第九十六話
いいにおいがしたから、寄ってみた。
コロが初めてクルクルに出会ったのは、それだけの理由だ。
人里から離れた山の中。物心ついた頃からそこにいたコロは、いつ覚えたかもしれない人の言葉を使うこともなく、どこで身に着けたかもわからないぼろきれで身を包んでいた。その姿は他の人間が見れば、一匹の獣にしか見えなかっただろう。
事実、幼少のコロは一匹の獣でしかなかった。
広大で豊かな山の中にいる、小さな獣。それでも大型の肉食獣すらいた豊かな山の中で、コロは一度も負けたことがなかった。川で魚をとり、山で果実や小動物を狩り、時に襲ってくる肉食の獣を叩きのめす。山で最も強かったコロは、そんな生活以外の世界はないと思っていた。
彼に出会うその時までは。
「うーっ、うー!」
「はっはっは! なに言ってんだお前は。人の言葉をしゃべれ。丸ハゲの猿かと思ったが、一応人間のガキだろう?」
やたらと愉快そうに幼少のコロを地面に抑えつけてそうのたまったのは、一人のおっさんだ。腰に双刀を吊るし、背中に大剣を背負っている。熊によく似た大きいのが、なんか火を起こしていい匂いを漂わせていた。毛がない熊なんて初めて見たと思いつつも、美味しそうなにおいがするお肉を奪ってやろうと飛びかかったら、あんまりにもあっさりと返り討ちにあったのだ。
「野生児だなぁ。このレベルで野生に還った奴は俺も初めてみるぜ。それにしちゃ、やたら筋が良かったけど……ほれ。これが欲しいんだろう」
「う? う!」
この状況を楽しんでいる声とともに差し出された焼肉の香りはコロの警戒心を消し去るには充分なほどに食欲をそそるものだった。下敷きにされたままの姿勢で、躊躇なく迷わずパクリと口に入れる。
火を通して、簡単な調味料で味付けされた肉。素朴で簡素なものだったが、コロはその時初めて文明を味わった。
もぐもぐごっくんと初めての文明を呑み込んだコロは、ぱぁっと顔を輝かせる。
「おいし!」
「はっはっは! そうかそうか、よかったぜ。ちゃんと……でもねえが、人の言葉も話せるみてえだしな」
「もと! もっと!」
「ほいほい。慌てんなよ。まだまだ焼くからよ。で、お前、名前はなんていうんだ?」
「……う? なま、ころ」
「なまころ? はっはっは! 人のこと言えた義理じゃねえが、変な名前だなぁ!」
「ちがっ。なま、ころ!」
「ん? ああ、名前がコロっていうのか。それなら結構普通……コロ?」
わずかに瞠目した彼は、次いで納得したように頷く。何かに合点した彼は、コロに餌付けを続けながら、しみじみと呟いた。
「ああ、言われてみりゃ、こんなところにガキがいるんだから、そうだよな。そもそも、そいつが目的だったんだから、大当たりなわけだ。なるほどなあ。しっかし、こんなのが、英雄の種とは……」
自分の上に乗ったどこかの誰かが何かをいっていたが、もう一切れひょいと出された肉のほうが重要だ。コロはパクリと肉を平らげ、満面の笑みになる。
「まあ、いいか」
あぐあぐと嬉しそうに肉に食いつくコロに、彼はほんの少し目元を緩ませる。警戒のなくなったコロに、もう拘束の必要もなさそうだと上から退いて肉を焼き、餌付けに集中する。
そうしてコロが満腹になり、初めて不思議そうに彼の顔を見上げる。
「おじさ、なま、は?」
「ん? 俺の名前か? そうだな……」
ようやく肉以外のところに思考がいったコロの問いに、彼はなぜか少し間を空ける。
自分の名前を名乗るだけだというのに不自然に三秒ほど考え込んだ彼は、ニヤリとあくどい笑みを浮かべた。
「俺は、クルクルだ」
彼は、そう名乗ったのだった。
「……あ」
過去の夢から目を覚ましたコロは一瞬だけ今がいつか時系列の飛躍に混乱して、すぐに現在の状況を思い出し、ぽろりと一筋の涙を流した。
いつかの夢。他人聞けば笑うか胡散臭いと思うしかないコロとクルクルの出会い。コロにとって、それは大事な思い出の一つだった。
「……」
無言のまま、ぐいっと乱暴に涙をこする。
今日はクルック・ルーパーがライラ・トーハを言葉で籠絡したその翌日だ。王都はその衝撃的な事実に揺れているが、コロはそんなこととは関係なく失調していた。
目を覚ましたコロは毛布から出ず、ベッドの上で膝を抱えて顔をうずめた。いつも一緒のベッドにいるリルは、今日はいない。朝早くから訓練のためにとギルドへ出かけていた。コロはそれについて行かず、一人でベッドに引きこもる選択をしていた。
いつもは明るく能天気とすら言える彼女にしては珍しい状態だ。リルを頼って甘えるようなことすら全くしていない。
「わかんないんです。なんでですか……」
ポツリと漏れ出た言葉こそが、混迷してぐちゃぐちゃになったコロの心情をそのまま示している。
わからない。
コロには、わからない。クルクルのことが、クルック・ルーパーのことがまったく理解できなくなっていた。
