第百四話 クルクル
「さて、まずは世界の成り立ちから話すかね」
目を覚ましたリルは自分たちの敵であるクルック・ルーパーに戦意のないのを見て取る。
リルとヒィーコはあれだけの戦いの後でなぜと不審に思い警戒する。不思議に思ったのはコロも同じだったが、クルック・ルーパーの状態を見てぎょっとする。
「お、おじさん、おなかに……穴、……」
「気にすんな。ちょっとしたら死んじまうようなかすり傷だ。ああ、でもちょうどいいな。お前らは、こんな死にかけのおっさんを問答無用で倒すなんて、できねえだろうしな」
背中から腹に貫かれた致命傷を都合がいいと軽く笑う。
彼はどっかりと座り込んで倒れこんだままのリルたちと視線を合わせ、胡坐をかく。
「ふう……まあ、俺のことなんてどうでもいいからよく聞けよ、嬢ちゃんたち。時間はないが、できるだけ話すからよ。この世界の成り立ち、迷宮を形成するセフィロトシステムの仕組み。そんでもって、コロ坊のことも……」
傷だらけの彼は、口調に疲れをわずかににじませながらゆっくりと語りだす。
リルたちは戸惑い警戒しながらも、間違いなく死にかけの彼にとどめを刺すようなことができない。自分たちは傷一つなく助けられ、アリシアも無事だ。殺すつもりだったらそんなことはしないだろう。何の意図があるのか疑り深く探る目をしつつも、瀕死の相手に攻撃を加えることはできなかった。
「この迷宮は、セフィロトシステムは……この世界の外に飛び出す人間を作り出すためのシステムだ」
「世界……の外? 飛び出す?」
「ああ……そこからだったな。この世界なんだがよ、言われても実感が湧かねえだろうが本当にちっちぇ世界なんだ。無限という概念すら内包していない、有限の世界だ。広大無辺な無限宇宙に生える宇宙樹が成した果実の一つでしかない」
「なっ」
自分たちが住んでいる広大で果てがないと信じ込んでいた世界。そこを飛び越え広がるスケールが違い過ぎる話に、リルたちは絶句する。
息を呑むリルたちの驚愕を見て、クルック・ルーパーはしてやったりと笑う。
「無限宇宙ってのは有限世界、無限世界にかかわらず幾千幾億の世界を有する概念空間だ。宇宙樹はそこに生えている世界の成す木……その一本で幾百、幾千もの世界を果実として実らせている大樹の名前こそが宇宙樹。そして宇宙樹の果実は、世界を貪り食うような化け物が跳梁跋扈する無限宇宙で生きていける生物、超越者を作るためにある」
「宇宙樹っていうのは、なんのためにその超越者っていうのをつくるんですか……?」
「なんのためでもねえよ。そりゃなんのために雑草が生えて花を咲かせて実をつけるのか聞くようなもんさ。良い悪いじゃあなくそういう仕組みであるだけで、宇宙樹に意思はねえんだ」
難しくなり始めた話。人の知覚では認識できず、概念という知識で捉えるしかないほど大きく広がる真実。それに必死に食らいつくコロの問いに、彼はただの摂理なんだと答える。
「世界各地にある迷宮こそが、人を進化させて超越者を作り出すシステムそのものだ。それこそが、セフィロトシステム。二十階層、四十四階層、五十階層、七十七階層。その試練を通じて無限宇宙を渡れるほど強靭な肉体、不屈の精神の持ち主を作り出して鍛え上げ、百層の扉を超えられるようにつくられている。そのためのセフィロトシステム……それを踏破して世界に出ようとする奴だけが、世界を超えられるんだよ」
ぽつりぽつりと彼が語るのは、この世界のそのものの成り立ちだ。この世界がそもそもどういうものなのか。創世の神話ではなく、ただ事実としてどういうものでありどういう過程でできたのか真実を明かしていく。
「俺は、世界を超えるだなんて無理だった……世界の外なんざ、どうでもいいからな。ただこの世界の中でバカやって生きて、死ねればそれでよかった。面白おかしく人を殺しながら生きて、いつかはイアソンに殺されるんだろうなって思っていたさ。あいつに殺され損ねた挙句こんなに生きちまったが、俺は、それだけの男だ」
