第百十四話 猫
すさまじい戦いが繰り広げられていた。
百層の王冠の間でいま行われている戦いはセレナやコロ、ヒィーコですらここに来る前には考えもしなかったレベルの闘争に発展していた。
彼女たちはリルも交えて、ここに来るまでに入念にライラの対策を練っていた。ライラのことをよく知るセレナがいるのだ。その情報をもとにしながら議論を重ねシミュレーションを繰り返した。
そこで議論の俎上にすら上がらなかったような、目を疑ってしまうような戦闘が行われていた。
「第一さぁっ、あんたはなんなの!? 気取ってる割には頭の中残念でさ! あの学園にいた時からそうよね!」
「やっぱり覚えているんじゃありませんの! あなた、別に昔のことを忘れていたとかそういうわけじゃありませんのね!」
「忘れるわけないでしょうが! ウザかったのよ、あれは! ムカついたよ、あんたのやらかしてくれたことは!」
「そうですの。そんなにはっきり覚えていて、なんであの時わたくしのことを知らないふりをしましたの?」
「ただの嫌がらせですけど何か!?」
ぎゃーぎゃーと口論を戦わせながら、そのついでとばかりに縦ロールを振るい、雷をきらめかす。
リルは怒り狂っていて、ライラは開き直っている。口論はそこらの女学生と同レベルかそれ未満なのに、余波で響く戦闘の衝撃だけは凄まじかった。
「いーじゃない別にちょっとくらいやり返したって! 嫌いなあんたをちょっと無視しちゃいけないっていうの!? そもそもを言えばあんたが私に特に理由もなく水かけてこようとしたのが悪いのよ! なにあれ? いじめ? 陰湿ないじめの主催者にはなにも言われたくなんてないですぅー」
「コロとヒィーコの前でそういうことを言うんじゃありませんわよぉ!」
「昔のあんたのことよ!! 仲間にしっかり聞かせなさいよ」
すさまじく、ぐだぐだだった。百層の底で行われるにしては、あんまりにもくだらないやり取りだった。年頃の少女が意見をぶつかり合わせて挙句の果て髪を引っ掴んで引っ張ってケンカし始めたような、そんなどうしようもなくみっともない争いだった。
「……あたし、しばらく昼寝するんで終わったら起こしてくださいっす」
「え!?」
ヒィーコがそう言って真っ先にリタイアした。コロはどうすればいいのかわからずにおろおろしていて、セレナはポカンと呆けている。
「第一ねぇ! 再会したときも思ったけど、なんであんた縦ロールが動くようになってんの!? 何をどう考えてもおかしいでしょ!?」
「おかしくなんてありませんわよ! この縦ロールはわたくしの誇りなのですわよ!」
「それ! そもそもそれがおかしいのよ! 誇りが縦ロールってなに? バカなの? あんたバカでしょう!」
すぱーんといういい音を立ててライラの持つハリセンが振り抜かれる。リルは縦ロールで防ぐがそれとは関係なしにライラのハリセンはよく響く。
世の中、触れてはならないこともある。リルの縦ロールの数多い謎もその一つなのだが、そこに果敢に切り込んでいく姿は、ツッコミの鑑だった。
恐るべきことに、一時間しても二人のキャットファイトは収まらなかった。
二人して人類最高に近いスペックの持ち主。体力はむやみやたらとあるせいで、くだらない殴り合いではなかなか決着がつかない。
「ですから、どうして納得できませんの!? 自分勝手がどれだけ周囲に迷惑をまき散らしたか、自覚はありませんの!?」
「自分勝手とかあんたにだけは言われたくないですぅー。わがままお嬢様のあんただけには上から目線でお説教なんてされたくないですぅー。あなたは自分の身勝手がどれだけ周囲に迷惑をかけていたか反省したことはあるんですかぁー?」
「その腹が立つ物言いはおやめなさい! バカに見えますわよ!?」
「はあ!? おバカ代表のあんたには言われたくないわよ!」
二時間ぐらいすると、二人の戦いは言葉の応酬が主になっていた。
