第九十七話
ぴぃんと、コインを親指で弾いて上に飛ばす。
下から力を加えられたコインは、重力に逆らってまっすぐ上に。だが引力を引き離すほどの勢いを与えられなかったコインはやがて自重に負けてくるくると回転して落下する。そのコインに対して、タイミングを見計らってもう一度親指ではじく。そうしてまた上にくるくるとコインが回る。
それを何度も何度も繰り返す。ウテナがいるのは『栄光の道』の寮。少し前にその一室に越したウテナは、コインをはじいて暇をつぶしながら、同じ部屋にいる傍らの二人を見ていた。
そこには、我らがリーダーカスミと、ヒィーコがいた。
「ヒィーコちゃん。あんまり落ち込まないで。正直、今回は相手が悪かったっていうのも大きいわよ」
クルック・ルーパーとの死闘の末の敗北。辛くも命は拾ったとはいえ言い訳もきかないほどの負けだ。全身に刻まれた傷こそ治療したものの、ヒィーコの精神にはまだ癒えない瑕疵が残っている。
そうして落ち込んでいるヒィーコを慰めるカスミを横目に、ウテナはぼそりと呟く。
「わたしは、正直あの時のヒィーコはダメダメだったと思う……」
「ちょっとウテナ」
辛口な意見にカスミがにらんでくるが、ウテナはさらりと受け流す。いまのヒィーコを慰めるのはわかるが、それは正しくない。あの時のヒィーコは、間違っていたのだ。
それは、ヒィーコ自身にとっても指摘されるまでもなかったのだろう。
「いや、いいっすよカスミン。ウッちゃんの言う通りだって、自分でもわかってるっす」
確かにクルック・ルーパーの魔法の力もあったのだろう。だが感情に流されて、恨みで力を振るった。あまりにも直情的なそれをあっさりとあしらわれた。自分一人で突っ込んでいったせいで、リル達との連携もロクに取れていない。最悪とは言わないが、冷静に分析すれば悪手でしかなかった。映像で見ていたが、あの時のヒィーコが相手だったのならばウテナでも相手取れて勝利できただろう。
「あの時のあたしは、確かにどうかしてたっす。ダメダメだったすよ」
「ねえ、そんなことより駄目だと思う状況があると思うの」
横から入った声は、完全に黙殺された。
三人のうち誰もその声の主に視線を向けることすらしない。存在しないものと扱われてスルーされ、ヒィーコの反省会が続行される。
「うん……でも、次がある。だからその時に、今回と同じことにならないようにしよう……?」
「わかってるっすよ。あたしは……やっぱり未熟者っす」
「ヒィーコちゃん。落ち込むのはわかるんだけどね、ただもうちょっと他人にも目を向けて欲しいというか、具体的に言うとわたしのこの状態を無視しないで!」
ぴーぴー騒がしい声を一顧だにしないウテナの言葉を肯定するヒィーコの声には、いつもの覇気が欠けている。やはりすぐに復調するほど軽い事態ではないのだ。
ウテナには、ヒィーコの気持ちを理解することはできない。故郷を失ったという傷、そこからの放浪生活の過酷な日々は聞いて想像するしかない。
だが、その全てを乗り越えてきた少女は、やはりウテナ達以上に打たれ強かった。
顔をあげて、なんとか笑顔を見せる。
「カスミン、ウッちゃん。あとで訓練に付き合ってくれないっすか?」
「……ん」
「もちろん、いいわよ」
「なんかいい話みたいにまとまってるけど、その前に言うことあるよね!?」
再三響いた声に、カスミとウテナはようやく叫び声の主へと煩わしそうに視線を向けた。
三人が話していた部屋の片隅。そこには巨大な鳥かごにぶち込まれたうえ、手錠を嵌められ首輪をつけられ、そこから伸びる鎖をカスミに握られているアブノーマルな少女がいた。
「わたしのこの状況は何なのかな!? 探索から帰ってきた次の日に目を覚ましたらいきなりこれって、あんまりだよっ。こんなの絶対おかしいよね!」
シスター服に手錠と首輪をつけているのはエイスだ。というか、ここはそもそもエイスの部屋である。エイスの就寝中にカスミがベッドごと監禁するような鳥かごを造ってエイスを閉じ込めた上で、手錠と首輪を嵌めたのだ。