自嘲する言葉は、これだけのことをしてみせた男のものとも思えない。
「イアソンが死んだあとにあの化け猫の誘いに乗って俺は不老になったけどな、そこで世界の寿命を聞いて絶望したぜ。世界が滅んじまったら、イアソンの名も潰えちまう」
「この世界があんたのいう通りだったとしたって、なんで世界が滅びるってことになるんすか!?」
「寿命さ。木に生えたリンゴは熟したら落ちるだろ? それと同じさ」
それは、あまりにどうしようもなく、何の善悪も介在していない世界の寿命だった。
「そんな、そんなのはあんまりですわっ。この世界で生きている人はどうなりますの!?」
「どうにもならねえから……だからだよ。お前らは、この迷宮の百層を超えて、世界の外に出ろ」
世界の滅びを聞いたリルの訴えに、彼は一つの答えを提示する。
「俺には無理で、可能だったイアソンとトーハは死んじまった。ライラの嬢ちゃんじゃ無理だ。百層に至ったって聞いて期待したが……あいつは俺に似すぎてる。見てのとおりライラの嬢ちゃんは堕ちた。俺がやったことだが、根が純粋な分、下手すれば俺以上に……でも、お前らならって思って……それだけの、俺のための理由さ」
「なんで、あんたは、あたしたちにそんなことを……」
「最初はコロ坊だけだったんだけどな……お前ら三人なら……きっと世界を超えられるからだ……」
俯くヒィーコに、クルック・ルーパーはうっすらと微笑する。
彼の言葉はむちゃくちゃなようで、彼の行動は実際むちゃくちゃなのに、彼の言動にはなぜか違和感がない。
それが、彼なのだ。
魔法に至る想い。生涯貫き通した、彼の芯なのだ。
「この世から巣立って消えろ。世界が震えたあとに残る奴のことなんざ、考えるなよ。お前たちにはその資格があるんだ……迷うなよ……」
それは、世界の滅びを見過ごせということだ。この世界を見捨てろということだ。もしも彼の言う通り世界がどうしようもなく滅び、そこをリル達だけが脱出したならば、それはあまりにも残酷だ。
リル達が、アリシアを見る。一言も話さない彼女は、抗えない世界の終わりを聞かされて真っ青になっていた。世界の終わりを見過ごして世界の外に出るというのは、つまりアリシアのような無辜の人々を見殺しにするということなのだ。
待ち受ける罪に震えるリルたちへ、クルック・ルーパーは保証する。
「勘違いするな。お前らが悪いわけじゃねえ。ほっといても、この世界は落ちるんだ……コロ坊、お前が生まれたのがその証明だよ」
「わたし、が」
「ああ……この世界は、有限だ。無限概念を内包していない。世界樹に実った果実でしかないこの世界の天には天蓋があって、地平線も果てがある。その果てにはいまだ人類が到達していないが……到達する前に、堕ちる」
それが、歴史すら有限である球形限界世界だ。
決められた終焉。人が天を超え地の果てに至る技術力を得る前に、この世界の歴史は尽きるようになっている。そういう風にできている。
そして、その前に生み出されたのがコロだ。
「だからこそ、セフィロトシステムは、世界が堕ちる直前に必然的に超越者になるような英雄を生み出す……それが、英雄の種。熟して落ちる世界が最後に残す種子だ。お前の暮らしていたあの山小屋な……実は、迷宮の出入り口になってるんだよ」
「え?」
「暖炉に赤ん坊が通れるくれえちっちぇ穴があっただろう? お前は、あそこから生まれたんだ。セフィロトシステムによって生み出されたのが、お前だ」
それがコロ。
セフィロトシステムに生み出された、英雄の運命を背負った少女だ。
自分の人外の生まれを聞いたコロは、衝撃に言葉を失う。そんなコロの様子を見て取って、リルは問い詰める。
「……コロには父親も、母親もいませんの?」
「いねえな。だがそんな些細なことなんて気にするなよ。なんの慰めにならないかもしれねえが……俺よりかは、ちゃんと人間だよ。もし母親が欲しいっていうなら……そうだな。ルシファリリスだ。あいつはセフィロトシステムの生み出した最終試練だ。なら父親は、イアソンか。ははっ。そりゃすげえ才能を持って生まれるわけだ」
