第百二十二話 名無しの猫
迷宮の百層。
この世界の底にして、無限の宇宙につながる始まり。そこを占拠して丸くなっていた化け猫は、まぶたを持ち上げた。
九十九階層の扉が開いたのだ。
迷宮に訪れる者を審判する最後の扉を開いた者がいる。恨みを、怒りを彼女たちは乗り換えたのだろう。不足を充足させ、進化の礎にする。障害すらも己の糧にするのが英雄足りうるものなのだ。
ああ、しかし、だからこそ愚かしい。
英雄の訪れを知って、化け猫は嘲笑を隠さない。
終末を知りつつも挑んでくる。抗おうとする。他のだれが不可能でも自分ならばと思っている。他の誰でもない自分たちならばできると思っている。
それが愚かしいと、なぜ気が付かないのだろう。
全力を尽くし、死力を尽くし、最善を尽くして――それごときで、勝利がつかめると思っているのだろうか。今まで幾人もの猛者が屠られたというのに、自分が特別だと思っているのだろうか。世界で最も優れているのは自分だと、そんなことを思っているのだろうか。
くだらない妄想だ。
化け猫は思う。
己が、敗北するわけがない。己の正義にかけて、化け猫は負けていいはずがない。たかが三人。なんとちっぽけか。化け猫の構成要素の足元にも及ばない程度の存在だ。
「塵芥ごときが寄り集まろうと、吹けば飛ぶ程度のものだというのにな」
英雄を嘲る化け猫は起き上がり、背筋を伸ばして大口を開ける。
一つ、大きくあくびをして戦闘態勢を整える。己を構成するすべての怨念にかけて、化け猫は喉奥から唸り声をあげる。
階段からリルたち三人が現れた。
よく来たな、などとは言わない。敵の登場に対し、化け猫は喜びの感情など一片もなかった。かなうことならば、こんなところには来ないで欲しかったのだ。
だが、来たというならば滅するまでだ。
やがて現れたリルたちを見て、化け猫は幾億万の瞳の詰まった瞳孔を細める。
リル達の顔に恐れなどまるでない。恨みで立ち向かっているわけでもない。化け猫を通過して、さらにその先へと進もうという瞳だ。
なんと不遜な態度か。
前ばかり向いている瞳が気に入らない。心残りなどないという顔が不服でならない。
三対の瞳と、化け猫に詰め込まれた幾千億の目玉がにらみ合う。
「先に、進ませてもらいますわよ」
「踏みにじってくれる」
お互い、口上はあげなかった。
やるべきことははっきりしている。言葉がかみ合わないように、向き合う両者の思惑が重なることなどない。
前に進むために。進撃を阻むために。
目的からして相争う運命にある。結果が譲れないのだから、言葉を交わす意味などない。
お互いが、つぶし合うだけなのだ。
***
前足を一振り。
開幕の先制一打は、化け猫からだ。
化け猫の武器はなんといってもその巨体だ。
いまの化け猫から見れば、リルたちなど前足の肉球程度の大きさの虫のようなものだ。やたら頑丈で機敏。化け猫の毛皮を貫く牙を持っているが、それでも大きさの有利が消えてなくなるわけではない。
直撃すればその重みだけでつぶせる攻撃。それでなくても床に抑えつけられて身動き取れなくなるだろう素早い一撃。普段はひっこめている爪をむき出しに、あわよくば脆弱な体をずたずたにしてやろうという凶悪な攻撃だ。
それに対抗するには、相応の重みのある攻撃を繰り出さなければならない。
コロが受けた。
背中の大剣を引き抜いて、爪を受け止める。化け猫が斜めに下した一撃に対し、ミスリル合金の刃で立ち向かう。
「ふッ」
