第百三十四話
この世界の最も底に存在する場所がある。
迷宮の第百層、王冠の間。
この有限の世界の中で、迷宮の百層が無限へと続く扉のある場所だというのはリルが再編したこの世界でも変わっていない。
二十階層、四十四階層、五十階層、七十七階層と同じくワンフロアの空間。空を覆う天蓋、世界の端にあたる水平線、それらと同じく人がいつか訪れることができる有限世界の限界点。世界の底であるのがここ百層だ。
リルの試練を踏襲するというのならば、本来ならば百層の相手はライラと化け猫でなければならなかっただろう。
だがそのどちらもが再現はされることはなかった。
ライラとの勝負はただの少女二人のケンカだったし、化け猫に関しては魂を貫かれている。
それであっても、百層の試練が空座のままということはない。五十階層、七十七階層という困難に優るような百層に相応しい試練がそこには待っている。
「暇じゃ」
かつて滅び、セフィロトシステムの魂の保管庫の中で結構楽しく過ごして、そして最近よみがえった百層に座す女王は、ぽつりと一言つぶやいた。
百層の女王、ルシファリリス。
つややかなコウモリの羽と滑らかな蛇の尻尾が魅惑的な女性だ。百層という狭い空間の中で、彼女の声には隠す気もない不満がありありと含まれていた。
この狭い空間の中に延々と待機しろというのだから、退屈を感じるのは仕方のないことだろう。かつては万年孤独にあり続けた女王陛下ではあるが、やはり暇なものは暇なのだ。
とはいえ彼女は一人ではなかった。
「そうだね、ルシファリリス」
「そうじゃそうじゃ。妾はとても暇じゃぞ、主様。ここはあまりにも、人がこなさすぎる」
「五十階層のみんながいるし、何より七十七階層であいつが張り切ってるんだろうね。おかげで、大部分が七十七階層の手前で止められてるよ」
彼女の不満にこたえたのは、中肉中背の男性だ。
一見すればまるで特徴のない男性だが、不思議と目を離させない何かがある。よくよく見れば体格こそ大きくないが、天性では恵まれていなかった肉体は限界まで鍛えぬいているのが分かる体つき。三十を過ぎているだろうが衰えやたるみは一切感じさせない雰囲気は、一種の芸術品のような品格が備わっている。
イアソン。
決してたゆまぬ精神によって人間の極限を求めた、史上最高の武人と呼ばれるにふさわしい男である。
「ふむ。ということは、あの無礼者をぶっ殺せば少しは無聊を慰める相手も増えうるのかのう。ちと七十七階層に足を運ぶのも一興ではあるまいか? どうじゃ、主様。妾と一緒に無頼漢退治といこうではないか」
「やめなさい」
「むう」
夫の制止にルシファリリスはぷっくり頰を膨らませる。
わかっていても、やはり暇なのだ。ルシファリリスはぺしぺしと背中に生えたコウモリの羽を自分の夫に甘えるようにたたきつける。
成熟した見た目にそぐわぬ子供っぽい仕草だ。妻をなだめるイアソンも、これには苦笑を隠せない。
「どうする? いまの僕たちはなにもここにいなきゃいけないってわけじゃないからね。外に出てみてもいいと思うよ。君にとって外はとても刺激的な世界だろうしね」
「え、いや、その……」
五十階層主は勝利の度に外に出ているし、実は七十七階層の怪人も地上に出ては場末の酒場で杯を重ねている。意思も個性も備わっているのだから、しばらく平穏が保たれるだろう百層を少しくらい留守にしたって問題はない。
イアソンの提案に、万年ずっとセフィロトシステムの中にいたルシファリリスは視線をさまよわせる。
「……妾、異形じゃろ? 羽とかあるし、尻尾もあるし」
「うん。他のどんな女性にもない君の魅力だね」
「ええい! 主様はすぐそういうことを言う!」
口の軽い夫の腕に蛇の尻尾を絡ませて軽く締め付ける。
「なんにしても、妾は人とは隠しようもなく姿が違う。だから外に出るのは、ちと怖いのだ」
「……そっか」
五十階層主が外に出ているくらいなんだから気にすることじゃないとは思ったものの、野暮なことは言わなかった。
時間はいくらでもある。最愛の妻の手を引いて世界を観光してみる時間も、いつかきっと取れるだろう。
「それにしても、少し前まで心躍る闘争の日々であったというのに、暇じゃ暇じゃ。妾たちの愛しい娘はもう行ってしまったし……次の挑戦者はいつ来るかのう」
「いつかはわからないけど、いつかは必ず来るよ。可能性っていうものはそういうもので、人間は諦めが悪いから。それにね、ルシファリリス」
挑戦者を待つだけの日々は確かに退屈だ。寂し気にうつむく妻の頭を、なだめるようにやさしくなでる。
「それまで時間、君と二人きりでいられるというのも僕は嬉しいよ」
ただ一人の女性を口説き落とすためだけに百層に至った大英雄の言葉に、ルシファリリスは顔を真っ赤にした。
「……主様は、本当にそういうことを軽々しく口にする。そういうところが、ちと、ずるいのじゃ」
異形の身でありながら完成された美貌も持つ彼女は、つんと唇を尖らせ、蛇の尻尾をへにょらせながら、体を夫に預ける。
「のう、主様」
「なんだい」
「妾達を超えて無限への扉を抜けた二人は、上手くやってるかのう」
「もちろん。目指していた人のもとにたどり着けたに決まっているよ。僕たちの愛娘と、その友人だからね」
「うむ。そうだな! コロもヒィーコも、上手くやっておるに決まっておったな!」
百層の夫婦は、いつか来るだろう可能性を二人一緒に待ちわびながら、ここを通過した二人の少女の雄姿を思い出して笑った。
・ルシファリリス
百層階層主の片割れ。
この世界で知る者はほとんどいない女王である。
創世より百層にあり、おおよそ三百年の空座を経て舞い戻った。知る人がいなくとも、彼女の力が絶大であるのに変わりはない。
彼女のいるところまで挑戦者がたどり着くこと稀で、暇な時は夫とイチャイチャしている。
後年、夫と一緒にこっそり地上に出るようにもなった。
普段は夫婦そろっての百層主として君臨しており、クルック・ルーパーと同等以上の存在を二人同時に相手どって勝利しなければならない凶悪な試練である。
不可能と思えるほど過酷な条件だが、たった二人だけこの試練を乗り越えた者がいる。
・イアソン
百層階層主の片割れ。
この世界で知らぬものはいないほど偉大な大英雄である。歴史に証明されている史上最高の名にふさわしい実力を誇る。
彼のいるところまで挑戦者がたどり着くことは稀で、暇な時は妻とイチャイチャしている。
後年、妻と一緒にこっそり地上に出るようになった。
普段は夫婦そろっての百階層主として君臨しており、クルック・ルーパーと同等以上の存在を二人同時に相手どって勝利しなければならない凶悪な試練である。
不可能と思えるほど過酷な条件だが、たったの二人だけこの試練を乗り越えた者がいる。




