第百十話
どおん、という何かが爆発するような音が聞こえた気がした。
迷宮の百層。ライラ・トーハは百層の闇の中で、眠るようにうずくまっていたライラは、そんな幻聴を聞いて身じろぎをした。
ここは迷宮の最下層。セフィロトシステムの最終到達地点。個人の進化を促しそれに応えたもののみがたどり着ける場所である。それ以外のものが訪れるはずのない場所はひたすら孤独で、物音ひとつしない静寂が支配している。爆発音など聞こえるはずがない。しいて言うのならばこの世界を覆う天幕に強烈な衝撃を与えられれば世界を支える軸である迷宮の底まで響いてくるかもしれないが、いまの人類にそんな技術力はないはずだ。
聞き間違えか、夢の中での出来事か。ライラはそう判断して、また意識を鎮める。
ライラは、かつて一度だけここに正規の手段で到達した。
そして、仲間が死んだ。
ライラの知識ならば、魔王ルシファリリスがいるはずの百層。迷宮はその名の通り宮殿である。その最下層には魔物の王である女王が座しているはずだった。
だがライラとトーハが初めて訪れた時、そこは空だった。
なにもない物悲しい百層。それは、七十七階層にルシファリリスの分体であるリリスがいないことで、うすうす察していたことでもあった。
ライラが知っている知識との齟齬。それは、それまででもいくらでもあった。だからこそライラはそのことに関しては深く考えずに、またかと思うだけだった。
本来ならば、深く考えて考察するべきだった。ライラはこの迷宮の存在意義を知らなかった。百層の向こうになにがあるか知らなかった。この百層の先に続く扉があることも、そこが世界の外に続いているということも、そして、世界の外にあんな化け猫がいるということも。
最善を尽くせば、あの時の結末は変えられたのだろうかと今でも考える。
百層の底、王冠の間。そこにある先へと続く扉を見つけ、トーハは先に進もうと手をかけ、次の瞬間、化け猫の爪に貫かれた。
トーハがその時に死んで以来、ライラは九十九階層の扉を自力で開けたことはない。幾度となく迷宮に挑み、そこにいるはずの化け猫を殺してやろうと九十九階層の扉をたたき続けたが、ぴくりとも動かなかった。
九十九階層の終着点にある扉は、怒りや恨みでは開かないのだ。
いまのライラは、百層の管理者としてここにいるだけである。
この世界から飛び出す扉が後ろには控えている。その先には化け猫が待ち構えているのだろう。この世界が墜ちる時を、いまかいまかと待ち構えているのだ。
ライラは、その扉に目もくれていなかった。
その扉を開けることは化け猫が許さないだろうが、そもそもライラは世界の外に出る気など微塵もない。この世界の外にある無限に続く宇宙などには欠片も興味はなかった。かといって、果実の中に過ぎないこの世界にも彼女は興味がなかった。
たった一人きりの闇の中で、彼女は孤独にまどろんでいた。
思い出すのは、過去の思い出だ。
零層の受付でトーハと初めて出会ってさっそくケンカをした時のこと。二十階層を超えた時に出会った桜島列島出身の侍がトーハと意気投合して困らされた時のこと。四十四階層の手前で冒険者狩りのようなことをしていた少女と戦って友達になったこと。その祖父である偏屈ジジイが、トーハと相性が悪くてはケンカして、セレナと一緒に仲裁にてんてこ舞いになっていたこと。
泡沫のように楽しかった思い出が浮かんでははじけていく。
なんで弾けてしまうのだろうか。夢うつつの意識で、掴んでは弾ける記憶に物寂しい気持ちになる。
こんなにも愛おしいものをどうして留めておけないのだろうか。あんなにも素晴らしい時間を、どうして閉じ込めることができないのだろうか。
大切なものがいくつもたくさんあったはずなのに、残るのは簡単な感情だけだ。
過去が欲しかった。
未来などいらない。現在ですら必要ではない。時間よとまれ、などとライラは決して言いたくない。そうつぶやいて悪魔に魂を引き渡した老人の気持ちが、いまのライラには決して理解できない。あまりにも大事なものを失ってしまったからには、今と未来に満足などできるはずがない。むしろ今と未来を売り払ってでも、彼女は過去が欲しかった。
だからライラは墜ちた。
怨敵に、相棒を殺した化け猫に魂を明け渡しても、それでも願いをかなえてくれるというのなら是非はない。ライラをここに誘った狂人の言う通り、あの化け猫はライラの――あるいは、全人類の願いをかなえる手段を持っていた。