短く息を吐いたコロは、その場で羽毛でも受けるかのように軽やかに流した。常日頃見せていた剛剣とは裏腹に、触れるように優しい柔剣。止めるのではなく逸らし、即座に斬りつける。
ほとんど切れなかった。
毛が刀身に絡まり、皮で刃滑る。が異様に切りにくい。眉をひそめたコロに向かって、化け猫は頭を突っ込んで食いつく。化け猫の動きに技巧はない。それでも、レベルを超越した身体能力と生物として考えられないほどの巨体の攻撃は、それだけで避けがたい。
「――変・身」
閃光が発生した。
ヒィーコがつぶやいたキーワードによって瞬いた光に紛れるようにして、リルの縦ロールが化け猫の攻撃を真正面から押しとどめる。
「ちょこざいな……」
「ふん! 真正面から受けられて、ちょこざいもなにもありませんわ!」
縦ロールで攻撃を止められ、ぐるぐると唸る化け猫にリルは堂々受けて立つ。
リルが受け止め作った時間をコロは正しく活用する。
「姉魂焔剣」
コロの縦ロールから引き出された炎が、ミスリル合金と重なる。
ミスリルの大剣を軸に、炎剣が大きく燃え上がる。極大に、それこそ化け猫の体躯と同等の大きさに代わる。全力で想いを引き出し魔法と燃やし、力を溜めたコロが技術の粋を練り上げる。
「天覧――」
だが、コロが振り下ろすよりも化け猫の動きの方が早い。真正面からの攻撃などなめられたものだと、剣を振り上げたコロを叩きつぶそうと前足を振り上げようとして、前足が動かないことに気が付いた。
「にゃぬ?」
「やらせるわけないじゃないっすか」
ヒィーコの槍が化け猫の前足を貫いていた。ヒィーコの想いの具現化。魔力装甲で強化された槍は迷宮の床にすら突き刺さるほどの威力を誇り化け猫を縫い付ける。
コロが刃を振り下ろした。
「――兜割」
クルック・ルーパーから正しく受け継いだ見るも見事な一閃は、しかし化け猫の頭蓋をかち割るには至らなかった。
とっさに顔をそむけた化け猫の反射神経がコロの予想をはるかに上回っていた。額の正中線をまっすぐ狙っていた一撃は、片耳を切り落とすだけにとどまる。
「む。外されちゃいました」
「大丈夫ですわ。攻撃が通るのですから、徐々に削っていけばよろしいですのよ」
「そうっすね。いくらでかくて速いって言ったって、対応できないほどじゃないっすよ」
いまの攻防で、勝利のイメージでも湧いたのだろう。的外れな戦略を立てるリルたちに、化け猫の口から失笑が漏れる。
「にゃはは。哀れなほど無知。くだらん浅知恵であるな」
貼り付けにされた前足を無理やりに引き裂いて、化け猫は脱出する。
肉がつぶれ皮を焼かれようが、それがどうした。
笑えるほど軽微な被害だ。リルたち三人がかりの攻勢は、あまりに生ぬるい。魂に達しないような攻撃など、化け猫にとってみれば何の脅威もなく痛痒も感じない。
「無知かどうか、浅知恵かどうかは結果が出てからおっしゃいなさい!」
縦ロールが立て続けに襲い掛かってきた。膨れ上がった五本の縦ロール。一本一本が化け猫のしっぽほどもある。それが高速回転して迫ってくる。
化け猫はよけずに突っ込んだ。体が削れる。血肉が削げ落ちる。だが構わない。この肉体で英雄気取りどもを押しつぶせるのならば本望である。コロの刃と炎に血肉を焼かれようが、ヒィーコの槍に骨を貫かれようが、化け猫は構わず攻撃に転じる。
肉体の損傷を顧みない化け猫の攻勢に、リルたちの顔が険しいものになる。
つぶし合いが始まった。
一方的に傷が増えていくのは化け猫だった。リルの縦ロールに体を抉られ、コロとヒィーコの刃に切り刻まれる。それでも化け猫の巨体では、致命傷にならない。急所だけは守りつつ、深手も構わず攻撃にでる。その牙で、爪で、尻尾で、あるいは巨体でのしかかって押しつぶしてくれようという攻撃は、どれも一度命中すれば命を落としかねないほど強力だ。
