第百十一話
不意打ちで仕掛けられた雷を押しとどめたのは、無色の掌だった。
展開されたのは、かつてカニエルの動きを封じたこともある巨大な力場だ。色のない大きな掌が迫りくる雷を抑え込むと同時に、相殺しあう。
まさか、と思った。
信じたくはなかった。
セレナの知っているライラならば、今のような攻撃をしないはずだった。まさか話も聞かずに交渉の余地もなく不意打ちをしてくるなど、あまりにもライラらしくなかった。
だが雷を放ったのはまぎれもなくライラで、逆を言えばこれほどの熱量のある雷を放てるのはセレナの知っている限りライラだけだ。
それでも鍛え抜かれた戦闘経験が、自然と魔法の展開を選択した。
荒れ狂う雷が、無色の掌を食い破らんと荒れ狂う。押し切られる。数瞬後の結果を公平な判断ではじき出す。セレナの魔法は便利な反面、出力に劣る。威力はライラの雷の方が上だ。
だがセレナは焦らない。この防御は一時しのぎだ。数秒という時間にこそ、意味がある。
雷が押し切ろうとしたその瞬間に、リルが縦ロールを振るった。
リルの縦ロールが減衰した雷を巻き上げる。前二本の縦ロールで残らず雷撃をその髪で巻き込んだリルが、そのままライラに返してやるとばかりに縦ロールを差し向けた。
ライラが、雷を鋼鉄に変え雷霆を掴んだ。
無造作にライラが雷霆を振り上げると同時に、鋼鉄に変えた雷がその熱量を解放する。
閃光が弾けた。
膨大な熱量が、リルの縦ロールの軌道を逸らす。のみならず、百層を焼き尽くすかのように広がった。
そこへ、近接組の二人が恐れずに飛び込んだ。
雷光が収まる前にコロとヒィーコが左右に分かれてライラに飛びかかる。雷の余韻がコロとヒィーコに襲い掛かる。肌をしびれさせる。二人して、構わなかった。
背中の大剣を引き抜いたコロがわずかに先行。反対方向から槍を構えたヒィーコが、ライラの死角を突く。
斬りかかった二人の刃を、ライラは避けなかった。防ぎもしなかった。
ミスリルの刃が突き刺さり、通り抜ける。
手ごたえがない。ライラの魔法は、すでに肉体を超越している。ライラはヒィーコには目もくれず、コロを叩き伏せようと雷を打ち放つ。
攻撃が通じないという現実を前に、けれどもコロもヒィーコもひるまなかった。
顔色一つ変えず、ライラの雷撃をかわしてさばく。コロもヒィーコも、武器はミスリル。魔を滅する真なる銀。世界の至宝に人類の英知を詰め込んだ刃だ。魔法で雷化していようが、まったく通じないなどありえない。
ミスリルの刃が閃いた。
コロの振るう切っ先が、大剣とも思えないほどのとんでもない速度で床を滑る。ライラがそちらを意識した。それすら追い越してヒィーコの穂先が突き出された。
一呼吸で、三連撃。
疾走から静止への急制動の力も使っての連撃。かつてクルック・ルーパーにたたえられたのと同質な突きを三度繰り出す。リルの傍にいたセレナが思わず感嘆してしまうほど見事な連撃は、余さずライラの急所に突きこまれた。
ライラの顔が歪んだ。
体を雷に変えるライラとはいえ、ミスリルで貫かれればそのまま体が減衰する。急所が存在しなくなったが、それだけだ。先んじたヒィーコの先制に、ライラは回避も反撃もつぶされる。何もできずに動けないそこへ、一拍の間すら置かず、コロが斬断。
下段から天地をまるごと掬い上げるような豪快で、それでいて制御された一閃。足元から胸元まで斜めに断線。地上に半月をおろしたかのようなきらめきが剣線の残像として目に残り、大剣の刃が平行に止まる。
コロの縦ロールに炎が点火した。
「絶招――」
その一点に百層の空間が吸い込まれていくような錯覚を起こしてしまうほど吸引力のある引きと構え。見惚れてしまうような静止状態は永劫のようで、たったの一瞬未満だった。
縦ロールの中で、炎が爆発した。
「鎧貫」
大剣が、百層を貫いた。
ライラの体が千々に散った。突きの余波が暴風となって百層に吹き荒れた。縦ロールから噴出された爆発と相まって、気流がうねりをあげた。
貫くすべてを吹き散らしてしまう渾身の一撃だ。
素晴らしいなと、セレナは今度こそ見惚れる。
剣と槍。レベルも加味すれば、ヒィーコもコロもどちらも大陸で最高峰の使い手となっている。それが息を合わせて向かってくるのだから、敵対すれば悪夢でしかない。対人の武術を高い水準で修めたセレナでも、二人がかりとなれば十合もさばけないだろう。
