第三話
王都には迷宮がある。
世界各地に入り口が出現するその摩訶不思議な空間がなんなのか、多くの学者が調べているが実際のところはわかっていない。多くの一般人にとってみれば地上のどこかに入り口があり、地下深くまでどこまでも伸びているのが迷宮だという知識ぐらいしか持ち合わせていない。
その中には地上では出現しないような魔物がいる。その魔物を狩ることによって経験値と呼ばれるエネルギーを得てレベルを上げることができるのだ。
レベル。
それを上げることによって、人間は個人で爆発的に強くなれる。上限はあるものの、レベルを上げていけば人間は一代で進化といえるほどの成長を遂げることができる。
命を懸けるリスクは存在するが、それ以上のリターンが期待できるのだ。だからこそ迷宮のある場所には人が集まり、町ができる。
この王都にある迷宮も例外ではない。
王都はその発祥からして迷宮に依存している。そこにいる魔物を狩り、集めたエネルギーを用いて発展し、迷宮由来の資材を得ることによって繁栄してきた。
なにせ、迷宮にはそこにしかない貴重な資源が眠っている。魔物を倒したときに得られる経験値は、純粋なエネルギーとしての転用も可能だ。
そうした国の管理下にない迷宮に潜り、資材などを得て生活する者たちを冒険者と呼んでいる。
その入り口でもある冒険者ギルドの前に、一台の馬車が止まった。
そこから降りてきたのは、無茶で無謀なお嬢様であるリルだ。肩口から前に垂らした二本、背中に三本の計五本。いつも通りに嫌でも人目を惹く縦ロールを揺らして往来に自分の足で立つ。
「まったく。このわたくしが一人で下賤の者と交じるようなことになるとは思いませんでしたわ」
馬車を降りたリルは、ぶつぶつと文句を漏らす。
冒険者ギルドの受付がある場所は、迷宮の入り口と直通している。大通りとはいえ下町にあるそこは、貴婦人が一人で訪れるような場所にはない。貴人として周囲にかしずかれて暮らしてきたリルにとって、こんなところを一人で歩くなど、それだけで不快だった。
だがリルはもの知らずな恐れ知らずでもある。
「さて、あそこですわね」
冒険者ギルドの入り口を目に留め、一歩足を踏み出そうとする。
馬車から降りた地点から冒険者ギルドの入り口までは、ほんの少しだけ距離がある。そこまでのほんのわずかな距離を歩くだけだ。
「あの、建物……」
場所は分かっている。体に不調はない。問題はなにもないはずだ。
だが、リルの足は地面に張り付いたように動かなかった。
リルの目線の先にある冒険者ギルドでは、多くの場慣れした冒険者が出入りしていた。
その圧力が、金メッキのようにリルの表面を覆っている虚勢をささくれ立たせる。いつもは根拠のない自尊心で覆っている鎧がはがれ、ほんの少しだけ顔を出した本心が少しだけリルの足を止めさせた。
もしや、と弱気が差し込んだのだ。
「……」
リルは足を止めて、冒険者ギルドの入り口を見つめて思う。
完全武装な屈強な男たちが、あるいは徒党組んだ男女がひっきりなしに出入りしている光景を見て考える。
もしや自分は、とてつもなく馬鹿らしいことをしようとしているのではないだろうか。
それは、リルにしては奇跡的なほど常識に沿った思考だった。
リルがここまで足を運んだのは、ただの強がりと勢いだった。平民の生まれのライラにできて、生まれついた貴人である自分にできないはずがないという対抗心が生んだ無根拠な意地だった。荒ぶる感情のまま進んできただけだった。実際のところ自分では何もできないと、冒険者なんてなれはしないと意識しない深層心理ではリルだってわかっていたのだ。
だから、もし何事もなければそのまま立ちすくんで、しばらくすれば踵を返して与えられたアパートに戻っただろう。なにかぶつくさと自分をごまかす言い訳を口にして、戦うことなく、傷つくことなく、命の危険にさらされることなどない安全な生活を送れる家に戻っていたはずだ。
けれども、そうはならなかった。
「……ぁぅ」
うめくような小さな声が、リルの耳に入った。
ギルドの入口に、一人の少女がいたのだ。
どこかの田舎から入ってきたのだろう。薄汚れた茶色に見える髪に、ぼろぼろの粗末な服。持っている武器は見るからに使い古しで頼りにならない直剣が腰につるされているだけだった。
そんな少女が、ギルドの入り口近くでおろおろとしている姿は情けなくみっともなかった。
明らかに、無意識ながら怖気づいたリルよりもなお一層、情けない。
その姿に、リルは自尊心を取り戻す。
ふんっと鼻を鳴らし、あえてカツカツと足音を鳴らして少女に近づく。
「何をしていますの?」
「ふぇ!?」
声をかけると、面白いように肩をびくつかせた。
十五かそこらだろうか、と判断する。リルよりは年下の少女は手足をばたつかせ、わたわたとしている。その様子はコミカルですらあった。
「あ、あの! わたし、たぶん間違えて……」
「いいから、さっさとお入りになさい。わたくしもそこに入るのですわ。そこに立ち止られたら、邪魔ですの」
「え、ええと、その、えっとですねっ」
リルが促しても、なにやらまごまごしている。
緊張しているのだ。初めて見る場所が、足を踏み入れる場所が、怖くて震えてしまうのだ。
さっきまでのリルも同じような状態だったのだが、もちろん彼女が自分でそんなことを認めるわけがない。
「あなたも迷宮に入りにいたのでしょう? 冒険者になりにきたのではありませんの?」
「そ、そうですっ! そうなんですけど……」
「なら、そこの入り口をくぐるだけですわ。簡単でしょうに」
「でも、えっと、その……ほんとにここであってるんですか?」
「……まったく。そんな簡単なことも一人できないのなら、わたくしの後ろについてきなさい」
ここまで促してもなお二の足を踏んでいる少女に、リルは大きくため息を吐く。
一人で見知らぬ場所に立てば身がすくんでしまうが、隣に誰か自分を見ている人間がいるのならば見栄を張って堂々とした態度を崩さないのがリルという人間の性格だ。
だからリルは、少女の視線を意識して胸を張る。さっきまで自分もためらっていたなんて様子は見せず、まるでそこが己の家の玄関であるかのように堂々と優雅に闊歩する。
「臆病なあなたでも、人の後ろについてくることぐらいできるでしょう」
大威張りで胸を張り、自分の縦ロールを揺らして扉をくぐる。
「……わぁ」
その背中を見た少女は、ゆっくりと目を見開いた。
まっすぐ背筋を伸ばして、ど派手な縦ロールを揺らして堂々と荒れくれ者達の中に踏み入る。それはリルの無根拠な自信と無知、そして自分より小さいものに対する優越感と虚勢が可能としたものだった。
褒められたものでは、決してない。
ただ、この世間知らずの少女にとって、恐れのないその背中はとても大きく見えた。
一歩進むごとに揺れる縦ロールはまぶしく、きらびやかで、少女には黄金よりもなお価値があるかのように思えた。
「すごい……綺麗」
「何をしていますの、早く入ってきなさい」
「は、はい!」
リルの呼びかけに、少女は我に返って慌ててそのまぶしく輝いた背中を追う。
少女がそれを光と見違えたのは、ただの勘違いでしかない。偽物の輝きを見た思い違いだ。
でも、その少女が抱いた想いは本物だった。
燃え上がるような想いの種火を胸にした少女は冒険者ギルドに足を踏み入れた。