噂話・4
迷宮の底は百層と決まっている。
人の手によって五十階層以降が開かれている迷宮は少ないが、世界各地にある迷宮はすべて百層が底だ。
迷宮は天然物だ。人の手で作り出された構造物ではありえない仕組みを備えている。だが人が作ったものでないからと言って、それに意図がないとなぜ言えようか。
百層に重なる迷宮には、確固たる目的がある。
世界を超える英雄を生み出すこと。
迷宮は人を進化させるためのシステムが確立されている。この世界から世界を超えるような英雄を輩出されるために存在する。だからこそ迷宮は、人に厳しいと同時に人に優しく、人の心と体を強くすること以外の要素を排除するシステムになっている。
セフィロトシステム。
知る者にそう呼ばれる決まりごとに則って世界により造られ、そのために折り重なった百層の立体構造。それこそが迷宮だ。
そのちょうど折り返し地点。迷宮の中でも最も厳しい条件を持つ階層。五十階層にある『峻厳の間』と呼ばれる大広間に、一匹の魔物が鎮座していた。
灯りの落ちた大広間で、常識外れの巨躯を誇る彼は地面に伏せるようにうずくまっていった。
彼は、この迷宮が作り出した最高傑作である。
存在を生み出され、知性を与えられ、個性を割り振られ、名前すらもいただいた。強靭な精神に支えられた不屈の肉体を持つ彼は、間違いなく人間を凌駕している。迷宮の中間に掲げられた『峻厳』に相応しく、彼は強力無比な一匹の魔物として存在していた。
その彼はじっと、じっと、気が長くなるほどじっと待っていた。
いつか自分に挑戦する勇者がくるのを、闇に包まれた広間で待ち侘びていた。
暗闇の中で待つことは、彼にとって決して苦痛ではなかった。
そして、不意に灯りが灯った。
「っ!」
生まれて初めて光に照らされるやいなや彼は素早く体を持ち上げた。ずっと暗闇に閉ざされていた五十階層に灯りが灯った。それはこの『峻厳の間』に挑戦者が来たということである。身を起こす動きの俊敏さから感じられるように、彼の心は喜びが満ちていた。
待ちに待った勇者の来訪である。名乗りを上げようか。武器を打ち鳴らして音頭を上げようか。
喜びいさんで体を起こした五十階層主は、不審な状況に気がつく。
四十九階層からつながる扉は開いていない。彼の目の前に人影がない。来たはずの勇者の姿が見えない。
ならばなぜ明かりが点いた。
その疑問に答えるかのように、後ろから声をかけられた。
「よう」
進入者は後ろから、入ってきたのだ。
首を持たない彼は体ごと大きく回転させて背後を向く。
「……何者だ?」
彼はくりくりとした両目で進入者を捉える。下から上がってくる存在など考慮していなかったのだ。
そいつは巨大な彼と比べて小さな生き物だった。
彼の魔物としての本能が、そいつは魔物だと告げている。だから後ろから入ってきたそいつは魔物であるはずだった。
だが、果てしない違和感がそいつには存在した。
「俺か? 俺は七十七層の管理者だよ」
「なに?」
こともなさげに返された不審な答えに彼は、ガキンと己の武器を噛み合わせる。迷宮により創造された時から彼が持っている最大最強の武器。それを打ち合わせる。
「七十七階層……」
世界にあまたある迷宮が一点につながる深淵の横たわる階層。そこもまた五十階層とは趣を異とする厳しい試練が待っている。
だが、そこに管理者などいただろうか。
この迷宮は、実のところ世界の地下にあるわけではなく、歪曲した次元を貫いてこの世界そのものを支えている軸でもある。
七十七階層は、世界各地の迷宮がつながっている一点だ。そこから上に登るということは世界各地のどの迷宮にもいけるということだが、彼の知る限りそこに管理者などいないはずだ。
「なになに。難しく考えるなよ。俺は三百年ほど前に新しく任命された新参だ。この迷宮が造られた昔からいる古参のお前さんが知らねえのも無理はないさ」
「任命?」
ますますわからない。
この迷宮が作られた当時でセフィロトシステムは完成しているはずだ。運命すら形どられたこの世界に不足はない。もし不測の事態を起こすとするならば、それはセフィロトシステムへの挑戦権を得た者たちだけのはずであり、それこそがセフィロトシステムの望むべき現象だ。
「分からんな。そもそも貴様が七十七層の管理者だとして、どうしてここに来た?」