ライラでは、接近戦は分が悪い。あるいは圧倒的な技量を持っていれば別だったかもしれないが、ライラが戦ってきたのは魔物が主だった。
だが、その未熟を補って余りある魔法をライラは持っていた。
技量より、熱量。
千々に散ったライラの体が紫電を帯び、そのまま弾けた。
無差別の雷の嵐が吹き荒れた。多少の技の格差など丸ごと吹き飛ばすような広範囲の攻撃。
そうなることもわかっていた。
すかさずセレナが無色の掌を差し込み、リルが縦ロールで散らしていく。
雷が吹き荒れた後には、無傷のライラがセレナたち四人から離れた場所に立っている。切り裂かれた傷は見えなくとも、消耗はあるのだろう。回復のために使用しているのか、胸ポケットに納められている冒険者カードがわずかに光っている。
「問答無用とは穏やかではありませんわね」
距離が開いての仕切り直し。前哨戦を終えて差し向けられたリルの言葉を、ライラは聞いた様子すらなかった。応えないのは当然、視線すらも向けない。
徹底的な無視の姿勢に、セレナの横にいるリルがかちんと頬を引きつらせる。
「この――」
やはり短気というべきか。怒鳴りつけようと呼吸を吸った瞬間、ライラの姿がかき消える。
雷化を利用とした高速移動。コロとヒィーコが目を丸くしてしまほどのスピード。それは、純粋に速い。障害物のない直線移動しかできない移動法だが、速さという一点に置いてこれほど優れたものもない。
ライラを大陸最強まで押し上げた二つの最大の要素。
その熱量と圧倒的な敏捷性は、あのクルック・ルーパーとすら打ちあえた要因足りえたのだ。
人類最速の敏捷性。それをいかんなく発揮する。先ほどの縦ロールに脅威を覚えたのか、あるいはコロとヒィーコを相手に接近戦を嫌ったのか。近接担当のコロとヒィーコの隙間をすりぬけ、リルへと狙いを絞る。
雷速で肉薄したライラは、無言のままリルへと雷霆を振り下ろした。
セレナが受け止めた。
両腕にはめたミスリルの小手。それでライラの雷霆を受け流す。リルの縦ロールでは追いつけないほどの高速移動を可能とするライラへの対応策として、セレナがすぐ傍に控えていたのだ。
間近に迫ったライラの顔に、セレナは悲痛な表情を浮かべる。
どうしてこうなってしまったのだろうか。
戦闘が始まったこの段になっても、セレナはそんなことを考えてしまう。
「ライラさん……」
「……セレナ」
初めて、ライラが戦闘以外の反応を返した。
何かを求めてライラの瞳を見るセレナに、ライラはそっと顔を伏せる。
その態度が、ひどく悲しい。
「そんなに、憎いんですか?」
セレナは戦闘の手を止めて語りかける。
あのクルック・ルーパーのように、トーハのことを記憶としてしまった世界がそんなに憎いのだろうか。
「世界のことが、クランのみんなが、わたしのことが、そんなに憎いですか……?」
「別に……いいわよ。そんなの、どうでもいいことだわ」
じゃあなぜ。
逃げるように捨て鉢にごまかされた答えに、そう叫びたいのをぐっとこらえる。
リルたちは待っていてくれている。ライラを倒すためならここで畳みかけてしまった方がいいに決まっているのに、ライラに会うためにここまで来たセレナの想いを汲んで静観してくれている。
セレナは手を差し出した。
「戻りませんか」
「いまさら?」
「いまさらでも、戻ってきてください。遅いなんてことはありません。訳があるなら話してください。私たちが悪かったのなら、いくらでも償います」
このまま戦えば、きっと勝てるだろう。
セレナにはその確信があった。
純粋に、セレナたちの四人はライラ一人に対して地力で勝っている。コロもヒィーコもリルもセレナも、彼女たちの誰であっても、一対一で死力を尽くせばライラに対して勝算がある。そんなメンバーが四人揃っているのだ。
五十階層の怪物のように、挑戦者に対して圧倒的な優位を誇る巨大な体を持っているわけではない。七十七階層の怪人のように、
ライラは、強い。
だが彼女は、それでも一人の人間だった。あるいは、初見同士だったらまだライラにも勝ち目はあっただろう。彼女の敏捷性と広範囲攻撃、そして雷化による物理攻撃の減衰は強烈な初見殺しだ。しかしここにはセレナもいる。ライラの手の内はほぼ知り尽くしている。対応策も練ってあり、この四人ならば十分に攻略も可能だ。
