第四十三話
ぱしん、と頬を叩く音が響いた。
名義上、リルが管理しているアパート。三階建てのアパートの最上階の角部屋にリルとコロが住んでいる部屋がある。
そこで怒りに顔を紅潮させるリルと床に正座をしているコロ、その二人のやり取りを見守っているアリシアの三人がいた。
「どうして……」
コロの頬を平手で叩いたリルは、怒りに声を震わせていた。
抑えきれない激情を、そのまま目の前のコロに怒鳴りつけて吐き出す。
「どうしてあそこから逃げ出しましたの!?」
「……ごめんなさい」
五十階層主、カニエルからの逃走劇。コロが強行したそれは無事果たされた。そしてギルドの救護室で目を覚ましたリルは、ことのあらましを聞いてからずっと激怒していた。
甘んじてリルの叱責を受けるコロは何も口ごたえすることなく、ただうなだれる。
そんなコロにリルは一方的に激情をぶつける。
「だれが、いつ、どこでっ。逃げ出せなど言いまして!? 答えなさいっ!!」
「…………ごめんなさい」
ただ悄然と謝罪を繰り返すコロの態度に、リルはカッと頭に血をのぼらせる。
今度は左の頬を叩こうと手を振り上げ、そこでようやくアリシアが止めに入った。
「お嬢様、それ以上はおやめください」
「離しなさい、アリシア」
「いいえ。やめてください」
にらみつけるリルの視線をまっすぐ見返し首を横に振る。
リルとて上級まで上り詰めた冒険者。一般人のアリシアを振り払うことなどたやすい。むしろ一般人では及びもつかない身体能力を持つリルの癇癪を止めに入ったアリシアの胆力こそが称賛ものだ。
リルはその腕を無理やり振り払うことはしなかった。
「……そうですわね」
振り上げた腕をおろし、コロを打ち付けることはやめる。
ただ許したわけではなく、怒りの火が消えたわけでもない。コロへ怒りに満ちた瞳を向け、外に続く扉を指さした。
「この部屋から出ていきなさい、コロ」
「ぇ……!」
残酷な宣告に、うつむいていたコロがハッと顔を上げる。厳しいその口調から一時のことではなく、ここに住むのを辞めろと言っているのが分かったのだ。
コロがすがるような目を向けるが、リルはその視線を無視する。
「アリシア。コロの荷物をまとめなさい」
「しかし……」
「三度は言いませんわ。コロの荷物を、まとめなさい」
ためらい進言をしようとするアリシアの言葉をさえぎり、再度命じる。有無を言わせない強い口調にアリシアも説得を諦め、荷物をまとめる。
コロの私物は少ない。服と、武器と、中級以上になってから稼ぎが増えたために作ったコロ個人の通帳ぐらいなものだ。
ここに住んでいるコロは、何かをほしがることがなかった。住んでいるだけで、リルと一緒にいるだけで満足だというようにいつもの楽しそうに無邪気に笑っていた。
「コロネルさん」
あまりに少ない荷物を手早くまとめたアリシアは、それをコロに渡す。しょぼくれているコロに荷物を渡す際にかがんだアリシアは、そっとコロの耳元で囁いた。
「どこか通信機のある宿に泊まってください。お嬢様が落ち着きを取り戻したら、私のほうから連絡します。それまで、辛抱を」
「……ぁ」
「アリシア。終わりましたの? 終わったのなら、さっさと追い出してしまいなさいっ」
「はい、お嬢様」
コロが何かを言う前に、アリシアはリルに答えて立ち上がる。
リルは二人のやり取りに気がついた様子もない。まとめた荷物を受け取り、大好きな主人に置き去りにされた子犬のような表情で立ち上がったコロにあるものを投げつけた。
コロは反射的にそれを胸に抱く。
「忘れものですわ。これも持っていきなさい」
「これって……」
コロに投げつけられたのは、ぬいぐるみだった。
リルが投げつけてきたのはぬいぐるみだった。リルが作った、リスのぬいぐるみ。コロがはじめてリルにねだった一品だ。
「あのっ、リル、様……」
「……なんですの」
何かを言おうと意を決して顔を上げたコロは、怒りに満ちたリルの瞳に撃墜された。そこには対話を拒絶する意思があり、その中にコロは踏み込めなかった。