「どうしてもなにもあるかよ。地上に上がるための通りがかりだ。地下に篭りきりじゃ退屈なんだ。分かるだろ」
「ふむ?」
そいつの言葉が理解できず、彼ははてなと疑問符を浮かべる。退屈だから任された場所を放棄する。五十階層主として生まれた彼には理解できなかった。
そんな彼に、七十七階層の管理者を自称するそいつは、くつくつと笑いながら提案する。
「なあ。どうせなら一緒にここから外に出てみねえか?」
「なに?」
七十七層の管理者を自称するそいつの軽い誘いに、彼は気色ばむ。
「己の任じられた場所を放棄するだけでなく、俺までそそのかそうなど。セフィロトシステムを……宇宙樹の意思ををなんとする!」
「宇宙樹に意思なんぞねえさ。これはこういう風にあるだけだ」
彼の一喝にもまるで悪びれた様子がない。言い返すほどの強さではなく、ただ単純に疑問を返す。
「五十階層主よ。いつまでもここにいるのか? こんな何もないところ、退屈だろうよ」
「俺は峻厳の間に座す管理者だ。この迷宮の関門。ここに挑戦する勇者を待つために、そうして英雄を作り出すために俺はここにいる。その責務を果たすまでここから出ることなどあってはならん」
「その通り。お前の他の五十層管理者も、すべてそのために生まれた。けどな」
重々しい彼の言葉をそいつは肯定し、しかし言葉を続ける。
「その役目を全うしたのは、ザリエルとアザミエルだけだぜ?」
信じられない言葉に彼は絶句した。
「長い、そりゃもう長いこの世界の歴史で、自分の役目をこなせたのはたったの二匹だけだ」
「バカな……バカなバカな! 俺は知ってるぞ! 千と八十ある迷宮のうち、六つが解放されている! それでなくとも、ここ三百年で百近い迷宮が崩れている! 百近い同胞が、己が役目を果たしたのだ!」
大声で五十階層管理者として与えられた彼の情報を吐き出す。
人類の関門として用意された彼は、ある意味では誰よりも純粋に人を信じているのだ。
「人間は挑戦しているのだ! 人類は挑戦者だ。あくなき探究者だっ。危険を知ってなおも進化を目指す熱い心を持っている。俺たちは、それに立ちふさがる怪物だ! それを超えた英雄が、確かにこの世界でも生まれたのだ!!」
「いいや、たった二人だ。この世界でセフィロトシステムを踏み越えた超越者は、たったの二人しかいない。三百年前に生まれた大英雄イアソン。それとつい三年前に生まれた、トーハ。その二人だけだ。そいつらですら、死んだ」
信じられない話を、そいつは五十階層にいる彼では知りえないような知識で語っていく。
「クワエルも、カブトエルも、ヤドエルも、サソリエルも、サシガエルも、みんなみんな耐えられなくなって地上に出た。それで奴らのいた迷宮は崩れた」
ありえない。
峻厳の間の管理人が、自分と役目を同じくする同胞が責務を捨て我欲に走るなど、あってはならないことだ。そんなことは、セフィロトシステムに組み込まれてはいない。
なぜそんなことが起こり得るのか。その元凶に、彼はすぐ気がついた。
「貴様がそそのかしたのか……!」
「……くはっ、ははは! はーっはっはっは!」
怒りに震える彼の声を聴いて、そいつはげらげらと笑った。
「その通りっ。俺がそそのかした。つけ込んだ! どうせ勇者は来ない。英雄は生まれない。だから外に行こうってな。だってなぁ、分かるだろ? さみしいんだよ。知性があって、個性があって、なんで閉じこもんなきゃいけねえんだよ。ずっと引きこもってくるかもわからないものを待ち続けろって? こなきゃそのまま朽ちて死ねって? 俺はそんなひどいこと、口が裂けたって言えないね! ……それにな」
大仰に手を広げたそいつが、語調を落とす。
「十五年前に、セフィロトが英雄の『種』を生んだ」
その情報に今度こそ五十階層主が言葉を無くした。
彼はその特徴的な両目をぎょろりと動かし、そいつを凝視する。
「なんだその目は? 俺は嘘なんていわねえさ。ちょっとばかし見に行ったが、まぶしいばかりの逸材だったぜ。セフィロトが生んだだけはある。今頃もう芽が出ているはずの年頃だ。成功を約束されたあいつなら、あっという間に迷宮を踏破して見せるだろうさ。そうして、この世界は終わりだ」
ガキン、と硬質な音が響く。
五十階層主は、その手に持つ武器を打ち鳴らす。
英雄の『種』の存在。それが産み落とされた意味を彼はよくよく知っていた。世界の終わりといった七十七階層管理者の言葉は決して大仰ではない。
