第百話
世界各地にある迷宮が一点につながる深淵、七十七階層。
ワンフロアの構造の部屋に、一本だけ木が生えている。その木の根元でアリシアは目を覚ました。
意識を取り戻した彼女の目に入ったのは、見慣れぬ風景だ。自分がどこにいるのか、前後の記憶がさっぱり抜け落ちている。
ここはどこだろうと状況を確認しようとして、身じろぎ。なぜか、うまく起き上がれない。体が自由に動かない現状に、寝起きのぼんやりした頭が苛立ちを感じた時だった。
「ああ、お姫様のお目覚めか」
声の主を目にして、アリシアは体をこわばらせる。寝ぼけていた意識が一気に覚醒し、自分がどうしてこんな不自由な状態にあるのかを思い出す。
両手を縛られて地面に転がされていたアリシアの前には、あぐらをかいている男が一人。大柄な体躯に、何よりも特徴的なのは蓬髪をいくつも撚り合せたようなドレッドヘアー。その姿を見れば彼の名前は嫌でも恐怖とともに口から出る。
「クルック・ルーパー……!」
「はっはっは! その通りだ。怖くてひどい大悪党、クルック・ルーパーだぜ! ……俺も有名になったもんだよな」
アリシアはリルのアパートにいた時に、正面から堂々と押し入った彼に誘拐されたのだ。
怯えと警戒心を出したアリシアに対し、クルック・ルーパーはけらけらと軽く笑う。
「あんまり構えるな。あんたはコロ坊たちをおびき寄せるための餌だ。ライラの嬢ちゃんの調整は三日で終わっちまうからな。その前になんとかしたかったんだ。それだけで、これ以上あんたになんかすることはねえさ」
そんなことを言われたところで、アリシアの警戒は解けない。
何せ相手は伝説の大悪党なのである。この大陸に生まれたのならば、幼子の頃から脅し文句として恐怖の対象として刷り込まれたような存在。まぎれもなく、史上最も人を多く殺した人殺しだ。
「さすがリルドールの嬢ちゃんの使用人って言うべきかね。この状況でも泣きも叫びもしねえ気丈さを崩さないとは、いい女だな」
その警戒心を、クルック・ルーパーは愉快そうに見透かす。
「だがあんまり疑うと、おじさん傷ついちまうぜ? 実を言うと正直、もう帰してもいいくらいなんだが……演出ってもんがあるわな」
趣向を凝らそうというのか、アリシアを拘束する形を変化させる。両腕をつるし上げる形にする。本当に気を使っているのか、見かけよりも体に負担はかかっていない。
そうして、七十七階層に生える樹から伸びる紐に両腕を吊るされる格好になったアリシアを見て、クルック・ルーパーは満足そうに頷く。
「ほれ。これでとらわれのお姫様っぽくなったかね」
「あなたは……」
「ん? どうした」
荒事に身を染めた風貌、あまりにも絶大な風聞とは裏腹に、理性的にふざけたような態度にアリシアは戸惑いを隠せない。何を考えているのかまるで読めない。
なにがこの状況を悪化させるかもわからない中で、アリシアは少し混乱していたのだろう。
「……傷を、治さないのですか?」
「ああ、なんだ。そんなことかよ」
なんともあさっての方向になった問いに、クルック・ルーパーはあっさりと答える。
「切られたら血が出るなんて当たり前だ。傷が一瞬で直らないなんて当然だ。地上で戦争していた時は、そういうもんだったんだよ。地上の戦場を知らねえ奴らは、それをわきまえていねえからいけねえぜ」
それはただ単に、偏屈な年寄りの愚痴にも聞こえる。無意味なプライドで苦痛を受け入れているようにしか思えない。
だがしかし、彼は雑な手当てをしたまま傷を残している。
「確かに迷宮に挑戦していた時は便利な治癒機能に頼ったこともあったが、そういう問題じゃねえ。俺は迷宮に来る奴らを迎え撃つ怪人だ。迷宮の魔物どもは、そして五十階層の怪物どもはどいつだってセフィロトシステムの治癒機能の恩恵を受けてねえ。今はそれに倣ってるだけさ。なにより……俺があいつと戦ったのは、いつだって地上でだったからな」
その回答は、アリシアには理解できないことだらけだった。出てくる単語も語る心構えも、アリシアには馴染みがなさすぎてさっぱり頭に入らない。
ペラペラと口が軽く意味深なことばかり言う彼は、その実、核心的なことは何一つ漏らさない。自分の胸ポケットから冒険者カードを取り出す。そこには、迷宮の通路で魔物を蹴散らすリルたちが映し出されていた。
「もう七十六階層か。コロ坊たちはそろそろ着くな。さすがに早――なんでエイスの嬢ちゃんは首輪嵌めてるんだ?」
どうやら不可解な現象が起こっていたらしい。だがそんなことよりも、アリシアは自分がなぜこの怪人に無傷のまま捕らえられたのかを今のセリフで悟った。
「ウテナの嬢ちゃんが手綱の鎖を握ってるが……趣味か? コロ坊とリルドールの嬢ちゃんの髪形を見た時も思ったが、あの年頃の娘さんどもの考えることはわっからねえなぁ……」
「お嬢様が、ここに来るのですか……?」
「ん? ああ、そういや目を覚ましたばっかりで状況がさっぱりか。そうだぜ。あんた、大切にされてるな。リルドールの嬢ちゃんが使えるもんを全部使って猛進してるぜ」
アリシアは、ぞっと身を凍らせる。
王宮での凶行を流したあの映像。無残とも言えるリル達の敗退をアリシアも見たのだ。
