第五話 エストック・ぶれ
迷宮の第一層。
最下層は百層まで下るこの迷宮の最初の階層である。出現する魔物も弱く、野外に生息している野生の獣のほうがよっぽど手ごわいというレベルの魔物しかいない。
そこを、おっかなびっくり歩く少女が二人。先導しているのは、曲がりなりにも経験者であるリルだった。
コロは初めて入る迷宮の光景を物珍しそうにしつつも、しっかりとした足取りでリルに付いて歩く。
「中、明るいんですね」
コロは迷宮に入って初めて知った意外な事実に、困惑を含ませながらつぶやく。
地下にある迷宮だが、意外なことに一定の光量が保たれている。構造は洞窟に近いが、迷宮の通路自体がほのかに光を帯びている部分があるのだ。
迷宮に初めて入ったコロにとっては、その明かりが不思議に見えた。洞窟などの閉鎖空間では、基本的には暗闇に閉ざされるというのが彼女の常識だったのだ。
「ええ、そうですのよ。上層のほとんどの場所では、こうして光が保たれていますわね」
学園の授業の一環でも何度か来たことのあるリルは、そういうものとして認識しているので疑問も驚きもない。リルの説明に、コロもそういうものなのかと仕組みなどは深く考えないで納得する。
「でも、迷宮の通路ってなんですか、これ」
コロが手近な壁をこんこん、とたたく。感触は木に近い。というより、床も壁も明らかに木製である。ところどころ節やコブなどが飛び出てはいるものの、想像していた迷宮とはズレていた。
地下にあるのだから洞窟のように岩石でできているのかと思いきや、しっかりとした壁なのだ。見た目としては、とてもよく整備された坑道に近い。
「なんか、すごくしっかりしてますね」
「ええ。迷宮の壁や床の素材は樹木の類みたいですわ。相当な強度があるようで、めったに壊れませんわね」
「へー。固いんですね、これ」
「ええ。それこそ上級冒険者でも傷一つつけられないんだとか。階層ごとに構造の差はありますけれども、迷宮の壁や地面はどこもこんな感じなので、迷宮を専門にしている学会では迷宮は巨大な植物の内部ではないかなどというトンデモ説もありますわ」
「でっかい植物の中ですか? ちょっとドキドキしますね!」
学園の授業からの受け売りを話すリルの言葉にロマンを感じ、コロは手近な壁を触る。その質感は確かに木のものだ。だがどこまでも硬く、傷つかない。軽く爪を立ててみたが、まるでくいこまなかった。
「でも植物の中ってこんなのなんですか? ていうか、これが植物の中だったら……すっごく大きいですよね?」
「だからそれはトンデモ説ですわ。第一、本当に植物だったら、中が完全な空洞なわけがありませんもの。植物の管は、養分を得るためだったり水分を通すためにあるのですから、こうして人が通れるような空洞である意味が――あら」
リルが得意げに流して講釈を途切れさせる。
その視線の先には、一匹のウサギがいた。
魔物だ。一見すれば地上のウサギと変わらない姿だが、やたらと硬い頭を持ち、跳躍を生かした突進で頭突きをかましてくる魔物である。石突ウサギと名付けられたその魔物は、この迷宮の中では最も弱い魔物の一匹だ。
「石突ウサギ……ふふん。わたくしが華麗に狩ってみせますわ」
好戦的な視線を向けてくる石突ウサギは決定的な殺傷力を持たない。跳躍による体当たりにも似た頭突きが唯一の攻撃手段なので、レベル一の人間にクリティカルヒットしたとしても、だいぶ痛いだけですむ。
「見ていなさい、コロネル。わたくしのレイピアは、どんな強大な魔物だって貫けるのですわ!」
石突ウサギの弱さを知っているリルは意気揚々と腰からレイピアを引き抜く。
なにしろ今日の初戦闘である。自分の華麗なる剣技をコロに見せてやろうとレイピアを構え、固まった。
「あ、あら……?」
石突ウサギはその名前のままウサギ程度の大きさしかない。
彼らの頭は人間の膝より下にある。刺突を主とするレイピアにとっては、ものすごく突き刺しづらい位置だ。しかもぴょんぴょん跳ねて上下運動も混ぜた移動をするため、さらに難易度が上がっている。
もちろんレイピアの技術をきちんと習熟している人間なら難なく突き刺せるが、基本の基本を収めただけのリルには難度が高かった。
だがリルはできないことをできないと認めない人間だ。
「ふ、ふんっ、いいハンデですわ」
そもそもハンデも何もないのだが、自分の未熟さをただの強がりで覆い隠す。
リルはレイピアを突き出すべく、きりりと体に力をためる。体を半身にしてひねり、渾身のタイミング突きを放つ。
「いきますわよ。必殺っ、エストック・ぶれごふう!?」
「リルドール様ぁ!?」
跳躍した石突ウサギがリルの胴体に頭突きを食らわせ黙らせる。いくら身体能力がレベルによって強くなっているとはいえ、ロクな技術もない隙だらけのリルに攻撃を食らわせるなど、知恵がない最弱の魔物でも楽勝だった。
初撃を見事に成功させた石突ウサギは次の標的をコロに向けるべく、着地と同時に方向転換を試みた。
遭遇した相手が意外なほど弱い。これなら連れも大したことがないだろうと、本能的に判断したのだ。
戦意を燃やして第二射に移ろうとした石突ウサギだが、その首はあっさり跳ね飛ばされた。
