第五十六話 ワカメ
人間を人間足らしめるものは何か。
多くの人間は知性か理性だというだろう。
知恵と道具の源泉たる知性。本能を抑え込み、人に誇りを与える理性。その二つのどちらかこそが人間を野生のくびきから脱し、ただの動物より一段上にある万物の霊長類である要素に違いない。
まあそうするとどこぞのカニが人間だという暴論がまかり通ってしまうのだが、それはそれ。例外はいつの世も存在するのである。
ではもう少しミクロな、個人的な視点で考えてみよう。
世界に輝くリルドール。そう自称し胸を張っているリルをリル足らしめているものは何か。
リルを知る多くの人間がこう答えるだろう。
縦ロールだと。
リルを構成する八割、いいや九割ぐらいは縦ロールだと、そういうだろう。リルは美人だ。派手に整った顔も、誰に恥じることなく豊かな体つきもあり、見た目だけなら女性としての魅力に溢れている。
だがそれでも、リルは縦ロールなのである。
印象というものは大事なのだ。五本の縦ロールを総合計すれば自分より大きい面積をしているようなものをぶら下げている人間を相手にすれば、それに注目しないわけがない。出会った第一印象から面と向かって会話をする第二印象、そうして別れる第三印象に、記憶として残る第四印象ぐらいまではリル=縦ロールという図式が成り立つ。それはどうしようもないことで、覆しようもない事実だ。
つまり、リルの縦ロールがほどかれると「ん? 誰だこいつ。なんでワカメが地上にいるんだ」となる。冗談抜きで誰だか分からなくなるのだ。一目で見抜けるのは付き合いの長いアリシアと、あとはコロぐらいなものだろう。
それはカスミの知識にないリルである。そしてそんな金色のワカメがヒィーコを引っ張ってきたカスミの目の前にいた。
「……なんですの」
カーテンを閉め切った部屋。まだ日が高い時間だというのに、薄暗くしているこの部屋は、その光量にふさわしくどんよりした雰囲気が漂っていた。
それもこれも、この部屋の主が原因だ。
リルは自室のベッドにちょこんとうずくまっていた。来客を応対するリビングにも出たくないということで、カスミはアリシアにここまで入れて貰ったのだ。
そうして面会したリルだが、カスミの予想を飛び越えた変貌ぶりだった。
やる気が微塵も見られないじっとりとした視線。仮にも来客の応対だというのに、服装は薄着の寝巻のまま。だが色っぽさは微塵もない。というか、ほどかれた髪の毛を整えてすらいないようで、いつもは誇り高く巻かれている縦ロールが消失し、ぼさぼさにぐねんとうねったまま放置されていた。女のカスミが憧れるほど素晴らしかった金髪は、心なしか艶が失せている。
「え、えっと……」
早まったかもしれない。
リルの部屋に訪れたカスミは、一言目で早くもそう後悔していた。
いまのリルは、その背中に暗黒を背負っている。よくも悪くも堂々としたリルしか見たことのないカスミはこの変貌ぶりが信じられないほどだったが、一度リルの底辺を見ているヒィーコは割と納得していた。
リル姉メンタル弱いからなぁと、そういう納得と諦めの仕方である。
いまのリルはまさしく腐れワカメ。ここにヒィーコは何も間違っていなかったと証明されてしまった。
だが、とカスミは思いなおす。
今のリルはショックで一時的にこうなってしまったのだ。気持ちさえ持ち直せば、いつもの堂々としたリルに戻るはずである。その志を胸に、果敢に声をかける。
「あ、あの!」
カスミが注目したのは、リルの右肩。前一本、右肩から垂れている部分だけはリルらしさというべき縦ロールが残っていた。一本だけ、リルらしさともいうべき縦ロールが残っている。
「その、髪に絡みついている奴は何ですか……?」
「ああ……これですの」