この男に、リルはきっと勝てない。
「や、やめてくださいっ。あなたはもう、お嬢様とは戦って、勝利したのではないのですか!?」
「バカ言うなよ。俺はもっと徹底的にあの三人を負かさなきゃなんねえんだ。心身万全の三人を屠ってこそ意味がある。そのためにあんたをわざわざさらったんだぜ? 今更止めるかよ」
「なぜ……」
さらわれただけの自分に、この男を止める手段などない。さらわれてしまった自分が、来ないでなんて叫ぶ権利はない。無力なのは、弱いというのはどうしようもない罪であり、アリシアの現状はその罰なのだ。
「なぜ、あなたたちは戦うのですか……?」
戦いという場では、どこまでも無力で利用される側でしかない己を自覚し、アリシアは力なく疑問をぶつける。
それは今だけの問いではない。アリシアがずっと抱えていた疑問だった。
どうして戦い、命をかけるのか。
それしか方法がないというなら仕方ない。でも、リルはもう名誉も得て、金銭で不足のある立場ではない。
なのに、なんで。なんのために。どれほどの価値を求めて、彼ら彼女らは戦うのだ。
だって、命をかけて戦うなんて……怖いじゃないか。
「……そうか。あんたは、普通の人間だもんなぁ。命を懸けて戦う意味なんて、分からねえか。そうだよな。平穏に生きるあんたらからすれば、命を懸けて戦うなんてバカバカしいよな」
なにを考えたのか、彼は重く、重く息を吐く。それは、彼が今まで殺してきた数えようもない命の数。自分の全身にまとわりついた重みに耐えかねたように、わずかに視線を落とす。
だが、それは一瞬だけだった。
「なら、見てろ」
真剣な目だった。
「あんたと初対面の俺が話して、理解できるはずもねえ。言葉で説明してわかるもんじゃねえのさ。だから、目を逸らさずに見てろよ」
アリシアに布で猿ぐつわを噛ませたクルック・ルーパーが、その凶相でにやりと笑う。
「あんたのお嬢様の雄姿を、ちゃんと見届けろ。リルドールの嬢ちゃんは……リルドールは、本物だ。見ればきっと、わかるさ」
クルック・ルーパーは踵を返す。
どういうことなのか、問いかけようにも声が出せない。両腕を吊るされた状態では、わずかにもがくことしかできないのだ。
七十七階層の扉が、外から開かれた。入って来たのはリルとコロとヒィーコの三人。拘束されたアリシアを見て、リルの表情が険しくなる。
「よお。よく来たな。約束通りきっちり三人揃ってくれて、おじさんは嬉しいぜ」
「他のメンバーはここにわたくし達が万全の態勢でこれるようにサポートしてもらったまでですわ。手前で引き返させましたわよ。あなた相手に人を増やしても、無意味に犠牲が増えるだけと判断したまでのことですのよ」
「ははっ。そうか。少し残念だな。エイスの嬢ちゃんのあのざまををこの目で見てみたかったんだがよ」
「……黙るっすよ、エロオヤジが」
「はっはっは! いや、あれは普通におかしいだろ。なにがあったんだよ。おじさんに教えてくれると嬉しいぜ?」
軽妙な語り口でクルック・ルーパーはリルたちを歓迎する。
七十七層、深淵の間。
遥かの昔、ここにある樹に絡みついていた蛇。かつての百層の支配者の体の一部、尾を形成していた白蛇が分離した彼女がここの支配者だった。それにとって代わったが彼であり、その結果七十七階層の試練の難度は何倍にも跳ね上がった。
いままで冒険者達がここを通れたのは、運よくクルック・ルーパーが不在だったか、あるいはどうせこの先で行き詰まる程度の冒険者と判断し恣意的に彼が通しただけの事。それ以外は、ことごとく殺された。
そうでなければ、あのライラとトーハとてここを通れたのか知れたものではない。彼は、それほどに隔絶した害悪だった。
その人類の害悪に対し、嫌悪も恐怖もなく一人の少女が一歩前に出る。
「来ました、クルクルおじさん」
コロが決然と、一歩前に出る。
その姿に迷いはない。クルック・ルーパーを悪人と認めて、それでも彼の意思を知るためにここに来た。
「……よお、コロ坊」
「クルクルおじさん。アリシアさんを返してください」
「いいぜ。お前らが来たんだ。帰る時に連れて帰れよ。傷の一つもつけてねえ」
「そうですか」
ちらりとアリシアの姿を確認。彼の言う通り無傷で、口は聞けない状態に縛られているとはいえ憔悴している様子もない。
すぐにクルック・ルーパーに視線を戻す。
「なら、聞かせてください。話してください。わたしは、そのために来ました」
「ああ……そうだな。いい顔をするようになったな。びーびー泣いてばっかのコロ坊がよ。俺も歳をとったわけだ」
「ごまかさないでください。おじさんは、いつもそうやって人を煙にまこうとします」
「別にこれはごまかしじゃねえんだが……そうだな。まずは、三百年前の昔話から語ろうか。今となっちゃ誰も知らないことだ。もしかしたら信じられねえかも知れねえから、俺たちの決着をつける前には語らなきゃいけない話だ。ゆっくり話していくぜ」
言葉を切った彼は、一拍置いて、懐かしそうに目を細める。そして、自分を知るために来たというコロの目を見つめ、告げた。
「俺とイアソンは、ダチだったんだよ」
この三百年の、死屍累々たる悪逆道。
彼は、その始まりの真実を語り始めた。




