第百六話
ウサギは貴重な食料だ。
山のにおいに包まれて、コロはじっと身をひそめていた。
コロの視線の先には穴を掘っているウサギがいる。なぜ穴を掘っているかは知らない。巣穴をつくっているのかただの気まぐれか二本の足でせっせと掘っている。
お肉は好きだ。だからコロは息をひそめる。そこにいるのを悟らせないのではない。相手に意識されないようにするのだ。
ウサギが動き出そうとしたその瞬間を狙って、コロは腰を浮かす。
ぴくりとウサギの耳が動いた。察知された。でも、行動を変換するのはどうしても一瞬遅れる。コロの動きの方が早い。
ちょっと前にもらった剣をスパンとふるって、首をはねる。
「うまくいきました!」
教わった通りに狩りが上手くいったコロは、得意満面で快哉をあげた。
山小屋に戻ると、熊がイノシシを丸焼きにしていた。
おいしそうなにおいが漂っていたからもしやとは思っていたのだが、案の定だ。熊と見まがうほどの体格をしているおっさんが、イノシシを豪快に丸焼きにしていた。
なぜ、とコロは愕然とする。
今日はコロが狩りをして、クルクルは山小屋でその成果を待っているはずだったのだ。それがどうしてあんな巨大な獲物をクルクルが先に調理しているのだ。
「クルクルおじさん……狩りは今日わたしって! そう言ったです!」
「しかたねえだろ。向こうから来たんだよ」
コロのつたない訴えに、クルクルは事もなさげに応える。
どうやら身の程知らずのイノシシが山小屋にいたクルクルを襲ったらしい。よりにもよってクルクルを襲おうなどと野生の危機察知能力が欠如しているとしか思えないが、コロも昔に似たようなことをしたことがある。
コロは自分が手に持った首なしのウサギを見る。獲物の成果の差は歴然だ。見ればわかる獲物の重量差に、コロは唇をかむ。
豪快な調理をしていたクルクルが、コロがぶら下げている獲物に目を止めた。
「お、なんだなんだコロ坊。ちっちゃい獲物だな」
「うぅ……うー!」
「はっはっはは!」
バカにされたのが悔しくて地団太を踏むも、言い返せない。いつもコロの弱さをからかってくるおじさんを今日こそぎゃふんと言わせてやろうと思ったのに、まさかの大敗だ。
クルクルはそんなコロをひとしきりからかった後に、ひょいとコロの手からウサギをかっさらう。
「まあ、でもイノシシよりウサギの方がうめえからな。無駄じゃぁねえさ」
「そうなんです?」
「ウサギは肉が柔らかいし、クセもねえからな」
「むだじゃ、ないです?」
「おお。よくやったぜ、コロ坊。お手柄だ」
「……えへへ」
おっきな手で、がしがしと乱暴に頭を撫でてくる。
「久しぶりに兎汁でもつくるかねぇ。あれは結構うまいしな」
「うさぎじる、です?」
「おお、そうだ。つくりかた教えてやるよ。骨が邪魔で肉は食いづらいが、いい出汁でるんだよ」
「へー?」
クルクルは手際よくウサギを解体し、その手順を逐一コロに説明する。コロはふんふんと頷きながら、
「なあ、コロ坊」
「なんですか、クルクルおじさん」
「お前は、強くなりたいか?」
ことことと煮込みの作業に入り、丸焼きにしていたイノシシの肉をつまんでいる最中、そんなことを聞いてきた。
「うーん? なれればいいかなーみたいな感じです」
「戦って勝って、戦って打ち倒して、戦って殺して死体を塵にして積み上げた分だけ強くなれる、クソみたいなシステムがこの世界にはあるんだよ」
「ぜんぜんわかんないです!」
「別に難しいことは言ってねえよ」
元気よく無理解を宣言するコロにクルクルは苦笑する。
「いいから、言葉だけでも覚えておけよ。人はレベルで進化するんじゃねえ。いつだって人間っていうのは、二本の足で進歩して、たった一つの思いで進化するんだ」
