第百十五話
誰も、言葉すら出なかった。
事態の急変に頭がついていかない。それに何より、現れた化け猫の威圧感がリルたちを縛る。
その目をぎょろりと動かす。幾千億の眼球を集めてぎゅうぎゅうに詰め込んでぐちゃぐちゃにしたような、怖気がふるう瞳だ。
その幾千億の瞳が、一斉にリルへと向けられた。
「にゃはは。まだ塵芥候補がいるか」
びくり、とリルが震えた。リルが震えてしまうほど、その瞳は奇怪で、何より一つ一つがつぶれてもなおおぞましい怨念を宿していた。
真っ先に正気に返ったのは、セレナだった。
セレナの前には化け猫の爪に突き刺されたライラがいる。
あとほんの少し先にあったはずの、あとほんのちょっとで触れ合えたはずの手があったのに、それを遮られたのだ。
つかめなかった。
また届かなかった。
言葉にできないほどの後悔と、その原因となる存在への怒り。それは目の前の猫へのおぞましさすら凌駕する、膨大な怨恨へと変わる。
「吾輩を恨むか、少女よ」
化け猫はセレナの怒りを目にして、真っ先に声をかける。むしろ親近感を抱いたかのような笑みすら浮かべていた。
「よかろう。親しきものを殺され、怨恨を抱くのは当然である。友人を殺され、怒りを覚えるのは自然である。天災が如き理不尽な悲劇に見舞われ復讐を誓うという心は貴様に与えられた、正当なる権利である。貴様の復讐の正当性、ほかならぬこの吾輩が保証しよう!」
殺す。
何をさかし気な論理を謳いあげているとセレナの怒りが爆発する、まさにその直前だった。
「ダメよ、セレナ」
のそり、とその身を百層へと押し入れようとした化け猫の動きがふと止まった。
化け猫が百層の外へと続く扉から差し入れた前足。それで突き刺さした爪を、ライラが掴んでいた。
「ライラさん!?」
「うん」
ライラは、生きていた。
セレナの怒りが吹き飛んだ。そんなことよりも、まずはライラのことだとそちらに顔を向ける。
面を上げたライラが、セレナと目を合わせて微笑み、ばちり、と紫電がはじけた。
ライラの全身が、雷と化していた。
かつてコロナが精魂を燃焼したように、ライラも魂を糧にして至高の雷撃を精製する。己の体を、魂を、レベルというくびきから脱して雷へと変換する。
その魂命と引き換えに、ライラ・トーハは千の雷へと己の身を書き換える。
「そんなやつの言葉、聞いちゃだめよ、セレナ」
雷となった手で、ライラは優しくセレナの手を握った。
そっと両手でセレナの差し出した手を掴んで包み込むようにしたライラが、まっすぐにセレナを明るく笑う。
「最後まで、ごめん。あなたには面倒をかけっぱなしだったわ。頼ってばっかりで、そのくせふがいない、めんどくさい女でごめんね」
「そんな、そんなこと……なんで、最期だなんて……!」
「そんなこと、あるの」
やっとつかめた手、ようやく届いた人への想い。セレナの気持ちを受け取ったライラはやさしく言葉を紡ぎ、別れを告げる。
「ありがとう。あなたは、最高の友達だったわ。本当に面倒をかけちゃうけど――クランのみんなを、よろしく」
立ち上がったライラは、リルたちに、セレナに背後を向ける。
「リルドール!」
化け猫とリルたちの間に立ったライラが叫ぶ。
その呼び声で、化け猫の瞳の呪縛から解放されたリルがはっと我に返る。
「わたしがこいつを足止めするわ! だからあんたは、とっとと逃げなさい!」
「……にゃはは。いまだ塵芥にも及ばぬ蚤風情が、吾輩を止められると?」
「できるわよ、魂ごと、懸ければね」
「できるわけがなかろうよ、蚤風情が」
挑発するように笑みを向ける。化け猫はそれにこたえるように、口を三日月にして応答する。
だがこんな状況で、逃げろといわれて逃げるほどリルは素直ではない。
「加勢しますわよ、コロ、ヒィーコ!」
「はいっす!」
「わかりました、リル様!」
リルの号令に、コロとヒィーコも正気を取り戻す。セレナと一緒になって、四人でライラに加勢しようとする。
だが、それはライラの予想通りだったのだろう。
「うっさい。出てけ、バーカ」
ライラはむしろ愉快そうに笑って、いままで一度も使わなかった権限を行使するためのキーワードをつぶやく。
「百階層主管理者権限――【強制終了】」
百層の管理者のみが行使できる権限。迷宮の閉鎖。本来ならば、ここに座していた女王ルシファリリスが英雄の種に勝利してしまった時にのみ行使するはずだった、使われるはずのない権能。
「なっ!?」
強制テレポート。
驚愕の表情すら見せる間もなく最後まで言わせなかった有無を言わせぬ強制転移に、リルたちは退場を余儀なくされる。
排出と同時に、百層階層主が預かる七十七階層より下の迷宮への入場を閉じる。ライラが死ぬまで、下から上に行くのも不可能になった。
迷宮の百層に、ライラと化け猫だけが残される。