「これなんなの? わたし、いまだに自分が何でこんなことされてるのか聞いてないんだけど!?」
牢屋にぶち込まれているよりなおアブノーマルな現状がいたくお気に召さないらしく、エイスは鳥かごの柵をガチャガチャさせながら喚いている。ちなみに鳥かごと首輪と手錠のエイス飼育セットはカスミの錬金によるものである。どれも鍵はないので、カスミが錬金を解除しない限りは消えないし、筋力がレベルの割に低いエイスでは破壊不可能なほど丈夫にできている。
エイスの訴えを聞いたウテナは、はんっと鼻で笑った。
「これはこれは『不死鳥』様におかれましては首輪と手錠が、大変よくお似合いで……」
「どーいう意味!?」
どうもこうもそのままの意味である。まるでそれがあるべき姿かのようにエイスに馴染んだファッションだ。さぞかしペットとして高い値が付くことだろうとウテナはせせら笑う。
そして、ヒィーコは気まずそうにエイスにちらりちらりと視線を向ける。
「えっと、ツッコんだら負けだと思ってたんすけど……なにやってるんすか、エイちん。そういう趣味は個人の嗜好っすから別に口出しはしないっすけど……見てると気まずいんで自分の部屋で一人でやってほしいっす」
「言うにことかいて趣味はないと思うよ!?」
割とノーマルな嗜好をしているエイスは最悪の誤解に絶叫する。
「こんな扱いに望んでされているわけないじゃんっ。人間として! 人間としての尊厳を尊重した扱いを要求するよ!」
「ダメよ」
当たり前と言えば当たり前の要求は、しかしカスミによって却下される。カスミがエイスを見つめる瞳は、パーティーメンバーを見るものとは思えないほどに冷ややかだ。
「だって解放したら、あんた逃げるでしょう?」
じとりと湿度の多い声にエイスはうっと息を飲む 。
クルック・ルーパーが事件を起こした時期と、エイスが突然心変わりをして迷宮探索の志願を申し出たタイミング。その二つに因果関係がないと考えるほどカスミは甘くない。不自然なほど頑なに迷宮探索を拒んでいたエイスが、クルック・ルーパーが地上に上がってきたと思しき時期に迷宮探索を訴えてきたのだ。彼女の魔法のことを考えれば、理由は明白である。
「はっきり言うけどね、エイス。私はいま、あんたに対してかなり怒ってるわ。三人があのおっさんに襲われているとき、私達はリルさんの、ヒィーコちゃんの、コロちゃんの助けになれなかったのよ」
「いや、それは――」
「ヒィーコちゃん。フォローはいらないわ」
自らのパーティーの不甲斐なさを自責するカスミに、ヒィーコは彼女達には責任はないと言おうとするも遮られる。あの日のカスミ達は夜に地上に帰って、クランメンバーで改めてリル達を祝おうという予定だったのだ。偶然迷宮の探索をしていたのならば、クルック・ルーパーの事件の時に迷宮の中にいたのは致しかたのないことだとも言える。
だが、エイスがその危機を予感していたというのならば、話は別だ。
「エイス。あんたが逃げることで、私たちが助かることもある。確かにあんたの役どころはそういうもので、そうでなくともあんたの危機察知能力は優秀よ。いつも助けられているわ」
でもね、と言葉を続ける。
「たとえそうであっても、私たちは『無限の灯』の一員なのよ。クランマスターの危機を前にして、わたし達だけがただ背を向けて無責任に逃げるだなんてことは許されないわ。特に仲間の一人がクランマスターの危機を知っていたのに、パーティーリーダーの私がそれを把握してなかったなんて……はっきり言いましょうか。私にとって、ぬぐいがたい恥よ」
「うぅ……でも……本当にはっきりした予感じゃなくて、虫の知らせみたいなおぞけがする感覚なだけで……誰が危ないとか、そういうことは全然わからないから……信じてもらえるかどうかもわからないし、普通に自分達に関係のないことも多いから……言いだせなくて……」