「しんか?」
「だからお前は強くなれ。くだらねえシステムに囚われるなよ。上がっていくレベルなんてクソだ。見える数字なんてカスみたいなもんだ。お前自身が強くなって、はじめて強くなれるんだ」
その時のコロではさっぱり理解できなかったけど、いまでは彼の言うとおりだと理解できる。
ただその時のコロには響かないので、イノシシの肉をあぐあぐしながらうさぎ汁の完成をわくわく待つだけだった。そんなコロを見て、クルクルはもう一度苦笑して完成したうさぎ汁を器に盛る。
「どうだ。うまいか」
「おいしいです!」
おいしかった。
食べたことのないものにきゃっきゃと喜んでいると、不思議な感情が沸き上がってきた。おいしい食事。それを一緒に食べる人がいる。それが組み合わさって沸き上がってくるこの胸の感情はなんだろうか。
その時のコロではわからなかった。自分の胸にある感情が何を求めているものなのか、文字も知らず他のコミュニティも知らないコロではわかりようもなかった。
だがいまのコロは知っていた。
だからコロは、クルクルの袖をつかんで引っ張る。
「お――」
その言葉を出すのは、とても勇気が必要だった。
それが否定されるんじゃないか。それを言ってもいいのか。コロはクルクルを見あげて言葉をつっかえさせ、ためらい、それでも口から出す。
「お父、さん」
「ぉ?」
彼は驚いたように振り返って、でもすぐに破顔する。
「はっはっは! 俺はお前の父親じゃねえさ。そんなたいそうなもんであってたまるかよ!」
豪快に笑い飛ばしてそう告げて、彼はやっぱり己の道を一人きりで歩くのだ。
***
「……あ」
リルの髪に包まれて、コロは目を覚ました。
昔の夢。死んでしまった、殺してしまったあの人とのやり取り。かつてをちょこっとだけやり直す夢。それはあっさりと覚めてしまった。
夢の中までひどい人だ。
寝ながら泣いてしまっていたようで、涙でぬれていた頬をぬぐう。
朝日は出ているが、まだ早い時間だ。リルに気が付かれないように、こっそり寝なおそう。そう思っていたのだが、不意に頭を抱きかかえられる。
「リル様……」
「どうしましたの、コロ」
少し前からリルは起きていたらしい。
添い寝でもするかのようにコロの頭を抱きかかえたリルは優しく、髪を手櫛ですくように髪を撫でる。
「夢を、見てました」
リルに対して嘘なんて吐けるわけがなくて、コロは正直に告白する。
「クルクルおじさんの、夢を見てました」
「そうですの」
リルは何も言わない。ただコロを胸に抱いて、あやすように頭を撫でる。
「ねえ、コロ」
「はい、リル様」
「やっぱり、つらいんですの?」
「……はい」
己の手であの人を殺してしまったことは、やっぱり、一生消えない傷となる程度にはつらかった。
「そう、ですの」
呟いたリルが起き上がり、寝台を降りる。寝巻のまま立ち上がって歩き、鏡台前の椅子に腰かけた。
「リル様?」
「コロ。久しぶりに、髪を整えないさい」
リルの魔法が使えるようになってから、セットをすることもなくなった。それをあえてしろという。
リルが言えば、コロは否とは言わない。なぜとも言わずに立ち上がり、リルの後ろに立って髪を梳いた。
「ねえ、コロ。あなたの苦しみは、きっとわたくしにはわかりませんわ」
コロの丁寧な手つきで髪を梳かれながら、リルはつぶやく。
「きっと、そういう思いはヒィーコの方がずっとわかるんでしょうね。わたくしは、とても恵まれた生まれと育ちをしていますもの」
