込んでしまったのか。
けれどもコロの前ではどこまでも自分を追い込んでいるリルに、自分が少しくらい甘くなってもいいはずだ。
まあ、変な人形を自作するのはやめてほしいが。
そしてそれを使っておままごとをし始めようとする気配がしているので、どうやって止めようかと悩んではいるが。
それさておきアリシアがそんなことを考えていると、玄関のベルが鳴る。
またヒィーコ達だろうか。冒険者に戻れと騒ぐ彼女達の来訪を少し煩わしく思いながらアリシアは応対に向かう。
できればしばらくそっとしておいてほしいのだ。だがアリシアの一存で訪問者を追い返すのも使用人の分を超えている。
だから来客の応対に出て、思わぬ人物を見てアリシアは目を見開いた。
「こんにちは。リルドールさんは、いらっしゃるかしら」
四十を超えた、穏やかな婦人。
オーズの母親が、リルの家を訪問した。
来訪者の名前を聞いて、リルもベッドからはい出る決意をした。
とても人前に出れる状況ではなかったので、アリシアに手早く身支度を整えさせる。
そうして久しぶりにまともにベッドからはい出たリルは、オーズの母親と対面した。
「お久しぶり、ですわ」
「ええ、こんにちは」
冒険に引っ張り出しに来たわけでもない。ただリルと話したいという相手に、リルも身支度を整えた。
とはいっても、髪は巻いていない。
リルの、それはもう長く量の多い髪は軽くすいて二つに折っている。何もせずそのままおろすと、髪が足首を超えて床にこすってしまう。モップ人間になるのだ。
二つに折ってまとめてもなお腰を超えて髪が伸びているのだから、その長さが知れるというものだ。
そんなリルの髪にまず目をとめた。
「髪形を変えたのかしら」
「少し、気分が乗らないのですわ」
よくも悪くも髪型はリル最大の特徴だ。今のリルにとっては触れられたくない話題だが、それが会話の口火を切ることになるのも当然だろう。
まだちょっと癖が残ってへたっているが、急ぎ整えた髪はワカメというほどでもない。ヒィーコ達を相手にしていた時に比べればマシだ。
それに、この髪形をしているリルは、しおらしくなっている今の態度と相まって神秘的にすら見える美しさがある。余計な言動と縦ロールさえなければ、思わず見惚れてしまうほどの美人なのだ。
「そうなの。その髪型もきれいだけど、私は前のほうがいいと思うわ」
「……」
何気ない婦人の言葉に、ずきりとリルの胸が痛んだ。
自分の髪。縦ロールが憧れだと言ってくれた少女は、いま傍にいない。
そんなリルの心情を、もちろん婦人が見逃すはずもない。
「何か、悲しいことでもあったのかしら?」
「……え?」
どうして、と顔を上げたリルに夫人はほほ笑んで答える。
「女の子が髪形を急に変える時は、何かがあった時なのよ」
もちろん例外もあるが、今のリルはわかりやすい典型だ。とはいえさっきの婦人の問いかけはあからさまなリルの反応を捉えたものだ。その表情を読んだというのではなく、あえてそんな定例句を口にしたのは、リルの心情を汲んだゆえだろう。
そこまで他人の機微が察せないリルだが、婦人の気遣いに相談しようかと口を開きかける。
だが、具体的な事情は話したくない。
今のリルでも、この夫人に愚痴を言いたくないというプライドの欠片が残っていた。
「信じていた人に……もしかしたら、裏切られたのかもしれないのですわ」
「まあ」
なけなしのプライドが混ざっての中途半端に出てきた事実。それを聞いた婦人は驚き方までおっとりとした反応を返す。
「それで少し、ふさぎこんでいましたの」
「まあまあ。それだったら、偶然の訪問だけれども丁度よかったわ。ただの雑談でも気晴らしになるかもしれないもの」
「そうかも、しれませんわね」
自分に打ち明けて、とは言わない婦人の言葉にリルは知らずに気を緩めて口端が持ち上がる。
そんなリルの反応に婦人が目元を和ませたが、リル自身はそこに気づけるほど目ざとくない。
「それで、今日はどういうご用件ですの」
「あら、大したことじゃないわ。ただ、見舞い金のことなんだけれども……」
「ああ」
言われてリルも思い当たる。
カニエル討伐で出た褒賞金。その半分ほどを、リルはあの戦いで散った王国小隊の遺族への見舞い金に当ててくれと手続きをしていた。
「どうか受け取ってくださいませ。お詫びにもならないとは思いますけど……お渡ししないと、わたくしの気がすみませんわ」
「……そうね。ありがたくいただくわ」
お金で癒える傷ではない。あるいは家族を失って転がりこんできた金銭を嫌悪する人もいるだろう。
ただそういう問題ではなく、貴族でもあるリルの心の表し方の一つが金銭の授与なんだと読み取った婦人は、嫌悪なく受け取ることにした。
