第百二十三話 夢幻
意識が沈んでいく。
肉体ごと丸のみにされて、仲間と引き離されていく。
抵抗など無意味だった。化け猫の中身は無限であり、夢幻でもあった。夢に沈める中でリルの意識を容赦なく漂白していく。
夢の中でリルは、とある世界で新しく生まれて、健やかに育っていく。昔あったことは次第に薄れ、胎児の頃に残っていた前世の記憶なんてものは産声と共に吹き飛ばされる。おぼろげな情景として残っていた生まれる前の出来事は、圧倒的に広がる世界に押し流されていく。自意識が確立されてからは、記憶というには儚すぎる印象しか残らない。
人が記憶によって自意識を確立させている限り、世界が五分前に生まれたところで気がつかない。
人生のどこかの出会いで一瞬だけ、稲光が瞬いた。
びりっと全身に廻った雷光が何かは分からない。デジャブと呼ぶような何かだったが、リルはその時も自分を取り戻すことができなかった。
それでも時に、夢に沈んでいると何かを思い出しそうになる。いつかあったような気がする自分がいたような、夢を見ている時だけは自分は今の自分ではないような、そんなとりとめもない欠片を万華鏡に、うつらうつらとまどろんで――
「――ル! リルってば!」
背中をつつかれて、リルドール・アーカイブは、はっと目を覚ました。
急速に、夢の世界が遠ざかっていく。何か、一瞬前まで違う世界にいたような不思議な感覚は、あっという間に彼方へと押し流される。目を覚ましたリルは、ここがどこだか、自分が何をしていたのか、とっさに思い出せなかった。
長い、それはもう長い夢を見ていた気がする。ぽかんとした夢心地の頭のまま、リルは後ろを振り返る。
誰だっけ。
自分の後ろの席からじっとりとした視線を送っている少女に一瞬だけそう思って、すぐに思い出す。
「……玲子? なんですの?」
「『なんですの』じゃないよ」
猫宮玲子。長く伸ばした髪を結っておしゃれをするのを好む、気さくで割り切りの良い少女だ。成績はリルと同じくらいでよく競り合っている。高校で出会った同級生で、つまりリルも高校生で、ここは高校の教室だ。
当たり前のことを連鎖的に思い出していく寝ぼけ頭のリルに、玲子はあきれ顔で手に持ったテスト用紙を突きつける。
「答案用紙、さっさと前に回して。リルで止まってるんだから」
「答案……」
玲子の言葉を復唱してから、一拍遅れでそうだと我に返る。
さっきまで期末テスト中だったのだ。昨日は根を詰めて勉強をしていたため、テストを解き終わった後の余った時間でうとうとしてしまったのだ。
思い出したリルは、慌てて玲子から答案を受け取って前に流す。
前方の時計を見れば、長い夢を見ていた気がするというのに、せいぜい十分くらいしか時間は経っていなかった。
「ふぁーあ」
気の抜けたあくびの主は、リルの後ろの席の玲子だった。ぐーっと腕を伸ばして体を大きく伸ばす。そのまま伸ばした両腕をリルの肩に乗せて、じゃれついてくる。
「やーっとテストも終わったね。ていうかリル。期末テスト中に寝るとか余裕だね、まったく」
「え、ええ。まあ、わたくしですもの。当然、余裕ですわ」
「なに? 昨日は徹夜でもしたの? そういう無駄な努力は嫌いじゃないよ、私」
「そういうわけではありませんわよ。というか、無駄ってなんですの、無駄って」
自分で振っておいて会話の流れをぶった切る玲子に、リルはむっつりと口をひん曲げた。
「英語はライティングもリスニングも得意だというだけですわ。見直しを含めても余った時間が退屈で、ちょっとうとうとしていただけですのよ」
「あー。リルは見た目通り、英語は得意だもんね。他は微妙だけど」
「見た目通りはおやめなさい」
幼い頃は西洋的な見た目で苦労した経験のあるリルは、気づかいのなってない友人にべえっと舌を出す。
「それに成績は同じくらいでしょうに。玲子に微妙だなんて言われる筋合いはありませんわ」
「だねぇ。高校に入ってからで、総合成績ほぼ一緒だしね。今回も競う? 終わった後でなんだけど、アイスでも賭けよっか」
「あら、望むところですわ」
テストの回収を終えて、がやがやとし始めた教室で、リルも後ろの席の友人と歓談する。
夏休み前の期末テスト。最終科目の試験も終わって、あとはホームルームだけとあって、教室には開放感が全開でゆるんだ雰囲気になっている。
「よっしゃ、それじゃ帰りはどっか寄り道して夏休みの予定でも立てよっか。どーせリルは暇でしょ? ねえねえ、リルんちって別荘とか持ってないの? プライベートビーチとかは?」
「……玲子はわたくしを誰と心得てますのよ」