その縦ロールに包まれるようにして、何かが絡まっている。それを話題の糸口にと思ったのだが、返ってきた答えはとんでもなかった。
リルはいとおし気に縦ロールに絡まっている人間大の何かを取り出し、ひと撫で。
「ふふっ。これはコロ人形ですわ」
あ、これまずいやつだ。
素人以上、玄人未満のアマチュアクオリティのコロ人形。赤い毛糸で作られた髪はもちろん縦ロールにしてある。
出来栄えはともかく、名状しがたい執念に似た何かがそこにある。もはや自分の手に負えない。撤退するべき事案だとカスミは気が付いたが、自分が渋るヒィーコを巻き込んだ手前、早々に退散するわけにもいかなかった。
リルは「うふふふ」と怪しく笑って自作と思しき等身大コロ人形を一本だけ残った縦ロールに絡ませている。
おそらくヒィーコは一度これを見ていたのだろう。なるほど、こんな姿を見れば酒場での暴言もうなづける。病院か教会の修道院に叩きこまなかっただけまだ敬愛の念が感じられるというものである。
その友人と言えば、カスミの後ろでひそひそとリルの使用人と話をしていた。
「あたしが来た時より悪化してるんすけど……」
「いえ、わたしも赤い毛糸の買い付けを命じられた時点でまずいなこれはと思ったんですけど……」
どうやらリルの精神状態は日増しに悪化しているらしい。
これ以上悪くなったらどうなるのか。はっきり言って想像したくない。それは人間の精神の底辺を一つ目にするということを意味している。
少しでもリルをまともな精神状態に引き戻そうと、カスミは会話を続行させる。
「えと、コロネルちゃん、人形……ですか? でも、なんでそれを作った……かは、何となくわかっちゃうんですけど、なんでそれを縦ロールに絡めているんですか……?」
「ふふ、それは簡単ですわ。コロは一緒のベッドに寝てる時、よくわたくしの縦ロールに甘えるように巻き絡み付いてきましたの。まあ、あの子はわたくしの寝癖だといっていましたけど……」
何言ってんだこいつ。
カスミには一片も理解できない生々しい狂気を語るリルに言葉も忘れてポカンとしてしまう。
惚けるカスミに、リルは艶やかに微笑んだ。
「だからこれを髪を絡ませておくと、とても心が落ち着くのですわ」
このワカメはもうダメだ。
半ば確信してしまったが、それでも引き下がれない。だってカスミは、リルに憧れているのだ。その憧れの人が腐っているのを見過ごすのはあまりにも忍びない。
ぐっと拳を握りしめる。勇気を振り絞る。危険に踏み込む覚悟を決める。
「リルドールさんっ正気に戻ってください!」
「正気に……? わたくしはいつだって正気ですわ」
いまのリルが正気だったら本気で見捨てても何の後悔もないのだが、どこをどう見ても狂気しかない。あと一歩で、人間の精神の深淵に引きずりこまれてしまいかねないほどにいまのリルは闇が深い。
「いつもの堂々としたリルドールさんはどうしたんですか! いまのワカメなあなたを見たら、コロネルちゃんだって悲しみますよ!」
「コロが……でも、コロはもう……」
もうとか言っていながら等身大コロ人形を作って抱きしめている未練タラタラなワカメを思わず殴りたくなってしまったカスミを誰が責められるのか。
だがカスミは常識人だった。ツッコミが行き過ぎて変異し新たなボケになったとか外野から言われていようと、頭のネジを錬金して締め直してくれとか仲間から懇願されてようと、カスミはリルに比べれば、というかリルと比べるのも失礼ほど堅実堅固な精神を持っている大人な少女だった。
「コロネルちゃんがリルドールさんのパーティーを抜けたのには絶対何か事情がありますって! じゃなきゃ、よりにもよってあのコロネルちゃんがリルドールさんに何も言わずに他のクランへ行くはずだありませんよ。その理由を確かめないと!」