「ふふ。話すことが早速なくなってしまったわね。せっかくだから、さっきの話を聞かせてもらってういかしら?」
「さっきの……」
「ええ。裏切られたかもしれなくてふさぎ込んでいると言っていたけれども、リルドールさんはどうしたいのかしら。かもしれないなら、もちろん勘違いかもしれないでしょう?」
「それはそうかもしれないですけど……わかりませんわ」
「あら、なぜ?」
なぜ。
聞かれて、考えようともしなかった理由が言葉として口から出てくる。
「それは……怖くて」
文字になって言葉にして、自分でも初めて気鬱の理由を自覚する。
そうだ。いまのリルは裏切られたかもしれないから悲しいのではなくて、裏切られたかもしれない今から次へと進むための作業が怖いのだ。
怖い自分はベッドに潜り込んで立ち止まった。
だって確認すればコロが本当に心変わりをしていると確定するかもしれない。その可能性が現実になる確率が、ほんのわずかでもある。
でも、自分がそれを調べなければ、いつまでも事実は確定しない。立ち止まってさえいれば、いまよりも悪くならないはずだと思い込もうとしてたのだ。
そんなわけ、ないのに。
「そう? そうね。人の心を確かめるのは、いつだって怖いものね」
同調してくれるように婦人は言ってくれるが、そんな問題ではないとリルは自嘲する。
自分が臆病ものだというだけの話だ。
誰かを信じ切る勇気がないだけなのだ。立ち止まっていれば、直視しなければ現実はないのと同じなのだと逃避をし続けただけなのだ。
コロを信じると思ったはずなのに、コロが自分の思い通りの行動をとらなかっただけでこんなにもうろたえてしまっている。
「どうすれば……」
強くなると誓ったはずなのに、目指す光が見えなくなっただけで無様を晒してしまう。
息子を失って、それでも涙をみせず、ふさいだ様子もなく振る舞う彼女に問いかける。
「どうすれば、あなたのように強くなれますの?」
「私みたいなおばさんはね、強くなっているわけじゃないのよ。ただ鈍くなっているの。悲しみも、喜びも、恨みつらみも何もかも、心が慣れて擦れきっていくだけなのよ」
婦人は自分の心を嘆くわけでもなく、穏やかにただ事実として語っていく。
「あなたみたいな年頃の娘さんは、いくらでも自分の感情に振り回されていいのよ。それがみっともないと思うかもしれないけれども、何事も経験。いつかあなたの糧になってくれるわ」
そうなのだろうか。
それだったら、無様ないまの自分も、いまはもう思い出したくもない学園時代の自分にも、何かあったのだろうか。
弱く吠えることしかできず、自分以外の自分の付属品にすがってわめくだけのただの小娘だった自分。
現実を知るのが怖くて、立ち止まって無為に時間を消費した、周りに置いていかれてしかるべき自分。
捨てたいと思っている過去にも何か価値があるというのだろうか。
「リルドールさん。ひとつ、年寄りの小言を言わせてもらうわ」
暗い顔をしているリルの心を晴らすためにか、婦人はにこりと笑う。
「いつ、どこに逃げ隠れしてもね。そこは、今のここなのよ」
その言葉の真意は、婦人の半分も生きていないリルには伝わりきらない。あるいは的外れに、あるいは当たり前のことのように思える。
ただ、ひとつだけ確かに思った。
いつかその言葉が、本当の意味で理解できるようになりたい。
そういう人になりたいと、強く思った。
「あなたから見て、わたくしは、どんなわたくしですの?」
わたしはだぁれ。
そんな自問の答えを、リルはあえて他人に預けてみる。
問われた婦人は、まるで若い少女のように悪戯っぽく微笑んだ。
「貴女は素敵なお嬢さんよ? 願わくば、そうね。あなたみたいなお嫁さんが欲しかったのかもしれないわ」
若々しく笑う婦人の笑顔。
鏡では見えない自分が、その中には見えていた。
最後にわずかな寂寥感だけ残して、彼女は帰宅した。
応接間に控えていたアリシアは、そっとリルの様子を見る。
前回の面談の時、リルは涙を流していた。涙を流して握りしめた拳の中には何かを得ていた。
そして今回は、違う強さを手に入れたのだろう。
「アリシア」
「どうしました?」
問い返しつつも。答えはわかっている。
決意を込めたリルの声に、結局こうなるんだな、と苦笑した。
だってリルは、強がりだから。
もしかしたらアリシアは、結局リルが前に進むことを確信しているからこそ、少しの間でも立ち止まって欲しいと願っていたのかもしれない。
自分の真意は、アリシア自身にもわからない。
ただ、確かなことはひとつだけ。
「髪を、巻きなさい」
「はい、お嬢様」
いつかは世界に輝くお嬢様。
そのリルの命を、アリシアは恭しく承った。