結局何もいえず、コロはまたうつむいた。
「ごめん、なさい……」
今にも泣き出しそうなくしゃくしゃな顔でそれだけ言って、コロは部屋を出て行った。
「お嬢様。先ほどのはどうかと思います」
コロが出て行ってすぐに、アリシアはリルに咎めるように進言した。
アリシアにとって、リルの癇癪など慣れ切ったものだ。学園時代などは些細なことで怒鳴り散らしていた。
昔ならば諦めて忠告を入れることもしなかったが、今のリルならば話を聞いてくれるだろうと続ける。
「状況を聞いた限りでは、コロネルさんの判断が間違っていたとも思えません。それをあのような一方的な物言いで追い出すのは、あんまりです」
アリシアにとってリルは英雄でも何でもない。そもそもリルが迷宮に潜って荒事に関わっていること事態快く思っていない。コロに出会ってからのリルが目覚ましく良い方向へと成長しているからこそ何も言っていないだけで、本当は命の危険がある迷宮探索などして欲しくはなかった。
ましてや今回はおとぎ話に出てくるような怪物、迷宮の五十階層主との遭遇だ。退却をしたコロの判断には感謝すらしていた。
だというのに先ほどのリルの仕打ちは最低なものだ。感情任せの短慮を非難するアリシアに、リルはぽつりとつぶやく。
「知り合いが、いたのですわ」
「お知り合いですか?」
「ええ」
何の話かと眉をひそめるアリシアに、リルはポツポツと続ける。
「四十九階層に駐在している王国軍の小隊に、学園でわたくしと同期生だった男子がいたのです」
「それは……」
今回のあらましはアリシアも聞いている。四十九階層に駐在していた彼らが全滅してしまったことも知っていた。それを目の当たりにしてしまったのなら、確かにショックをだろう。
「……気の毒かと思いますが、仕方がないことでもあります。何よりコロネルさんの行為とは関係ないのではありませんか?」
結局は個人事業に似た冒険者は自分を優先されることが許される。逃げたければ逃げればいいのだ。
軍人はそれが許されない。国を守るため、民間人を守るために身を呈し、時に死ぬことが義務とされる。
それでもリルは死んでしまった同期生のことを語る。
「その彼が、言ってくれたのですわ」
うつむいて震えるリルの顔を覗き見て、アリシアはぎょっとする。
リルが、泣いていた。
誰よりもプライドが高く、学園を退学にさせられて実家から追放されても涙を見せなかったリルが、泣いていた。
「わたくしのことを『すごいな』って、そう言ってくれたのですわ」
嬉しかったのだ。
昔の自分を知っていて、それでも変わったといって純粋に評価してくれたその言葉が、コロの無邪気な称賛とはまた違うベクトルで嬉しかったのだ。
けれども彼は死んだ。五十階層から帰還したセレナが、識別タグを持って帰ったということを聞かされた。
「わたくしは、その彼を見捨てたのです。なにもできず、ただ庇われるだけだったのです……」
「ですが、それだったらなおのことコロネルさんの判断は――」
「ええっ。間違っていませんわっ。彼らが足止めをしてくれて、コロが逃走の決断をしてくれたからこそ生き残れましたわ。そのくらい、わかっていますわよ!」
リルだって冒険者だ。最低限の力量差ぐらい察することはできる。あの時は頭に血が上って飛びかかっていったが、戦力差は明確だった。リルの武器である縦ロール。パーティーで最大の攻撃力を誇るリルの縦ロールがこともなさげに断たれた時点で撤退を強行したコロは正しい。冷静に考えれば十中八九、敗北しただろう。
だから問題はそこにはない。そもそもリルが許せないのはコロではない。そんな単純な怒りではないのだ。
「でもっ、あそこでコロが逃げたということは、わたくしはコロにその程度だと思われていたということなのですわっ」
あの場でコロが逃げ出そうと言ったのは、リルではあの魔物に敵わないとそう判断されたのだ。せいぜい逃げるのが精いっぱいだと思われていたのだ。
他ならぬ、コロに。
そして、怒りの元はそれだけではない。