「だからとりあえず逃げようってなるのね。……パーティーリーダーとしてなめられたものね、私も」
「そ、それに……」
情を感じさせないほど冷ややかなカスミの声にびくりと震えて身を縮ませながらもエイスは言葉を続ける。
「リルドールさん達でもどうにもならないようなことがあるなんて、思いもしなかったし……!」
涙をためて声を振り絞ったエイスのセリフに、そも場全員が虚を突かれて沈黙が落ちる。
カスミ達にとって、リルはどんな格上相手にも勝利を続けていたのだ。意識的にせよ無意識的にせよ、リル達ならばどんな困難もなんとかしてくれるという信頼があった。それは、カスミもウテナも同じだった。
しばらくしてカスミは、ふうと息を吐く。
「……エイス。今回の件はあんたの魔法をちゃんと把握してなかった私にも責任はあるから、これ以上は言わないわ。ただ、今度からその感覚があったら私に必ず報告すること。わかった?」
「で、でも――あでっ」
「でも、じゃない……」
リーダー命令に対してうだうだ言うエイスの額に、ウテナはコインをはじいてぶつけて黙らせる。
カスミのパーティーメンバーは全員幼少から同じ街区で育った幼馴染だ。気心は知れている。だからこそ、甘くなってしまったのかもしれないし甘えている部分も多い。エイスの臆病さはみんなが知っているが、それをずっと放置していたのは間違いだった。
「カスミ。その鎖、貸して。しばらく私が持ってる……」
「ん。よろしく」
「え? これ以上は言わないんじゃなかったの?」
エイスの言葉は誰も受け取らない。言葉で責めはしないが、調教は決定事項なのである。
「ちゃんとエサはあげてね」
「大丈夫。しばらくは三食おやつ昼寝付きのペットとして扱うから……」
「私しばらくこのままなの!?」
「場合によっては、降格することも……」
「えぇ!?」
これ以下ってなにとエイスが涙をながさんばかりに叫ぶが決定は覆らない。
「くっ、ふふふ」
三人のやり取りに肩を震わせていたヒィーコは、やがてこらえきれなくなって笑いの波が決壊した。
「ふふっ、ふふふ……あはは!」
あの一敗から暗く落ち込んでいたヒィーコは、ようやく笑顔を取り戻した。その事実に、ウテナはカスミと目を合わせて微笑む。
ヒィーコは笑い涙を指で拭って、親愛なるクランメンバーを見る。
「はあ。本当に、あたしの仲間は面白い人たちばっかりっす」
「まあ、クランマスターがリルさんだからね」
「違いないっすね」
面白い筆頭の名前に、ヒィーコはくすくすと笑いつつ頷く。
「それで、エイちん。嫌な予感ってどんな感覚なんすか?」
「背中がぞわぞわするというか、すごく落ち着かないというか、ここにいちゃいけない気がするというか……えっと、実はいま、すごく嫌な予感がしてました」
おそるおそる、それでも正直に告げたエイスにぴしり、と空気が凍り付く。
実際のところ、鳥かごにぶち込まれていなければエイスは早々に逃げ出していた。それくらいの怖気がさっきまでしていたから、必死に解放を訴えていたというのもある。
「いま? いまって、いま?」
「う、うん……あ、でも、もう大丈夫になってる」
「……ちなみに、今から迷宮に行きたい? 具体的には、七十七階層を目指したい?」
「絶対嫌だよ?」
それを聞いて、カスミは弾かれたように指示を出す。
「確認! テグレとチッカと合流して、すぐにリルさんとコロちゃんのところに行くわよ! あのおっさんがなにかしていた可能性があるわ!」
「おっけー、リーダー……」
「わかったっす、カスミン!」
「そ、それはいいけど、首輪と手錠は外して!? 室内ならぎりぎり……それでもぎりぎりアウトだけど、さすがにこれ付けたまま人目のある外へは――ウテナはどうして本気でこのまま引っ張るの!? やめてよ! これ見られたら変な誤解されるから! ねえ!?」
シスター服に首輪手錠を付けて鎖で引っ張られているエイスの訴えは受け入れられることなく、彼女たちはドタバタと、しかし迅速に動き始めた。