そんなもしもの想像が愉快だったのか、彼は心底楽しそうに笑う。
「これで、大体か。それで……まだ、聞きたいことはあるか?」
「あなたの話に何度も出てくる、化け猫というのはなんですの?」
「ああ、奴のことか……あれは怨念の集合体で、この世界の外にいる超越者の一匹だ……。無限宇宙に生きる、世界を貪り食うような規格外れのバケモノどもの同類さ……まあ、俺も無限宇宙については、ほとんど何も知らねえが……」
「世界の外の怨念……? どうしてそんなのが、この世界に来たんすか? 世界を食うって言ったっすけど、まさかそいつはこの世界を食べようとしてるんすか?」
「違うんだな、これがよ……ははっ、聞いて驚け……あの猫は、なんとな。この世界に住む人類すべてを救おうとしているんだよ……」
彼が前置きした通り、それは予想だにしない言葉だった。
「救う? 一体、どうやって? やはり世界を救う方法があるんですの!?」
「ああ、そうだ……あいつは滅ぶ世界の人類を救おうとしているが……俺は奴のやり方が気にくわねえ……」
徐々に会話が噛み合わなくなってきた。言葉も途切れ途切れになってクルック・ルーパーの意識が薄れてきているのがアリシアでも分かる。朦朧とする思考で、だがそれでも伝えるべきを伝えるために彼は舌を回す。
「それに……あいつは百層に至った奴を、百層の扉を開けられる英雄を、迷わず殺す。不意打ちだろうがなんだろうが構わず殺す。だからお前らも気を付けろよ……イアソンは、それで死んじまったんだ。宇宙樹の類縁たるあの化け猫がセフィロトシステムに最も反していることをやらかしてる理由は……たぶん、許せねえからなんだろうな」
言い終えた彼は、一息つく。
その顔には、はっきりと死相が浮かんでいた。最初に比べて口調は弱々しくなって、時折目の焦点が合わなくなっている。
「これで、全部か……さて、ちょっと頼みてえ。もしかしたら酷なことかもしれねえが……俺を、楽にしてくれねえかな」
彼の頼みごとを聞いてリルが、ヒィーコが、アリシアが、その三人よりもほかならないコロが、激しく動揺する。
「俺を殺して、前に進んでいけ……どうせ、このちっぽけな世界は滅びるんだ……だから後ろなんて向くな。胸を張って前に進め。犠牲なんて、お前らが背負う必要は欠片もねえんだ……」
「で、でも百層の猫は救えるんじゃありませんの!? この世界をっ。あなたはそう言いましたわよね!?」
「そうだな……確かに、そうだ。あの猫なら、人類を残らず救った挙句に……全員を幸福にしてみせるだろうよ。ならよ、なおさら気にするな。そこにいるアリシアの嬢ちゃんも、間違いなく幸福になるだろうさ……だから、こんな世界のことは……奴のくだらねえ救済に任せて……お前らは前に行け……俺が、保証してやるよ」
いつかは世界から消えて世界を震わせるリルたちの背中を、彼は言葉でそっと力強く推す。
「世界が堕ちても、お前たちは英雄だ」
悪党の彼は己を殺す英雄を祝福し、そうしてたった一つ、託すのだ。
「だから、一つだけ忘れないでくれよ」
死にゆく前の彼は、最後に一つの望みをリルたちに伝える。
「俺のことなんてどうでもいいからよぉ……この世界にいた……俺よりすごかったイアソンっていう大英雄の名前を、忘れないでくれ」
それが、彼の願いだった。
この世界が滅ぶというのなら、この世界が滅んだ後にも世界の外に生き残る超越者に、己の勝ち星でもってイアソンの名を刻む。それだけのために彼は壮絶な茶番を成し遂げたのだ。
この三百年、この時のためだけに生きて、殺し続けた。
それだけの三百年間だった。
「おい、泣くなよ……」
彼の壮絶な人生の終わりに居合わせて、ボロボロと涙をこぼすコロに苦笑する。
「なあ、嬢ちゃんたち。誰よりも人を殺しまくった俺を殺すからって、だからなんだよって話だろう?」