リルは親しい誰かを失うような経験をしていない。しいて言うのならばカニエルの時だが、それにしたって直前まで顔と名前も覚えていなかったような間柄だ。自分の最も親しい人間を自分の手にかけるような経験と比べるべくもない。
「だから、悲しいのなら泣きなさい。思い出に浸りなさい。弱い自分を否定して消し去ることはせずに、それも一緒に巻き込んで、自分の誇りとしなさい。たとえ恥に思えることでも、目を逸らしたくなるほどつらい思い出も、過去と今がつながって泣き出したくなるような気持ちになっても、それはあなた自身なのですわ」
コロは黙ってリルの話を聞きながら、髪を巻いていく。自然とクセのついている巻髪に沿って、くるりくるりと巻いていく。
「あなたはわたくしの妹分で、相棒で、家族ですのよ」
「……えへへ」
嬉しかった。
リルは、いつだってコロの欲しいものくれて、見せてくれる最高の人だ。
嬉しくてこぼれてきたコロの涙を、リルはそっと見ないふりをする。
「さ、次はコロの髪をセットしますわよ」
「はいっ、リル様」
二人の少女は位置を入れ替えて、今度はリルがコロの髪をセットする。
世界は英雄の誕生を祝っている。そして同時に、その英雄が百層に向かうことを願っている。
百層の管理者となった堕ちた英雄ライラ・トーハ。
彼女が第二のクルック・ルーパーになるのではないかと怯えているのだ。その討伐こそを世界は望んでいる。近い将来世界が潰えることなど知らない彼らは、目先の危機に怯えている。
けれども少女たちが迷宮に向かうのは、そんなことが理由ではない。
「……む。久しぶりだと、難しいですわね」
「大丈夫ですよ。ゆっくりやってください!」
こうやって二人そろって縦ロールにした後は、アリシアが作ったご飯を食べ、冒険者ギルドに向かうのだ。冒険に出掛けるために、迷宮に挑むために、過去も未来も現在をも巻き込んで、先へ先へと進む。
二人で一緒ならば絶対にくじけないから、彼女たちは進み続けるのだ。
***
迷宮の百層で、一人の少女が座っていた。
閉ざされた部屋。闇が満ちた空間。そこに溶け込むように一人座る少女は、時折、ばち、ばちりと紫電を弾けさせる。
「……なんでだろう」
明滅する光と闇の中で、彼女はつぶやく。
時折自らが発する電撃で照らされる彼女の表情は無だった。計り知れないほどの虚無に飲まれた少女は、うつろに答えのない疑問を反芻する。
「どうしてかな……」
迷宮を進む英雄たちの力強い足取りを、彼女は感じていた。
百層の管理者となったゆえに悟れる、人間の力強い歩み。七十七階層を超え、深層と呼ばれる域でもなお緩むことのない進行スピード。そう遠くないうちに、世界が堕ちてつぶれるよりも早く彼女たちはここにたどり着くだろう。
彼女は過去を思い出す。自分だって、ああだったはずだ。仲間と一緒に前に、先に、未来に進めると信じ、疑ったことなんて一度もなかった。
だというのに、どうしてだろうか。
「なんだって、私はこんなに弱いのよ……」
強くなりたかった。
強くなりたいと願い、強くなるんだと決意したはずだった。
かつては、隣を歩く相棒のために。それを失ってからも、結局は彼のために強くなりたかった。だからレベルを上げ、組織を維持するために奔走して、想いを磨いて限界を超えてやると息巻いて、でも結局、彼女はそれを裏切った。
支えがなくなった彼女は、そんなものだったのだ。
ただそれでも、彼女は望まずにはいられなかった。祈らずにいられなかった。欲さずにはいられなかったのだ。
「ほんと、バカみたい」
ばちり、ばちりと紫電が弾ける。
世界の果ての地の底で、膝を抱えて自嘲する堕ちた英雄の嘆きを聞く人は、一人としていなかった。