それはライラも察していたのだろう。
「償う、ね」
ぐしゃりと黒髪をかきむしるのは、ライラの癖だ。
苛立ちを胸の内で収められない時、彼女は短い黒髪をかきむしる癖がある。
「なにを、話せって?」
きっと、時間稼ぎの目的もあったのだろう。
不利な分、わずかでも体力を回復させたいという意図もあるはずだ。不意打ちから始めたライラが投げやりな口調でも会話を始めたのは、打算の部分が大きいに違いない。
それでもセレナは一縷の希望にすがった。
「ライラさんが、世界を裏切ったわけです」
「……世界を裏切るとか、言葉面が大げさよね」
とても疲れたように、ライラがため息を吐く。
「いいじゃない。世界は確かに滅びるわ。でも、化け猫が人類を救ってくれる。わたしがあの猫を殺したら、全人類は滅びちゃうわ。だからわたしはあの猫の味方をしてるの。それじゃあダメ?」
「それが理由ですか?」
「全然関係ないわ」
皮肉っぽく答える態度は、あまりにもライラらしくなかった。
まともに取り合う気がなさそうなライラに、セレナはそれでも粘り強く言い募る。
「そもそもどうやって、あの化け猫が世界を救うというのですか?」
「……あの猫が人類を食うことによって、人類は救われるのよ」
「……つまり、全人類が死ねば救われる、と?」
「まさか。そこまで破滅願望はないわ」
セレナの解釈に、ライラは肩をすくめる。
「あの化け猫の腹の中は、無限概念を内包したひとつの世界を形成しているの。そこに、全人類を収める。世界は墜ちて潰れるけれども、その中にいる人類は救われるのよ」
セレナは眉をひそめる。
セレナは一度だけ化け猫の姿を見たことがある。なるほどあの猫は確かに巨大であるが、全人類を腹に納められるかと言えば否だ。
そこの疑問は捨て置いて、セレナは会話を続ける。
「それで、どうなるんですか?」
「化け猫に食われた人は、夢を見続けることになるわ」
「夢?」
「ええ。化け猫の腹の中で、その生涯で幸福な夢を見続けるの。それがあの猫の世界救済の方法よ。納得した?」
世界の救済方法はあかされた。細かい部分に疑問は残ったが、それでも大まかなことは理解できた。
なるほど確かに人類が救われるというのは真実なのだ。あるいはこれで戦いが終わるかもしれないなどと、ライラも思っていないのだろう。
「そうですか」
終始静観していたコロが、ぽつりとつぶやいた。
「クルクルおじさんが、気に食わないっていうわけです」
力強く言い切ったコロの縦ロールに火がともる。
朱殷の炎に白い炎。縦ロールが白炎の龍となり、鋭いかぎ爪でが宝玉のように朱殷の炎を握る。
「――変・身」
次いで、閃光が弾けた。
「そうっすね。そんなくだらない救済は、願い下げっすよ」
想いを装甲へと変えた可変の戦装束。鎧と槍を身にまとったヒィーコがライラを睨み付ける。
「ノー・リミット・グロウ」
最後にリルの縦ロールが光を帯びた。
「二人の言う通りですわね。幻に溺れるなど、不健全にもほどがありますわ」
ゆっくりと回転する縦ロールが金色の光を放つ。未来を目指す三人は、幻の救済を受け入れることなどないだろう。
残りはセレナ。
「ライラさんは、その猫に救われたいんですね」
「そうよ」
ライラの瞳が問いかけていた。
いつか、同じ仲間を失った同胞に対して、彼女は言葉にせずとも問いかけていた。
過去に戻れるのだと。
仲間と冒険していたあの最高の日々をまた繰り返せるのだと。
お前はどっちを選ぶんだと。
「ライラさん」
ライラはセレナを見る。
「トーハさんは、私の祖父は、そんなことを望みません」
そっか、とライラが小さくつぶやいた。
知ってるし、知ってた。そうも小さくつぶやきを落とした。
「ねえ、セレナ」
初めて、彼女から口を利く。
「いま、楽しい?」
セレナが押し黙った。
残酷な問いだった。
だが、セレナは答える。
「はい」
ああ、とライラは天を仰ぐ。
ぐしゃりと髪をかきむしる。
「私は、楽しくない」
吐き捨てるような言葉だった。
「ねえ、セレナ」
「はい」
「償ってくれるって言ったわよね」
「はい」
「……どうすれば、いいのかな」
「はい?」
予想外のセリフに疑問符をあげる。
「どうしたら許せるのかな。どうしてトーハが死んで、先に進めるのかな。どうしてセレナはっ、クランのみんなはっ、どうして私は」