泣くコロをなだめるためか、リルに、ヒィーコに、アリシアに同意を求める。その言葉に、誰も返答できなかった。
彼は、そうなのだ。
もうすぐにだってこの世界から消え去りたいのだ。こんな世界で生き延びることに、何の意味も見出せなくなってしまったのだ。この世界のくだらなさに呆れ果てていて、自分より長く、そしてこの世界より長く存在してイアソンを覚えてくれる者がいるならば、彼はさっさとこの世界から消え去りたかったに違いない。
それほどに、彼はこの世界に失望していた。
この世界が潰えて、そこから脱出する英雄が生まれると知った時に、彼は自分の最期を決めた。この世界が落ちるなら、この世界より長く生きる人にイアソンの名を覚えてもらうという目的を見出し、彼はこの三百年殺し続けた。
この世界の英雄の種コロへと、親友のすごさを届けるために。
それが、リルに、ヒィーコに、コロにとなった。
世界を超越できる英雄へ、イアソンという名前を決して癒えぬ傷と共に刻み込むためにだけに、彼はこの三百年、世界への失望を抱えて生きてきたのだ。
「俺は人殺しさ。惜しまれる価値なんてねえ。見ただろう、俺がどんだけひどいやつか、見せてやっただろう? そんな俺を殺すんだ。せいせいするだろうよ」
リルも、コロも、ヒィーコも、人を殺したことは、一度もない。
そんな彼女たちのために、クルック・ルーパーは自分を気兼ねなく殺せるように彼女たちの前で罪を重ねて披露した。憎まれ殺されるに足る理由を作った。そのための地上での凶行だった。
彼はどこまでも身勝手だった。
「だから胸を張れ。誇りに思え。イアソンからすら生き延びた俺を殺せば……お前たちは、大陸一の英雄だ」
その言葉に背を押されたかのようにいち早く剣をつかみ取ったのは、コロだった。
「わたしが、やります」
姉の魂ではない。魂の双子の炎ではなく、自分の意思で自分の手を汚すべく、コロは樹の幹に立てかけてあった大剣を手に取る。魔を滅する輝きを持った大剣の刃を掴んで引き抜く。
「おう。コロ坊」
「はい」
「それな、お守り代わりに拝借したイアソンの剣だ。この世界を助けた、この迷宮を踏破した、この俺に勝ち続けたあいつの証明だ。……それ、やるよ。お前なら、あいつも文句は言わねえだろ」
「……はい」
ミスリル合金の剣。かつてイアソンが振るっていた至高の一振りだ。重い、あまりにも重いそれを、コロはしっかり掴む。クルック・ルーパーより譲られた大剣の柄を、ぎゅっと握る。
そこに、もう一つ手が添えられた。
「わたくしも、やりますわ」
「あたしもっす」
さらにもう一つ。リルも、ヒィーコも、コロ一人に罪を背負わせることはしないと手を添える。アリシアは、両手を組んで祈りをささげる姿勢で目を閉じる。リルたちは三人そろって、柄を握る。
毅然としたリルの顔、決然としたヒィーコの表情、ぎゅっと目を閉じ祈るアリシア、そして最後に――くしゃくしゃの泣き顔のコロを見て、クルック・ルーパーは苦笑する。
「ああ、やっぱり俺はひどい奴だよなぁ……」
燃えるような赤毛を、へんてこりんな形に巻いている少女。弱くて、強くて、いまだに泣き虫。そんな彼女をかすむ視界にとらえて笑う。
こんな女の子を最後まで泣かせてしまうのだから、やっぱり彼は、とんでもなくひどい悪党だ。
ぴたりと心臓にあわされた切っ先に、クルック・ルーパーは目を細め、口元を緩める。
「七十七階層主権限【世界映像】」
これから世界に送る映像は、地上へ帰るコロ達へのささやかな贈り物だ。
世界に彼の死にざまを届ける用意を終え、最期に一言。
「……あばよ、コロ坊」
彼の心臓が、貫かれた。
***
肉を焼いていたら、寄ってきた。
果てなく広い山の中、探すのものが見つからず、持ってきた肉を焼いて食べようとしていた時だった。薄汚れた子供が、やたらと機敏に襲いかかってきたのだ。