「わたくしがコロに見捨てさせたんですわ。わたくしの弱さが、コロにそんな判断を押し付けてしまいましたのよっ」
自分に対する怒りと、情けなさと、惨めさがぐちゃぐちゃとかきまざってリルの胸の中をぐるぐる回る。体を震わせる自己嫌悪がリルに涙を流させる。
逃げるもんかとほえたてたのに、それを遮られて逃がされた。嘘を本当にしなくてはならなかったのに、自分の強がりをコロに見抜かれてしまっていた。最低でもパーティーのリーダーである自分が撤退を決断しなくてはいけなかった場面だったのに、コロに他人を見捨てる決断を押し付けて助かった。
あの時のリルは、決断しなければいけない感情と被らなけれならない泥、それら全部をコロに押し付けて生き延びたのだ。
「それがどうして許せますのっ。そんな情けないわたくしを、どうして許せますの!? コロにそんな風に判断されてしまった今のわたくしが、コロに押し付けて生き延びたわたくしが、どの面を下げてコロと一緒にいられますの……!」
「お嬢様……」
みじめさに打ち震えて涙を流すリルにどう声をかければいいのか、付き合いの長いアリシアでもわからなかった。
自分が悪いことはリルもわかっている。コロを叱咤する理不尽さを承知している。それでも許すわけにはいかない。助けてくれてありがとうなんて、弱者の言葉をリルはコロに言っていいはずがない。コロの憧憬の炎の美しさを目に焼き付けている自分が、コロに寄りかかって依存するわけにはいかないのだ。
弱さを見せるわけにはいかないから、リルはコロを追い出した。
「……お嬢様は、不器用ですね」
なんとなく、アリシアも今のリルの気持ちを理解できた。
リルは自分のことを認めきれていない。自分で自分のことを誇れていない。もっと言えば、リルはきっと自分のことが嫌いなのだ。
いつもの張っている見栄をひっぺはがした下にある、弱いただの小娘でしかない自分のことが、リルは大嫌いなのだ。
だから他人の、特にコロの評価を自分の姿だと判断する。コロの憧れたリルこそを理想として、あの時に見上げた鮮烈な炎の輝きを目指しているからこそコロが見てくれている自分を重要視している。
「私は、実はリル様のことをすごい人間だなんて思ったことはありません」
「……なんですの、いきなり」
泣きっ面に蜂と言うべきか。追撃の悪口に、思わず涙が引っ込んだ。というか、実はもなにもアリシアの普段のぞんざいな扱いを見れば、さほど敬意を持たれていないだろうことはリルでも勘付いていた。
「コロネルさんの前ではいいカッコしいなだけで、リル様がわがままなだけの割とどうしようもないお嬢様なことを、私は知っています」
「お黙りなさい。わたくしを誰と心得ていますの?」
使用人にそんなことを言われて黙っているリルではない。ぶすりと頬を膨らませ恨みがましくにらみつけてくるリルに、アリシアはもちろん心得ていると大きくうなづく。
「私の知っているお嬢様は、身勝手で、癇癪持ちで、周りのことを考えられなくて、堪え性がなく、世間知らずで、無根拠に問題ごとがどうにかなると思い込んいて、そのくせ他人任せで、勉強嫌いで……」
指を折って一つ一つ欠点を上げていく。アリシアの指が一つ折れていく度にリルが仏頂面になっていくが、彼女は素知らぬ顔でリルの欠点を上げていく。
そうして両手を使って、最後の小指。
「そんな欠点を抱えて克服しようと頑張っている、世界に輝くリルドール様、ですよね」
「……そうですわ。わたくしは、世界に輝くリルドールですのよっ」
力強く肯定した強気な瞳には、もう涙は残っていなかった。
「……アリシア。行くところがあります。供をなさい」
「コロネルさんを呼び戻すんですか?」
「それは、あのカニを打ち倒してからですわっ」
汚名をそそいでから万全の自分でコロを迎えなおす。そう意地を張るリルに呆れるものの、それがいまのお嬢様らしいと苦笑して諦めた。
「それでは、どこへ?」
「オーズの……わたくしが見捨てた彼の家族に、会いますわ」