「リルお嬢様でございます」
「お嬢様はおやめなさい。わたくしの家は普通の一般家庭ですわよ」
ちらりと上目遣いでふざける玲子の頭を、ぽかりと小突く。
「えー。リルが一般家庭とか全く説得力ないんですけどぉ。口調が異様にお嬢様っぽいしさ」
「ふんっ。まだ日本語が不自由だった頃に、見た目でさんざんからかわれましたのよ。その時の友達に『どうせお嬢様っぽいなら、口調もお嬢様っぽく通してやろうじゃないか』とアドバイスをもらっての口調ですわ」
「うわ、強いなぁ。めちゃくちゃ攻めるじゃん」
「攻撃こそ最大の防御ですもの。自意識過剰なくらい堂々としていれば、面と向かって何か言ってくる人間は減るものですわ」
「気が強いなぁ、リルは。だから彼氏ができないんだよ」
「お黙りなさい!」
友人と軽く笑い合うリルの中からは、もう夢から覚めた瞬間に感じた何かは遠くに追いやられていた。
玲子と話しながら、何気なく耳にかけるためにかきあげられたリルの髪は、肩甲骨あたりまでしか伸びていなかった。
***
リルたちを飲み込んだ化け猫は、休息をとるために宇宙樹の葉に乗って休んでいた。
少し前に戦っていた少女たちは、いまごろ化け猫の腹の中で世界の夢を見ているだろう。あとは少しずつ消化され、化け猫の一部となるのを待つのみだ。
あの少女だけではない。もう、あの世界にいた知性ある生物のすべては化け猫の腹の中にあった。
最初から、勝敗の是非など問うまでもない戦いだ。少女たちにとってみれば決死の覚悟だっただろう戦いも、化け猫にとっては今まで幾度となく繰り返されたものでしかない。勝負ではなく、ただの捕食。格別に記憶に残るような出来事ではなかった。
化け猫は腹が満ちたまどろみの心地よさに、ごろごろと喉を鳴らして安寧の時間をむさぼっていた。
ぶちりと繊維がちぎれる音に、化け猫は片耳をぴくりと反応させる。
「あの世界も、そろそろであるな」
宇宙樹の一部であり、実と枝をつなげている部分である迷宮は、無限宇宙の出入り口にして世界の軸でもある。そこで有限の世界で耐え切れないほど激しい戦闘を繰り広げたために、世界を支える軸が今にも折れそうになっていた。
だからこそ、化け猫は宇宙樹の実の中で顕現する時は猫をかぶっていたのだ。
化け猫があの世界で化け皮をはがされたのは、都合四回。最後は特に激しい戦いとなり、あの世界の軸である迷宮を大きく揺らした。
もう猶予はない。
だが、先ほどの戦いのついでに、化け猫はすでにあの世界の人類の魂を無限の腹のうちに納めていた。
物質には触れずに、魂のみをかっさらう。怨念の集合体であり生来から精神的な存在である化け猫は、肉体的な容量は大きくない。そのため、ほとんどは魂の身をその腹のうちに納めることになるのだ。
宇宙樹の実が墜ちる時に内包される人命は、おおよそ二十億。そのすべてを、化け猫は自分の腹のうちに納めていた。
精神体にして星辰体。正真正銘、真の姿を現した化け猫を構成する怨念の全要素は、世界の人々を食らいつくしてもあまりあった。
化け猫はゆっくりと頭を持ち上げて、宇宙樹の威容を視界に入れる。
その跳ね上がった巨大な体躯の化け猫ですら、宇宙樹の巨木の全容を把握することすらできない。
いまの巨大な化け猫をして、根元にも頂上にもたどり着くのに途方もない労力を費やさねばならないほど数多の概念を内包する宇界樹。無限宇宙に屹立する巨木は、膨れ上がった化け猫の体が一枚の葉っぱに乗るほどに巨大だ。
その反面、宇宙樹に実る果実は、そんな大きな樹の実と思えないほどにささやかである。
枝葉に隠れるようにして、ひっそりと碧く小さな世界が実っている。その大きさは、化け猫が齧りとれる程度の大きさだ。
化け猫の視界の中で、ひとつ、根元がちぎれかけ、いまにも落ちそうな実がある。
そこの中に、人の魂はもう残っていない。
「これでよい」
堕ちる世界から、意志ある人の魂をかっさらって腹に収めた化け猫は、瞳孔を丸くして目を細め、残った宇宙樹の実を見つめる。
しばらくすればあの実も落ちるだろう。
だが、人の魂は救済した。物質はつぶれて崩壊しようとも、知恵と感情を内包する精神は化け猫の腹の中で夢を見ている。
ならば墜落に嘆きはない。
しばしの休息を得るために、化け猫はあくびを一つ。くるりと丸まり、後ろ足に頭を乗せる。
「吾輩も、眠るか」
しばらくは、世界から出ようというものもいなければ墜ちるに近い世界もない。
夢幻に広がる己の腹の中で、呑み込んだ全ての人々に幻覚を見せるため、化け猫自身も静かに眠りについた。
明日もお昼、夜の二回更新になります。