「なかったらどうしますの……?」
「はい?」
だからコロ本人に事情を聞きに行こうと続けようとしたカスミを遮ったのは、否定というには力のないただの弱気な言葉だった。
「もし……もしですわよ。もしコロが、何の事情もなくて、ただわたくしなんかに愛想が尽きて、より魅力的な条件を出したクランへと移っただけだったら、どうしますの……?」
この腐れワカメが。
事実確認すらしたくないというただのヘタレているだけの逃避を聞いて思わず内心で罵倒してしまったが、口に出すのはなんとか堪える。精神が不安定になっている相手を罵倒してもいい方向に向かうことはないのだ。だからカスミは深呼吸を一つ。自分の心音を確認し、平静になるべく努める。
「どうせわたくしなんて、もの覚えが悪くて、体を動かす才能もなくて、性格も悪くて、嘘をつくぐらいしか能のない女なのですわ……ふふふ……あの子に、コロに見捨てられても仕方がありませんわね……」
「そんなこと言わないでくださいっ。リルドールさんは、多くの人の憧れなんですよ!」
自虐に浸っている鬱陶しいリルの頭上にタライでも錬金してぶつけたい衝動を誤魔化し、カスミは声をあげる。
まずはコロがいまどうなっているのか、どうしてパーティーを抜けたかを解明しないことには事態は動かない。何とかしてリルを再起させようと、カスミは照れもなくして真摯に言い募る。
「憧、れ……」
憧れ、という言葉にピクリと反応する。
それに手ごたえを感じたカスミはここぞとばかりに言葉を重ねる。
「リルドールさんの冒険を見聞きした多く人がリルドールさんに憧れているんです。ヒィーコちゃんだってセレナさんだって私のパーティーメンバーだって……私自身だって、そうなんです! そんなあなたが、自分のことを卑下しないでください!!」
「みんなが……あなたも……?」
ぽつりと呟いたリルが、じいっとカスミの顔を見る。
ここで目を反らしては駄目だ。なんか鬼気迫るというか、すごく怖い視線だったが、カスミは己の精神力を総動員してリルの青い瞳を見続ける。
不意にリルが、そっと縦ロールを伸ばしてきた。
手を伸ばせよ、体を動かせよ、お前は自律するワカメか、と思ったがリルの魔法上仕方のない。仕方がないんだとカスミは思い込む。
たぶん、握手の代わりか何だろう。感謝の印か友好の証か。伸びてきた縦ロールに応えて手を差し出すが、リルの縦ロールはするりとカスミの手をスルーする。
「え――ひゃうっ!?」
何を、と思ったら、リルの縦ロールがカスミの体に絡みついてきた。
柔らかく、繊細でくすぐったい。腐れワカメと呼ばれようとも、リルの髪の毛の質は最上級だ。極小で極上の髪が体を撫でる未知の感触に、カスミは思わず声を上げてしまう。
「んっ……やっ、ぁ……!」
リルの縦ロールは無遠慮にカスミの体を這い上がってくる。
足元から上体へと絡みつくように伸びてくるリルの縦ロール。何をしたいのかよくわからない。よくわからないが、何かを試されているのはわかる。
だからカスミは体を這うリルの縦ロールの感触に、必死に声を抑えながら耐える。反射的に抵抗しようとする体の動きを押さえ込み。これでリルが元気になるのならばと、唇を噛みしめて、耐え続け――
「……やっぱり違いますわ」
ぺっと吐き出すような感じでカスミはリルの縦ロールの中から投げ出される。
「え?」
解放されたカスミはきょとんと目を瞬かせる。そんなカスミをヒィーコとアリシアは気の毒そうに見つめていたが、当のリルはもう目もくれていなかった。
「感触も、大きさも、全然……やっぱり、コロじゃないと……」
ブツブツとつぶやくリルは、ひっこめた縦ロールに自作のコロ人形を絡ませる。
そうして腐れワカメは布団をかぶり直し、またベッドへと引きこもった。