「だ、大丈夫ですか、リルドール様!」
「ぐ、ごほっ。ちょ、ちょっと油断しただけですわ」
リルが苦悶をやせ我慢して顔を上げると、石突ウサギは塵になっていた。
コロが、駆け寄りざまに剣を抜き、あっさりとウサギの首を切断したのだ。
生命活動を停止した石突ウサギは塵となって消える。その光景を、リルは驚きともに見送った。
「あ、あなたが倒したんですの?」
「はい。迷宮の魔物って、死体が残らないんですね」
コロは自分の成果を誇るでもなく頷く。
迷宮の魔物は、その死体を残さない。時たま素材をドロップすることもあるが、それは自動的に冒険者カードに収納されるため、そこに残るのは一握りの塵だけである。
「え、ええ。魔物を構成するエネルギーを受け取ってわたくしたちはレベルを上げていくのですわ。冒険者カードがそれを吸い取った結果、魔物は塵になりますの。そのエネルギーは俗に『経験値』と呼ばれていますわね」
「ふーん。毛皮とかお肉とかは取れないんですか?」
「無理ですわね。それにドロップがある時は自動的に冒険者カードに収納されますわ」
「すごいですね!」
やはりコロは細かい仕組みなどは気にせず、ただただその機能に感心するばかりだった。
魔物を倒して塵にすることによって、冒険者は魔物を構成していた経験値を吸収してレベルを上げていく。魔物を構成しているエネルギーである『経験値』はすべて冒険者カードに蓄積され、一定の基準まで至ると自動的に消費され、持ち主のレベルを上げてくれるのだ。
「この経験値が便利で、レベル上げ以外にもこれを消費することによって空腹を満たして栄養を得たり、傷を治したりと、いろいろできますのよ」
「おお。ほんとにすごいんですね、これ」
「ええ、どういう仕組みになってるのかまでは把握していませんけど」
冒険者カードの仕組みは冒険者ギルドの、ひいては国のブラックボックスだ。リルが知れることではない。
「空腹を、満たせる……!」
「まあ、冒険者カードの機能はごく一部を除いて迷宮外では使えませんけどね」
「え」
説明のどこかが琴線に触れたのか、きらきらと顔を輝かせて冒険者カードを掲げていたコロが、明らさまにがっかりする。
「そうなんですか……いやでも、迷宮内で全部食事をすませれば……」
「おやめなさい。経験値の消費による補給はまったく味気ないものですし、もったいないですわ」
リルの言葉は飢えを知らない贅沢者によるものだが、ある一面では正論でもある。緊急時や長期間潜るために経験値を食事代わりにするのはともかく、日々の食費を節約するために経験値を消費するのは無駄が多い。
「それにしてコロネル。あなた、まったく戦えないというわけでないのですわね」
「え? あ、はい。戦い方は昔にちょっと教わりましたし、山とか村にいた時は狩りもしていたので」
自分は何もできずに攻撃されたというのになぜか偉そうなリルに、コロは肯定する。
「狩り、ですの。それで剣の使い方を覚えられますの?」
「はい。山とか村にいた時には、よくウサギとか鹿とかイノシシとか熊とか、よく剣で狩ってました」
「は?」
笑顔で何やら不思議なことを言ったコロに、リルはぱちくりと瞬き。
いくらただの獣とはいえレベル一、つまりはただの一般人で女の子の身体能力しか持たないコロにそんなことをできるだろうかという当然の疑問がリルの胸をよぎったのだ。
レベルは冒険者カードを所持し迷宮で魔物を狩らない限り上がらない。いくら迷宮外で猛獣を狩ろうとも、人の枠を超えるような進化の成長は望めないのだ。
「剣、で? そういう狩りというのは普通、弓とかではありませんの?」
一部の狩りは貴族の娯楽でもある。その認識から照らすと、狩りというものは飛び道具を使うものだと思っていた。
そんなリルに、コロは照れくさそうに笑う。
「あ、あはは。その、弓も習ったんですけど、てんで駄目だったんです。特に熊とかイノシシとかのおっきいのだと、剣でスパってやったほうが早かったので……」
照れくささをごまかすため、コロはていやと空手のまま素振りをする。
「熊を、剣で、スパッと……?」
生身の人間が、果たして熊を剣でスパッとできたかどうか、リルは自分の常識とのギャップに戸惑う。
ちなみに野生の熊に相当する戦闘力を持つ魔物が出てくるのは第五層を超えてからだ。低層の魔物は積極的に人間を襲ってくる習性が野生の動物より危ないだけで、強さや厄介さでは普通の猛獣や毒持ちの野獣のほうがよっぽど高い。
「なので、このくらいだったらまだリルドール様の足を引っ張るようなことはないと思います! 解体の必要がないぶん、迷宮のほうが楽なくらいですね!」
「そ、そうですの」
元気いっぱいにそういうコロに、リルは首をかしげつつ同意するしかなかった。
「まあいですわ。なんにしても行きますわよ、コロネル」
「はい!」
あくまでリルはコロの前で先輩風を吹かせる。コロは思ったより役に立ちそうだ。そう思って、心を奮いたたせる。
レベル一の初心者が見せた技術。そして、レベルが十五の自分が見せた醜態。
それを無意識のうちに比べて、じわりと黒く染みるように広がった胸の感情に気がつかないふりをして、リルは明るく照らされた迷宮の中で先が真っ暗闇のまま前に進んだ。