野生児を制圧してみれば、どうやら肉が食いたかったらしい。餌付けをしてみれば懐かれて、あまつさえその子供が英雄の種だと知った時はこの世界はどうなってんだと呆れたものだ。
その少女がいつか世界に名だたるような英雄になるだなんて思えないほど、彼女は子供だった。うーうー唸ってばっかりで、後先考えないバカな子供で、底抜けに能天気な頭をしていた。
様子を見るだけのつもりが流れで一緒に暮らすようになって、何にも知らないコロに人間が生きる術と常識を伝えて、ふざけては笑いあって、たまにケンカして、怒って泣いてのコロが疲れたら寝かしつけるような生活をしていた。
意外と悪くないそんなある日、朝起きたらコロがびーびー泣いていた。
どうしたんだと聞いてみれば、コロは彼の袖をつかんで、べそをかきながらこう言った。
「おじさんが、どっかに行っちゃう夢を見ました」
馬鹿だな、どこにもいかねえよと笑おうとして愕然とした。自分が何を言おうとしたのか、自分で信じられなかった。まじまじとコロの顔を見つめ、自分の袖を掴む手を感じた。
特別な栄誉を掴むはずのコロの手。それが特別じゃないと触れるようになった自分の心に気が付いて、ああ、潮時だなと判断した。
その日の夜に、彼はコロの元から立ち去った。
そうして戻った七十七階層で、たまに来る冒険者を殺しながら彼は考えた。
三百年、イアソンの名を残すためだけに生きてきた。彼には、人を殺すしか能がなかった。イアソンに勝つためだけに生きてきて、イアソンが死んだあとは、赤の他人を殺すための技術でしかなった。
彼は語りが特別うまいわけでもなければ、人の心に訴えかける文字が起こせるわけでもない。でも己が悪をとどろかせれば、吟遊詩人がイアソンの人となりを語って伝えてくれた。頭のいい奴が歴史書にイアソンの偉大さを残した。想像力豊かな奴がイアソンの人生を書き連ねた。
だから、彼は殺し続けた。ただイアソンの名を残すことだけに固執した。一の史実、十の口伝、百の伝承、千の物語が作られ、イアソンの生涯を伝えてくれる。そのために彼は人を殺したのだ。
だから心なんて、息絶えたと思っていた。呼吸をやめて、イアソンが死んだ時まま固まっていたはずだった。悪を背負って自分の心を殺したのは、他ならない彼自身だった。でも、コロがびーびー泣いて彼の袖を掴んだあの時に動いたのだ。ほんのわずかだったかもしれないが、生きて、息を吸い、吐き出して、動いたのだ。
彼はほんの少しだけ計画の最期を変更することにした。
イアソンの名を残すことは変わらない。ただ英雄の種にイアソンの名を刻もうと思っていたが、最期の一瞬だけは、あの泣き虫のコロ坊のための晴れ舞台を作ってやろうと、自分を殺す瞬間を世界に見せて広めてあいつを英雄にしてやろうと、悪党の彼が唯一できる贈り物はそれだと、そう思った。
心臓を貫く感触。命が絶えて怪人となった体が塵に崩れるのを感じ、彼は笑う。
コロはイアソンの名前を忘れないだろう。そして、今の映像を受け取った世界はコロを英雄としてたたえるはずだ。二人ばかり増えているが、まあ、許容範囲である。
彼は、運命などというものから最も逸脱した一人だ。セフィロトシステムに記された彼の正史とは恐ろしくかけ離れた人生を送った。
しかし、運命とはなんのことを言うのか。決められたレールのことではなく、彼の意思のみで選び取ったその道を運命というのならば、大概がくだらなく、しかし時に素敵だ。
思わぬ発見に、彼は驚く、彼ですらそう思うのだから、案外この世界も、捨てたもんじゃなかったのかもしれない。
塵に変わる意識の最後にほんの少しだけ後悔して、ああ、やっぱり悔いなんてなかったと思いなおす。
彼がどうでもいいと言って見捨てるように忠言した世界だけど、どうだろか。イアソンに負けず劣らずお人よしなあの三人のことだ。
自分では思い付かないような方法で、意外と何とかしちまうんじゃねえのかな。
愉快な期待に微笑んで、彼は塵となった。
彼の崩れた意識の最期のひとかけらは、きっと、希望でできていた。