この頃になると昼寝から起きたヒィーコとコロは床に座っておしゃべりをし、律儀なセレナが時折二人に声援を送っていた。
「飽きないっすねー。セレナさん的には、ライラさんのあのざまはどうなんすか?」
「そうですね。ああいうライラさんも好きですよ。どうせなら、もっと早くこういう面も知りたかったですね。……それを晒せなかったからライラさんが追いつめられたという面もあるでしょうし」
「そんなもんすかねぇ。ちなみコロっち。いまのリル姉の様子に一言」
「いつものリル様です」
「……ふふっ。そう言い切れるコロネルさんがうらやましいです」
世間様では英雄と言われている女傑二人の争いを、三人は場外で眺めながら会話の種にする。二人の醜態ともいえるような心のちっちゃさが露呈されているが、仲間内からすればその人の一側面に過ぎない。
三時間すると、さすがのリルとライラも疲れが出始めた。
相手をののしるためなら無限の語彙と体力が湧いて出るのではと思われた闘争だったが、そうもいかないらしい。ぜえはあと息をきらせてお互いを罵りながらも、ライラとリルはさすがに少し頭を冷やし、お互い何をしているんだろうと思い始めた。今更ではあるが、二人にちょっぴりの自制心が戻りつつも、まだ決着がついていないという事実がケンカをお開きにすることをためらわせている。
そこに、完全に飽きている三人が声をかけた。
「あ、そろそろ終わりそうっすか?」
「どっちが勝ちましたー?」
「どちらも頑張っていますよ」
場外の三人は完全に落ち着いて観客気分だ。というか、観客ですらなく三人でしりとりをし始めていた。ヒィーコなど、トランプでも持って来ればよかったと後悔していたほどだ。
やる気のない観客の態度に、リルとライラはむしろ負けん気をあおられた。
絶対に負けてたまるかと引っ込みがつかなくなって、どっちかが倒れるまでということになる。
四時間が経った。
まだ終わらなかった。しりとりはコロが連戦連敗を喫してしょんぼりしていた。
そうして五時間が経って、ようやく体力が尽きた二人は、同時にぱったりと顔面から地面に倒れた。
「あ、終わったっすね」
「お疲れ様です、リル様」
「ライラさんも、よく頑張りました」
ねぎらいの言葉をかけられたが、リルもライラもちっとも喜ばなかった。二人とも床と仲良しになりながらも仏頂面だ。
結果は、しいて言えば引き分けだろう。
「あんたさ」
精魂尽き果てるまでの言い合いなんてしたのは、いつ以来だったか。痛み分けともいえるグダグダ合戦の結果、顔面から地面に突っ伏したままのライラが、ぼそりと問いかける。
「どうすんのよ」
「なにをですの」
リルも地面に突っ伏したまま答える。
もはや縦ロールの毛先すら動かせないほど疲れているのだ。こんなに疲れたのはいつ以来かなとぼんやりリルは考える。
「どうするの、この世界。あの猫が墜ちる世界の人を救えるのは間違いないのよ。それに抵抗する気でしょう、あんたたち」
「ええ。わたくしたちの世界のことですもの。外様に好き勝手などさせませんわ」
「あっそ。なんか方法があるの」
「ありますわよ」
「え、マジで?」
ライラは驚くものの、代案があるのは当然だ。リルとてバカではないし、もう無責任ではない。ちゃんと落ちる世界を救う方法は考えていた。
「どうするの?」
「……笑いませんわよね」
「いいから言え、うっとうしい」
ライラの催促に顔をしかめたものの、ぼそぼそとリルは応える。世界が墜ちると聞いた時から、ずっと考えていたのだ。
リルが語った世界の救済方法を聞いて、ライラはきょとんと眼を丸くした。
「え、ああ、そう……え? あ、うん、えっと、それって、つまり――あははははあははははあははははははははあははははははははははははっははははははは!」
そして、唐突に爆笑した。
「な、なに考えてはははあはは、あはははははははははははっはっははははははははっはあははははははごふうっ」
一人で爆笑というのも変な話だが、百人分の笑い声を詰め込んだかのような笑いようはそうとしか表現しようがない。