おそらく、世界のタイムリミットは十年もない。あと五年。いいや、もっと少ないかもしれない。
「わかっただろう。この世界は熟したんだ。もう直に堕ちる。生まれるべくして生まれた英雄の踏み台になってな」
「……だがっ。だがそれでも俺はっ」
高潔な精神。順守すべきルールがあるのだ。
その動きからは彼の逡巡が感じられるようだった。
彼はセフィロトシステムに生み出された存在だ。たった一つの目的のために生み出された。そのために力を与えられた。役目があるのだ。その役目こそが彼の存在理由だ。
いつかくるかもしれない、英雄候補と戦うために。
自分が打ち倒されれば、彼は英雄の礎となることができる。それができなければ、ペナルティとして迷宮を逆走し、地上で破壊の限りを尽くし死ぬ。
英雄は、一回の挑戦を掴めるものこそがふさわしい。地上への逆走、魔物の暴走は五十階層主に挑める機会はそれぞれの迷宮のうちでたったの一回とするためのシステムだった。どちらの結果が訪れるにしろ、彼はそのたった一回の戦いを待ちわびていた。
その機会が、訪れないかもしれない。
その事実は途方もない恐怖と虚無を彼の心に植え付けた。
それでもあくまでも己の役目を遵守しようとする彼に、そいつは一言。
「知ってるぞ。お前らの渇望を」
「っ」
びくりと彼は打ち震えた。
英雄を生む。
五十階層主として与えられたその役目の他に、狂おしいほどの渇望が彼にはある。それこそが挑戦してきた勇者に勝利した場合に五十階層主が迷宮の魔物を率いて地上に向かう真の理由なのだから。
迷宮を出て空を見る。
日の届かぬ地下深く生まれた五十階層主に与えられ、膨らみ続ける渇望。暗闇閉ざされた大広間で否応なく憧れる無限の空を、それを照らず偉大な太陽に対する切望。外へ出ることへの渇望が彼にはあった。
その彼の心を、小さな影が揺さぶる。
「このまま死ぬのか? なんにもなさず、ここにずっと閉じ込められて、そのまま死ぬのかよ。お前ら五十階層主には、ここから出て地上に遡れる権限があるんだぜ? それでも閉じこもり続けるのかよ。悲しい自殺だなあ」
どうせ役目など回って来ないのだ。ならば、渇望を叶えて空を見ても、日の光を全身で浴びてもいいじゃないか。
心に這いよる欲望に苦悩する。
自分の生が無為であるということに、魔物であっても知性と個性を与えられた彼は耐えられない。せめてもの救いを求めたい。
「お前が出ないなら、俺は久しぶりに地上に行くよ。酒が恋しいんでな」
七十七層の管理者が、ふらりと前に出る。五十階層主である彼の苦悩を小馬鹿にするようにあっさりと四十九階層に続く扉に手を当て、そのまますり抜ける。
それはおそらく七十七層の管理者としての権限だ。これを使い、五十一層へと続く階段を阻んでいた扉も通り抜けたのだろう。
そうして去ろうとするそいつに、苦悶する五十階層主は絞り出すような問いかけをする。
「貴様は、何者なんだ?」
ふらりと通りがかりのように現れて、存在しないはずの怪しい身分を名乗り、セフィロトシステムに反するような提案をしてきたそいつ。
怪物として、怪獣として、魔物として生まれた彼とは違うその姿。
二本の足で立ち、両の手を器用に使う生物。彼の目には、そいつはまさしく人間に見えた。
「貴様は人間なのか? それとも魔物なのか? 俺をそそのかすお前は、いったい何者だっ」
「俺は人間じゃねぇさ。だが魔物でもねえ。そうだな。お前が怪物だっていうのなら、俺は怪人だよ」
純粋な怪物として生み出された魔物ではなく、そいつは怪人を自称する。
「そうか。怪人よ。名は、あるのか?」
「クルック・ルーパー」
それだけおいて残して、七十七階層主は立ち去った。
その名前を、迷宮で生まれた彼は知らない。その名前が、地上で三百年前に猛威を振るった悪党と同じだなんてことを地下で生まれた五十階層主が知るはずもない。
ただ、再び闇に包まれた五十階層で音が響く。
元の静かな暗所戻っただけ。しかし光がなければ見えなかったものを、一度知ってしまえば耐えられない。迫る刻限を知らされれば焦らずにはいられない。
彼には、知性と個性があるのだ。
彼はただ、苛立ちをごまかすように己の武器を鳴らす。がしゃんがしゃんと音が響く。
リルたちが潜っている王都の東の迷宮。
そこの五十階層主は、再び闇に閉ざされた五十階層で武器を打ち鳴らし続けた。