一撃でもくらえばそれでおしまいになりかねない攻撃を三人はかわし、反撃する。己の技量と想いに命を託し、薄氷を渡るような攻防がどれだけ続いただろうか。
ヒィーコの槍を跳ね除けた化け猫の顔面に向けてリルが縦ロールを振り下ろす。
化け猫は首を引っ込め何気なくかわそうとして、硬直した。
化け猫の鼻先を掠めたリルの縦ロールの中から、コロが飛び出した。
「にゃ?」
化け猫の瞳に詰め込まれた幾千万の瞳の視線がコロに集まる。
縦ロールの中に隠れての、絶対に見えないところからの一撃。虚を突いた接近方法に、化け猫は対応できない。
「絶招――」
打突の型で構えるコロの縦ロールに炎がともり、膨張し、爆発する。
「――鎧貫」
爆発的に響いた前動作とは対照的に、するりと空気をかき分けるような自然さでコロの剣は化け猫の額に侵入し、頭蓋骨を貫通して脳みそに達した。
「あ、が」
完全に不意を突かれた。コロの大剣。不壊の金属、ミスリル合金によって鍛え上げられた退魔の刃が、化け猫の額に埋まる。
化け猫の顔が、初めて苦痛にゆがむ。ミスリルの刃は、確かに化け猫の魂に届いたのだ。
「あっがあがががががガガガがっががががああガガガぁ――ああ」
断末魔の響きが止まった。
だがそれは、化け猫の生命が断たれたからではない。
化け猫の額に剣突き刺すコロの横合いから、無傷の化け猫が顔を突き出していた。
「やはり、この世界に合わせた皮などこの程度のものであるか」
「え?」
なぜ。確かにいま額に刃を突きつけているはずなのに、なぜ真横に無傷の化け猫の顔が?
不可解な現実に対する疑問の答えを出す前に、ばくんっと音を立てて、コロが呑み込まれた。
「は?」
「なっ!?」
コロの不意を突いた攻撃の正体を、リルとヒィーコは目撃した。
化け猫の口内から、恐ろしいスピードで這い出した猫が予期せぬ一口でコロを丸のみにしたのだ。
まるでおもちゃのマトリューシカ。いいや、むしろびっくり箱のばね仕掛け。傷つけた化け猫の口内から無傷の化け猫が出てきたのだ。
コロを呑み込んだ化け猫は、脱皮でもするかのように脱ぎ捨てた己の体をぺろりと平らげ、舌なめずり。
「にゃはは。操り人形の着ぐるみ相手に踊っていた貴様らには、ほんの少しばかり笑わせてもらったぞ。こんなもの、いくらでも作り出せるというのに、無意味に踊ってくれたものだ」
「ふっざけんなぁ!!」
激情を吐き出しヒィーコが駆け出す。
「許しませんわよっ、化け猫!!」
それを援護するべく、リルは縦ロールを振り回す。化け猫の視界を遮り、前足の動きを阻害するように動かす。
「変形・撃槍ッ!」
リルの縦ロールに鬱陶しそうな顔をした化け猫が、ヒィーコが作り上げた巨大な槍をちらりと一瞥して退屈そうにあくびをした。
「……くだらぬ」
槍を振り上げたヒィーコに対して、化け猫は回避のそぶりすら見せなかった。もしリルの援護がなくとも、化け猫は避けなかっただろう。
ヒィーコの無双の一撃に、化け猫はその腹を裂かれ臓腑と血をまき散らす。
「この腹かっさばいてコロっちを引っ――」
「言ったであろう? いくらでも作り出せる、とな」
「――あ」
ヒィーコが斬り裂いた傷口から新たな化け猫が顔をのぞかせた。
ばくりと二口目。ヒィーコまでもが呑み込まれる。
「そ、んな……」
立て続けに妹分二人を飲み込まれ、呆然自失と目を見開いたリルが、あまりの衝撃によろめいた。