ライラはそれはもう盛大に笑って、最後にむせた。
息も絶え絶え、それでもなんとか持ち直した。
「くっ、げほ、……ふう。なによ、あんた私を笑い殺しにする気だったのね」
「だから笑うなといったでしょうに!」
「いや、無理。不可能を要求されても困るわ」
まだ笑いの余韻が収まらず、ライラはくすくすと笑いながら答える。
セレナがライラの、コロがリルにそれぞれ冒険者カードを返す。リルとライラは受け取った冒険者カードで各々体力を回復させて立ち上がった。
「リル様。大丈夫ですか?」
「ええ。コロ。今度は二人がかりであの女をコテンパにしますわよ」
「いい加減にしてくださいっす、リル姉」
またこんなくだらない争いを再発されてはたまらないと、ヒィーコがリルをたしなめる。
「お疲れ様です、ライラさん」
「……ん」
声をかけるセレナが少し躊躇っているのは、人並みの罪悪感があるからだ。
「帰りましょう、地上に。みんなにごめんなさいをしましょう。きっと納得しない人もたくさんいるでしょうけど、大丈夫です」
「やだな」
ライラが小さく、顔をうつむける。
「今更、どの面下げていけるのよ。恥ずかしい」
しごく普通の感性の意見に、セレナは微笑みを浮かべる。
そして無色の掌ではなく、自分の掌をライラに伸ばす。
「安心してください。世界の誰がなんと言おうと、わたしはライラさんの味方です」
「ん」
心強かった。気が付ければよかったな、とライラは後悔した。
みんな離れていってしまったのだと思っていた。トーハが死んでからなにかもなくなってしまったような気がして、自分が世界で一番かわいそうな女の子になってこんな地下深くに引きこもった。
そんなところまで追って来てくれる友達がいたことに、ちゃんと気がつければよかったのに。
ライラが、そろりと手を伸ばす。
セレナとライラ。
二人の手が近づいて、つながろうとしたまさにその時、ライラが悔恨する。
「戻れれば、よかったんだけどな」
二人の手が触れ合うその寸前に、何かがライラの胴体を貫いた。
「ぁ」
それは、巨大な爪だった。
それ一つがカニエルのハサミに相当するほど大きな爪先が、ライラの胴体をほとんど両断しかねないほど広く、深く貫いていた。
百戦錬磨の五人全員が反応できなかったほどの不意打ち。
百層の扉の先、迷宮の果ての向こう、無限の始まりから、巨大な獣の手が一本、差し込まれている。
毛むくじゃらの指先に、愛らしいとすら思える肉球。指先に収納する器官がある爪先が、ライラの体を貫いていた。
ごほ、とライラが吐血する。
セレナが愕然と目を見開く。リルたちは顔色を変えて、ライラに致死の一撃を打ち込んだ正体はなんだと視線を走らせる。
扉の外に、目があった。
奇妙な、そしておぞましい視線がそこにあった。それは、たとえるならば昆虫の複眼によく似ていて、しかしそれとは比べ物にならないほどに冒涜的な瞳だった。
幾億千万の眼球を一つの球体にぎゅうぎゅうに詰め込み、それでもなお多くの眼球を注ぎ込んだかのような有様をさらしている。中に詰め込まれた眼球はその重みでぐちゃぐちゃに潰れ、だというのにその一つ一つが圧倒的な憎悪を糧に生きて、脈打ち、世界を映し出している。
三千世界の怨念を集めて蟲毒にすりつぶした、おぞましい瞳。
怨念を集めて象った瞳孔が、縦長にすぼまる。
「にゃはは」
世界のすべてを弄して嘲るふざけた笑い声。鋭い牙を持つ口を三日月にし、ライラを爪で一刺しした化け物は耳に残る威厳で重々しい声をリルたちの耳に響かせ、ずるりとその巨体を百層に押し込めるように這い上がってくる。
「吾輩は、猫である」
そいつは、迷宮百層の外から這い寄る超越者。
セフィロトシステムの埒外より生まれた外来世界種。
世界を食らえる三毛猫はその口を開き、
「名前は、もう、ない」
名無しの名乗りを挙げた。
うちの怪獣どもはみんな出落ちですがなにか!?




