噂話・3 多脚ロール
一人の男が二十一階層の森の中で息をひそめていた。
男は、先に行くことをとっくに諦めている中級冒険者である。二十一階層に続く、二十二階層。その地形を前に、冒険に意志をへし折られ、挫折したどこにでもいる中級下位の冒険者だった。
若い頃の、どこまでも進んでいけると息巻いていた頃の意気は忘れ、いまでは主に二十一階層を狩場とし、安全に魔物を狩って生活をしている。
その男の視線の先にいるのは一角ジカと呼ばれる魔物だ。
鋭い角での攻撃を主体とするが、視野が広い。背後から寄っても後ろ蹴りで頭をかち割られる。ここに来たての冒険者ではてこずる魔物の一匹である。
とはいえ、この階層に慣れきった男にとっては対処を誤らなければ決して強敵ではない。経験値的に見ればおいしい魔物であるし、なかなか金になるドロップをすることもある。
二十一階層に広がる大森林。姿を隠す木々は決して魔物だけにアドバンテージを与えるものではない。こうして気配を殺し、いち早く魔物を見つければ、冒険者サイドからも不意打ちを食らわせられるのだ。
森の中で必要なのは、耳を澄ませることだというのは男の持論だ。この森は自然の森ではない。いるのはほぼ決まり切った魔物と冒険者だけだ。慣れれば物音を聞いただけでどの魔物か判断できる。この階層を狩場と決めている男は、草木をかき分ける音を聞けば、ほぼ物音の主を言い当てることができた。
音で相手を判断し、姿を隠して優位に戦闘を進める。
それが男が築き上げた戦闘スタイルだった。
今日も無理をせずに魔物を狩り、酒場で一杯やって帰って寝る。そのためにも見つけた一角ジカを不意打ちで狩ろうと舌舐めずりをしていた男が、不意に顔をしかめた。
物音がするのだ。
男の耳は草木を揺らして、近づいてくる物音を敏感にキャッチした。
男は苛立ちから漏れそうになる舌打ちをこらえた。身を隠して不意打ちをしようとしているこの現状。新手の魔物であれば厄介だし、冒険者であればせっかくの獲物を横取りされかねない。
どちらにしても、その正体を探ろうと聞き耳をたて、男は困惑した。
木々を飛び移る音。これはいい。おそらくは、樹木を蹴り上げ木々の間を飛び乗って移動している音だ。だが木の枝に飛び乗り、飛び上がると同時に、ゴオッという音が聞こえる。
男は混乱する。
なんだこの音は。
この二十一階層では木々を飛び移って移動する魔物は何種類かいるが、飛び跳ねた後の、何かを噴射するような音の正体が分からない。
必死に記憶を探るが、二十一階層を知り尽くした自負する男の記憶にも類似するものはない。結局わからぬまま身を隠している男のすぐ近くまでその音は接近し、正体を現した。
赤い縦ロールが飛んでいた。
いや、正確には燃え上がるような見事な赤毛を縦ロールにしている少女だ。その少女が、樹木を蹴り上げ高速で立体的な移動している。
その縦ロールから噴き出すジェット噴射を加速装置として。
途中、一際大きく飛び上がった少女は、その赤い一本の縦ロールから強く炎を噴射し、森の上空を滑空する。
少女の移動は、空を駆ける流星のようにきらめく飛翔だった。
くしくも男は、一角ジカと同じ挙動で空飛ぶ少女を追ってしまう。
一瞬だけ姿を現した少女は、飛び上がって滑空をしている間に、ふと視線を落とす。その一瞬でどうやって気が付いたのか、気配を殺しているはずの男と視線を合わせ笑顔で手を振ってくる。
なぜ見つかった。その衝撃的な移動方法と相まって膨れ上がった男の驚愕を置いてぼりに、少女はまた森の中に着地。木々を飛び移るようにして先に進んでいく。その動きはあまり早く、あっという間に見えなくなっていった。
男はあまりの事態に、しばしぽかんと呆けてしまった。
なんだったのだろうか、あれは。なぜ少女の縦ロールから炎が噴射していたのだろうか。
まるで現実味のない光景に対して、男は奇跡的にも答えを見つけた。
魔法か。
なるほどなるほどと無理やり自分を納得させる。
この世の中は広いのだ。一人くらい、縦ロールを魔法の元とする人間がいたっていいじゃないかと思う。
そうして心を整理し、落ち着ける。
なんにしても、標的は少し先にいる一角ジカだ。火を噴く縦ロールの少女のことは、一旦忘れて、目の前の獲物に集中する。