「追わせないわよ。しばらく、ここで私と遊んでもらうわ」
「ふむ? 別に追い回したりなどしたりはせん。吾輩、これでも温厚な猫なのでな。逃げるを弄ぶようなことはしないのである」
余裕の表れか、ざらついた舌で前足をなめて毛づくろいをする。
「そも、吾輩が外に出ればこの姿により恐慌が起ころう。塵芥どもがどうなろうと気にはせぬが、地上の無辜の人々を怯えさせるのは本意ではない。罪なき彼らには残された少ない時間、せめて自然の摂理のまま生きてほしいと願うのである」
化け猫の声音は意外なほどやさしく、穏やかですらあった。
「あの塵芥候補がこの世の終末までおとなしくしていればそれでよし。もし不遜にも今一度ここに這い寄ろうというのならば、その時こそ滅殺すればよいだけである。まあ、貴様はこの場で殺すがな。あの男よりの提案だったから試してみたが、この世界の百層の権能、貴様にはあまりにももったいなかったとみえる」
「そういえば、何でいきなり私を殺そうとしたのよ。一応、百層の管理者にしてくれたのに、ずいぶんと冷たい仕打ちじゃないの?」
「昨日までの貴様は復讐者であった。吾輩に対して正当な恨みをささげる、一人の少女であった。その少女の想いに応えるのは吾輩とてやぶさかではない。……だが貴様、思ったであろう」
こともなさげに返答する。
「先ほどここで、あの塵芥候補どもと一緒にこの世界を出れればと、希望を抱いたであろう」
見透かされて、ライラは眉をひそめる。
確かにライラは、リルの世界の救済を方法を聞いて、あんまりにもばかばかしくて途方のないその方法を聞いて、協力したいなと思った。
「ゆえに死ね」
それが化け猫の産毛を逆なでしたと、そう語る。
だが、そうであるとしたならば、まず根本的なことがわからない。
「あんたさ、何でこの世界から出る人たちを殺そうとしているの?」
「なぜ、とな」
ライラの問いに、化け猫の瞳に込められた幾千の眼球に、怒りがほとばしった。
「知らぬと言うか。思い至らぬと言うか。吾輩のこの姿を見て、わからぬと言うか、塵芥にも至らぬ毛虱よ。この身がある意味、吾輩の瞳に宿る怨念がどのような罪業より生まれでたか見当もつかぬと、そう言うのか……!」
「なによ。見てわかってとか、構ってちゃんなのあんた?」
「己が愚鈍をごまかすな。七十七階層主を全うしたあの男は気が付いていたぞ、吾輩の行動原理に」
クルック・ルーパーのことかと舌打ちする。いちいち比べられると、わが身がふがいなくなるのだ。
「いいから教えなさいよ」
渾身の問いかけと共に、雷となったライラの身から雷鳴がとどろく。
「私、ライラ・トーハの人生最後の質問よ。あんたの殺戮衝動の根源、私達を殺して正当な復讐と語る理由はなんなのか、応えなさい化け猫!」
「断る」
決死の覚悟で殿に残ったライラが冥途の土産にと請求した問い。
それすら受け入れぬと、化け猫は傲然と言い返す。
「得るものなど何もなく死ぬがよい、人の身を超越しようとする塵芥よ。吾輩が貴様らを殺戮するのは、六十億個の墜落をもって得た正当な権利であり、一千二百億の怨嗟よりなされる義務である。吾輩の復讐の懲罰、圧倒的多数の想いに、他者から論を付け込まれるような余地など一片も存在はしえぬ」
ライラの決死の覚悟すら一顧だにせず踏みにじる、無限に近い憎悪。己は貴様らを殺す権利を持ち、それを行使する義務があるのだと、何を根拠にか傲岸不遜にそう言い切る。
殺される自分が、懲罰される側であると語られてもライラは納得できない。化け猫は掛け値なしに本心を語っている。その怨念に偽りはなく、己の正当性を疑っていない化け猫の声音は、むしろ聖人のような尊さすら感じられる。
だが、それでも心当たりがないのだ。
自分も、トーハも、リルドールも、この世界の外から来た化け猫に殺されるような理由などないはずだからだ。
「わっかんないわね……」
「貴様らの理解などいらぬ。わからぬまま、疾くと去ね」
問答は終わりだと、化け猫は牙をむく。
「来るというなら殺してくれよう、超越を目指す塵芥よ。吾輩は、猫である。名前すら墜ちて潰れてた三毛猫である。その名もなき一匹の猫に殺され、ただ無為に帰せよっ!」
何が化け猫をそこまで吠えさせるのか、何があろうとも不退転で殺戮を繰り返すという覚悟。油断せず、手段を選ばず、ただそれでも己の復讐は正当であると化け猫は想いをとどろかせる。
最期の戦いかと、ライラは雷を鋼に変え、雷霆を取り出す。
「音より速く鳴り響け――」
勝利はありえない。
「天地の狭間を駆け抜けろっ」
それでも死闘に身を投じる理由は、好きな人を殺された復讐ではない。
「人の心を撃ち抜け吠えろ!」
ただ、明日をつなげるために、ライラ・トーハは決死の戦いに身を投じた。