あの男、と連想して思い出す。
決して多くのことを話したわけではない。一戦だけまじえ、そこから百層の管理者になるまでに少しだけ言葉を交わしただけの間柄だ。
歴史に傷を刻んだ大悪党。強靭にして不屈、それでいて狂気を撒き散らしていた怪人。化け猫の救いがないと知って、むしろせいせいすると言い切った男。
彼は一つだけ、ライラのことを勘違いしていた。
「あんな奴と、一緒にされたくないわね……」
夢に浸ったまま、ライラは暗闇でぼそりとつぶやき、膝を抱える。
クルック・ルーパーはライラを自分と同類であるかのように扱ったが、それはない。ライラと彼では、決定的に違うところがある。だからライラにとって、あいつと一緒くたにされるのなんて冗談ではなかった。
不意に百層に灯りが灯った。
九十九階層の扉を開いたものがいるのだ。夢と思案の狭間に揺れていたライラは、パチリと目を開けた。
「……来るのね」
百層の明かりがともったということは、九十九階層の終着点にある扉が開いたということと同義だ。零層、王国の間より、百層の王冠の間までの道のりを踏破せしめた英傑が向かってきているのだ。
九十九階層にある、先へと進もうとする意志を持つ者にのみ開く扉。その扉を開き、四人の少女が百層に向かってくるのを百層の管理者となったライラは感じていた。さらには、そのうちの一人が旧知の少女であることに気が付く。
「放っておいてくれればいいのに……」
どうせ世界は墜ちて滅び、人類は化け猫に救われるのだ。
ならばその救済に身を任せることこそ唯一最善。静かに生きていればいいものを、どうしてそれができないのだろうか。
前に進もうと響く足音が、無性に癪だった。
いつかのライラもどこまでも行けると思っていた。最初はトーハと競い合い、そのうちに共に歩むのが当然になって、いつの間にかあいつのためにと進み続けた。
その原動力を失った。
だから、もういいのだ。
大切なものを失って、どうして先に進める。失った怒りで開かぬ扉を叩いていたが、そんな無意味な行為も終わった。
トーハが死んでからしばらくして、ライラは新しいものを自分の中に入れるのを拒んでいた。過去のままの自分でいるために、必要最低限のこと以外は記憶に留めなくなった。
未来に進もうという意思がわずらわしい。いまに何の疑いもない姿勢が鬱陶しい。過去に未練がない考えがたまらなく嫌だ。 胸の内に、果てしない虚無がある。
雷の熱でも焼くことがかなわず、稲光でも照らすことが敵わない深い深い虚無はライラのすべてを飲み込もうとしていた。
「バカみたいだな……」
虚しくつぶやき、ライラは魔法を行使する。
いつか、相棒に届けと祈った雷の魔法。
その届け先を失ってしまった。もはや自分の魔法は無為になった。
だからこそ、何もかもすべてを焼き尽くすためにライラは雷を溜めた。
***
世界の次元を貫いて支える軸である迷宮。
偉大なる宇宙樹の成す世界の中で、個人を進化させるために存在するセフィロトシステム。
迷宮とは宮殿だ。同時に、魔物が外へと出ないようにシステムされた牢獄でもある。ただ超越者を生むためだけに実ったこの世界は、そのためにすべてが設定されていた。
その最奥には、魔物の女王である魔王ルシファリリスが座していた。三百年の昔に外来種である化け猫に滅ばされて以来、空座になっていた席には一人の少女が座るようになった。
その終着点にある百層に続く階段をおりる足音が響いていた。
「やっと、たどり着きましたわね」
感慨深く呟いたのは、豪奢な金髪を豪華に五本の縦ロールにしている少女だ。切れ長につり上がった強気そうな瞳を、今ばかりはしみじみと細めている。
「そうですね、リル様! 長かったですけど、迷宮もこれでお終いなんですね」
リルの感傷に真っ先に答えたのは燃えるような赤い髪を一本にくくり、くるくると巻いて縦ロールにしている少女だ。こんな時でも活発さを失わず、近づいてくる終着点を見ても足を緩めない。
「本当に百層の果てにつくんすね。リル姉やコロっちと会ったときは、こんなところまでこられるだなんて夢にも思ってなかったっす」
穏やかに微笑んで偉業の達成を噛みしめるのは、褐色銀髪の少女だ。リルやコロに出会わなければここに来れなかったと言外に感謝の念を伝える。
「謙遜することはありません、ヒィーコさん。あなたの才覚も心意気もどちらだってリルドールさんにもコロネルさんにも劣るものではありません」