幸運にも、今の遭遇にも一角ジカが移動することはなかった。人間に好戦的な魔物だが、さすがに高速で飛び去っていった少女を追う気は起こらなかったらしい。しばらく所在なさげにキョロキョロとしていたが、やがてその場で膝を折る。
ようし、今度こそ。
そう思って身を乗り出した男は、びくっと肩を震わせる。
また何か男の覚えのない足音が近づいてくるのだ。
今度は何だ。男は息をさらにひそめ、音に集中する。
どすんどすんと、重量感のある物音が連続する。がさりと草木が揺れる音、時折樹木が曲がって跳ね上がる音もする。
まさか空飛ぶ縦ロールより奇妙なものは出てくるわけがないだろう。この際だ。いっそのことフィールドボスが飛び出てきても構わない。だからどうにか、自分のちっぽけ脳みそでも受け入れられるものであってくれ。
そう祈っていたのに、とんでもないものが飛び出てきた。
なんか出てきた。
そうとしか言えないものが出てきた。強いて表現するのならば、それは金色に輝く四本足を持った何かだった
四本の足をわしゃわしゃ動かせ、地面に叩きつけるようにして地を蹴り、時に樹木に絡み付いて体を持ち上げ前へ進んでいく。
図太く頑強そうな四本足。それが生えている根元を見れば、やはり金色の何かがいる。おそらく本体だろう。繭のように包まれているのか、それともそもそもそういう生物なのか。丸く包まったそこから四本の巨大な足が生えているのだ。
あまりにもあんまりなものの出現に男が自失している間に、一角ジカが鳴いた。
なんと讃えるべき勇気なのか、一角ジカが雄々しくその謎生物に飛びかかる。魔物が襲うということはもしかしたら人間なのか? 一瞬だけ思いついてしまった考えも、男はすぐさま却下する。あれは断じて人間ではない。なぜなら人間は二本足で歩く生物だからだ。そもそもあれに人間らしさがまるでない。きっとあれだ。魔物だとか人間だとか、そういうちゃちゃな境界を超越したなにかなのだ。
男が混乱の坩堝に陥っている間に、一角ジカは出現したその謎生物に頭の角を向けて突撃する。
行けっ。貫け! 無意識のうちに握り拳を作っていた男は生まれて初めて魔物を応援してしまった。
「あ」
だが無慈悲にも、あまりにもあっさりとその金色の足が一角ジカを押しつぶしてしまう。ぷちっ、という擬音が似合うような一方的な蹂躙だ。
重量感たっぷりに押しつぶされた一角ジカは、さらさらと塵になる。
この世は無常だった。
四本足の謎生物は自らが押しつぶした魔物を顧みることなく前へ進んでいく。どすんどすんと足音を立てている様子は、まさしく破壊者の威容を誇っていた。
男は、静かに震えて隠れていることしかできなかった。獲物を横取りされたなんていう怒りは思い浮かびすらしない。ただただ、金色の謎生物に恐怖しかわかなかったし、それが人間の縦ロールでできているなんていう想像なんてできるわけもなかった。
この森は、あんな化け物が徘徊するようになってしまったのか。
これからの生活はどうするべきか、狩場を変えるべきなのか。頭を抱える男の耳に、また草木が揺れる音が侵入する。
今度は何だ。この世を終わらす怪物でも出てくるのかと一種の悟りを開き、身を隠す努力も放棄した男が音のほうを振り返る。
「あの腐れ触手……とうとう本気でモンスターの仲間入りしやがったすね! なにを目指してるんすかマジで!」
普通の女の子だった。
褐色の肌に銀髪という異人の風貌が特徴的なだけの、ごくごく普通の女の子だった。
槍を抱えた少女は、何やら毒づきながら走っていく。縦ロールから炎を噴射させることもなく、意味のわからない四本足で魔物を押し潰すこともなく、己の二本足で地面を蹴って前に進む。
男はほっと息を吐き、心から思う。
人間っていいな。
駈け去っていく少女のごくごく普通の姿に、なぜか涙がこぼれ落ちた。本当になぜだかはわからない。でも、男はこぼれ落ちる自分の涙を拭い、決意した。
とりあえず、ギルドに今見たことを報告しよう。何か迷宮に大規模な異変が起こる前兆かもしれない。今回のことを報告して、引退しよう。田舎に帰ろう。ゆっくりと、普通の人間としての苦労を噛み締めて生きていこう。
そう決めた男は、涙をこらえ、ゆっくりと少女たちが駈け去った方向とは真逆の道を進んで行った。