いらだちが慟哭へと変わる。
「どうして、あいつが死んで、私は平気で笑えるようになっていたの……?」
思いもよらぬ言葉に、セレナが絶句した。
「ライラ、さんが?」
「そうよ。私はさ、気が付けば笑えてたのよ。それをさ、どう許せばいいの? どう償えば、自分で自分を許せるの?」
ライラの口から出た思わぬ言葉にヒィーコが思わず問いかける。
「あんたはクルック・ルーパーとは違うんすか……?」
「うるさい!」
一瞬で激昂したライラがヒィーコを怒鳴りつける。
「あんな頭がおかしいくらいにすごい奴と、一緒にしないでよッ。あんなすごい奴と一緒にされたらっ――……みじめになる」
圧倒的に差がある比較に、顔を歪めたたライラがとうとう涙をこぼす。
彼女は、ただの少女だった。
三百年、己の相棒を色あせず記憶し続け、世界に接して言えぬ傷と共に刻み込んだクルック・ルーパーとは違う。彼女は、そんなすごいやつではなかったのだ。
三百年間友の偉大さを証明し続けた悪党と比べ、相棒の記憶を薄れさせてしまった己のみじめさに、少女は涙する。
「忘れないって、薄れないって思ったのに、感情が薄れて記憶を忘れていっちゃうのよ」
彼女は時間に記憶を忘却してしまう、あまりにも普通の少女だったのだ。
「写真も、録音も、動画も残せないこの世界で……記憶しか、残せるものがないのに、それでも私は、あいつを忘れているのよ」
流れる涙を掌で不器用に拭いながら、ライラは自分の心を明かしていく。
「いま戻ったとしてもさ、恥を忍んでごめんなさいしてクランに戻ったとしてさ、百歩譲ってそれはいいよ。化け猫の力を借りないで世界を救えたとしてさ、万事が万事ハッピーエンドに終わったとしてさ、でもさ、だから何なのよ」
うじうじとまとまりのない言葉はどこまでも後ろ向きだ。
「あいつは、死んじゃったのよ。なのに私はそのまま笑って生きていくの? 悲しい気持ちが悲しかったなんて言葉になって、痛かった傷口がかゆいだけの傷跡になって、大好きだったトーハへの想いがトーハがいたっていう情報でしかなくなるの? ねえ。それに満足しろって、セレナはそういうの?」
悲痛な訴えに、セレナは説得の言葉に詰まる。
つまるところ、セレナの説得の内容はライラの言うとおりだった。大人の知った正論で、残酷かもしれないが、過去に居続けるのは不健全だと諭していたのだ。
それは正しい。
でもライラはまだ、二十歳にもなっていない少女だった。
初めて失った仲間がトーハで、その喪失が劇的だったからこそ許せない。
「そんなの、嫌だ」
だから彼女は否定する。
親友を忘れていく世界を許せなかったクルック・ルーパーとは対照的に、相棒を忘れていく自分こそ、ライラ・トーハは許せなかった。
だからこそ、彼女は過去にとどまるために、いまを見ることを止めた。聞くことを止めた。覚えた先から過去をこぼしてしまうというのならば、いまを見ざる聞かざるとした。
「それに満足しようとする自分が、嫌いだ。そんな私なんて絶対に許せない。そんな私が許されたいって償うことなんてしたくない」
そうして過去にとどまろうとして、それでも押し寄せてくる現在と未来に押し流される。
「会いたいのよ……」
恋をした少女は、失った想いの先に泣く。
「もう一度だけ、あいつに、会いたいよぉ」
届かないはずの想いだった。死んだ人とは二度と出会えない。あるいはライラは、あと数年経てば自然と相棒の死を受け入れて普通に生きることができたのかもしれない。いいや、普通に生きることができたのだろう。彼女はよくも悪くも普通で、どちらかと言えば善良な少女だった。
そこに、送り先があると告げた悪党がいた。偽りとはいえ届け先をつくれる猫がいた。
英雄と呼ばれた女傑とは思えないほど弱くて情けない姿に、セレナもリルたちも言葉を失う。その四人を涙を散らした瞳で、ライラは強く睨みつける。
「会えるんだ」
雷を鋼鉄に変え、雷霆を掴む。
「だから邪魔されてたまるかッ」
セレナは本当の意味でライラが化け猫の犬に成り下がった理由を知る。
彼女は、それが幻であれ、かつての相棒に会うためだけに化け猫の犬となったのだ。
本当にそれだけなのだ。
「わたしはもう一度、あいつに会って笑うんだ!」
ライラ・トーハは、たったそれだけを理由に世界を敵に回せる、一途に恋した乙女だった。