最後に応じたのは、怜悧な美貌をたたえる女性だ。両手にミスリルの輝きを持つ籠手を填めている彼女は、唯一ここを訪れるのが二度目になる。一度百層についたことがあるセレナの経験があるからこそ、リルたちはライラの記録を塗り替えるほどの速度でここまでこれたのである。
リル、コロ、ヒィーコ、そしてセレナの四人が、とうとう百層へとたどり着こうとしていた。
「いろいろあったすよね、七十七階層からここに来るまで」
「そうですわね。特に九十階層でセレナがフィールドボスをサンドバックにし始めた時はどうしようかと思いましたわ」
「ああ! あれはすごかったですよね!」
「いえ、その、あ、あれは腕慣らしに丁度良かったんです……」
「あっはは。フィールドボス相手に腕慣らしっていうのはさすがとしか言いようがないっすね。あと印象的だったのは、やっぱ九十六階層っすよね」
ああ、と全員が納得し回想する。
リルたちをして苦戦した九十六階層。
そこでリルたちは幾度もの撤退と長期の足止めを余儀なくされた。
九十六階層フィールドボス、不死鳥。
素早い、しぶとい、弱いとまさしくエイスの要素を詰め込んだかのような脅威の魔物である。驚くべきことに、逃げるという一点に置いて、現時点のエイスを上回る能力を有していた。相手の敵意に反応して、ひたすら逃げる。素早い飛翔だけではなく逃げる途中で分裂し、しかも再生するというエイスにはない能力までついていた。しかも打倒して塵にしても小一時間もすれば復活するのである。そんな不死鳥が広大なフィールドに数匹飛び交っていたのだからやってられないとしか言いようがなかった。
無視できればそれでよかったのだが、九十六階層はフィールドボスを倒さないと開かない扉が各所にあったためそれもできない。不死鳥と扉の連動性がどうなってるか確認して、倒す順番を把握しタイムアタックに挑まなければならなかったのだ。
幾度とない撤退を余儀なくされた挙句に地上で「エイス討伐会議」なるものを開催してむやみやたらと繊細な割には図太い精神をしている少女を怯えさせたりもしていた。そのうちエイスも分裂して自己再生して火葬した後に灰から復活するのだろうと満場一致の結論が出るくらいに、不死鳥とそれに連動したギミックは攻略困難な難敵だったのだ。
さすがは深層域というべきだろう。リルたちといえども苦戦はしたものの、それでも七十七階層を超えてから半年ほどで九十九階層にたどり着いていた。
「でも、それらも乗り越えましたわ」
「ええ。百層に、ライラさんの待つところに、やっとこれました」
世界を裏切った英雄、ライラ・トーハ。セレナが百層を目指していたのは、彼女と対話をするためだ。
「ライラさんは、やはりトーハさんを忘れた世界を許せなかったんでしょうか」
「そうなのでしょうね、おそらくは」
「クルクルおじさんとおんなじ理由ってことですか。手ごわそうです!」
クルック・ルーパーとの会話の端々から、彼女たちはライラが世界を裏切って百層の管理者となった理由をそう推察していた。
「英雄にしろ悪党にしろ、偉人ってのはどーにも、めんどくさいやつが多いっすね」
「そうですわね。わたくしのように、余裕をもって他者に接するようなことができる者がどうして少ないのかわかりませんわ」
「めんどくさい最筆頭がなにいってるんすか?」
「そうですね。ライラさんやトーハさんよりも世話が焼けますよ、リルドールさんは」
「えっと……でも、わたしはそんなリル様が大好きです!」
「あなたたち!?」
仲間からの評価に心外という顔をするリルだが、昔とは比べ物にならないほど成長したリルでも、完全無欠とはいいがたいのがリルだ。
そんな風に和やかに会話をしながら集中力を高めていく。
五十階層主も七十七階層主も、まずは対話から始まった。争いは不可避と知りながらも、どちらとも互いの意思を確認し合ってから闘争を開始した。それに今回は、セレナというライラの旧知の人間がいる。
だからリルたちにも油断しているところはあった。少なからず、何らかの言葉を交わすだろうという思い込みがあったのだ。
九十九階層の階段を下り、百層の入り口が目に入った瞬間、紫電の雷光が視界を満たした。
「消えろ」
語り合う言葉を捨てたライラ・トーハは、百層にたどり着く手前の四人へと、特大の雷をうち放った。