「あなた……まさか、死にませんの?」
「いいや? 吾輩の知る限り、無限宇宙にすら死なない生物などおらぬとも。星辰体の吾輩とて、無限ではない。ここに置いた肉体が切れ端であるとはいえ、殺され続けばいつか尽きることもあろう」
言葉を切って、見くだすようににんまりと笑う。
「この世界で吾輩を殺しつくすのには、億や京の回数では到底足りぬがな」
ありえないような単位がリルの絶望に追い打ちをかけた。
いつまでも続くかもしれないほどに、この化け猫を殺し続ける? たった二回殺しただけでコロとヒィーコが飲み込まれてしまったというのに、幾億ですら足りないほどに化け猫を殺して繰り返せと、それが勝利の道だというのだ。
立ち尽くすリルなど眼中にないと言わんばかりに、化け猫は首を傾けて周囲を知覚する。
「ふむ。塵芥共に付き合って、少し揺らしすぎてしまったかもしれぬな。この世界、もう呑んでしまった方が良いか」
何気ない化け猫の言葉は、絶望に沈んだリルをして全身の血が沸騰するような怒りをもたらした。
「わたくしの目の前で、よくもそんなことを……! あなたのような卑怯者に差し上げる世界などありませんわよ!!」
「口を開くな塵芥よ。無知をひけらかすなど、程度が知れる」
負けてたまるものか。諦めてなるものか。まずは丸のみにされたコロとヒィーコも取り戻す。そのためにリルは縦ロールを膨張させてて、化け猫を押しつぶすほどに膨れ上げさせて想いを込めて振りかぶり――無意味だった。
化け猫が、かぶっていた猫を脱いだ。
「貴様ごときにはもったいなくも、知らしめてくれよう」
それは、いままでとは根本的に規模と性質が違った。
かぶっていた化け皮を脱いだ先にある猫は、体のすべてが人間の部位でできていた。
その瞳にぎゅうぎゅうに詰め込んだ瞳だけではない。耳をかたどる部分には人の耳が、鼻をかたどる部分には人の鼻が、大きく開いた口内にある牙は、人の歯がずらりと並んで組み合わされている。
愛らしいはずの肉球はつぶれて丸まった人肉がむき出しになっており、その毛皮は植え付けられた人毛だ。それでは足りていないのか、ところどころ剥げた部分から除く肌は、黒から血の色が透けるほど無色に近い色まで無秩序に張り付けられた人皮が見えた。
吐き気がした。
見るだけでめまいがするような醜悪。最低最悪のパッチワーク。それを見たリルが固まってしまうほど、それが邪悪の権化だと言われればすべての人類が納得するだろうというほどの姿だった。
真の姿をあらわにした化け猫が口を開く。
もはや避ける避けない、などという規模ではなかった。
「この姿こそが、貴様らの罪の証」
化け猫が口を開いた瞬間に、リルはもう化け猫の口の中にいる。舌の上にのせられている。リルは圧倒的速度で膨張する化け猫の口の中で、そのセリフを聞くしかない。
魂となりエーテル体と化した化け猫の体は物質を透過して膨れ上がる。到底百層のワンフロアで収まらない。迷宮すべてを合わせても、いいや、それどころかリル達の住まう世界にたった一つしかない大陸を覆うほどに巨大に膨れあがり、それでもなお膨張は止まらない。
少し考えれば、自明のこと。
化け猫はこの世界の埒外から来た外来種にして超越者の一匹。世界を捕食するのが彼らだ。そもそも大前提として、化け猫は――この世界よりも、大きいのだ。
「見捨てられて潰えた、六十億の世界にいた怨嗟こそが、名もなき吾輩の真の姿である」
世界を舌に乗せた化け猫は口を閉じ、リルたちの住まう世界の人類すべてを丸のみした。