コロにとって、彼は自分の育て親のようなものだったのだ。時に厳しくて、当たり前のように無茶をいう人で、確かにひどいこともする人だったけれども、コロはクルクルのことを悪人だったなんて思ったことはなかった。
なのに、彼はあんなことをした。
そもそも、親って何だったのだろう。自分には親なんていたことがなかったのに、一方的に思い込んで懐いていただけで、彼にとってはコロなんていつ壊れても構わない玩具のようなものでしかなかったのだろうか。
ぐるぐるとめぐる思考に生産性はない。
いつかのリルのように毛布にくるまっていたコロは、やがてもそもそとベッドから這い出る。水でも飲もう。顔を洗おう。そう思って、燃えるような赤毛をいつものようの縦ロールにすることすらせずにキッチンに移動したコロは、信じられないものを目にした。
「よう、コロ坊」
リルの自宅の中だというのに、クルクルが、クルック・ルーパーが当たり前の顔をしてそこにいた。
「え? ……ええ!?」
「ん? どうしたよ。もうちゃんと人の言葉はしゃべれるようになっただろ? 『う』から『え』になったわけでもないはずだぜ」
クルクルは冗談を口にしてコロの驚きを受け流す。押し入りだというのに、なぜか堂々と備え付けてあった救急セットで傷口にガーゼを当て包帯を巻いているほどの勝手ぶりだ。
だがそんなことよりも重要なことが一つ。
彼は、気絶したアリシアを肩に担いでいた。
「リルドールの嬢ちゃんはいないんだな。何してんだ?」
「り、リル様は訓練室で訓練を……」
「ああ、なるほど。意外に素直なんだよな、リルドールの嬢ちゃんは。ヒィーコの嬢ちゃんもへこたれても折れるほど柔でもないだろうしなぁ」
「い、いや、そんなことよりも! クルクル、おじさんは、な、なんでここに!?」
「ん? 管理者の権限で百層の手前までは行けるからな。すぐに戻ってこれるんだよ。警備が甘いよな。俺が入っていった東の迷宮ばっかり警戒しやがって、他のところはざるだったからな。あっさり抜けられたぜ。それで、ひと段落ついたから人攫いでもしようかと思ってここに来たんだよ」
問いに答えているようで、コロの知りたいことはなに一つ答えていない。結果、頓珍漢な会話になる。混乱状態に陥ったコロは、ぷすりと頭から煙を吹きそうになるが、なんとか持ち直した。
「ち、違います! そういうことじゃなくて!」
「ん? なにが違うんだ。ああ、包帯とかもらってくぞ。最近ケガが多くて、地味に困ってたんだよな。ありがてえぜ」
「いやっ、そういうことでもなくて! どうしてあんなことを……いまだって、アリシアさんをっ。そうです、離してください! アリシアさんに何をするつもりですか!?」
「人質だよ。ちゃんと取り返しに来いよ? まさか俺が、脅しだけで終わるような男だとは思ってないだろう?」
狼狽するコロに対し、飄々としたものだ。凄むようなことはせず、しかし悪党にふさわしくまぎれもない真実味を帯びたセリフを紡ぐ。
傷口の処置を終えた彼は、ぐったりとしたアリシアを担ぎ直す。
「この嬢ちゃんを返してほしかったら、七十七階層に来い。もちろん、リルドールとヒィーコも一緒にだ。そうしたら、ちゃんと無事に返してやるよ。……まあ、お前らの無事は保証しないけどな」
あまりに身勝手な要求に、コロは呆然とする。
そもそも行ってどうなる。勝てる戦いだとは、コロにはとても思えなかった。実際、勝負はついているといってもよい。不意の遭遇戦だったとはいえ、コロ達は圧倒されて負けたのだ。クルクルとコロ達との間にある格差が昨日今日で埋まるはずがない。
「なんのために、戦うんですか……? なんでわたし達が、クルクルおじさんと戦わなきゃいけないんですか!?」
「甘いなぁ、コロ坊。お前がそんな甘ちゃんだから理由を作ってやってるんじゃねえか。それに、事を始めたからにはもう、お前らをゆっくり待っているような時間がないんだ」
包帯を巻き終えたクルック・ルーパーが、アリシアを肩に担いだまま立ち上がる。人一人を背負っているというハンデを前にしても、コロは飛びかかれなかった。かつてのような無知はない。圧倒的な実力差を悟って、どうしても勝てないということがわかってしまったのだ。
「どうして……どうしてクルクルおじさんは、わたし達と戦いたいんですか!? わけがわかりませんっ。なんでわたし達なんですか!?」
「お前ら三人が七十七階層に来たら、そこで教えてやるよ」
声を大にするコロをたしなめるように、クルクルは静かに告げる。
「俺がどうして人類の害悪になったのか。この世界の人類どもが、俺にとってどれだけ罪深いのか。どうしてお前らを狙ってこんな事をしたのか。それと……お前の、生まれについても、聞かせてやるよ」
最後の項目を聞いて、コロははっとして顔を上げる。
「わたしの、生まれ……」
「ああ、そうだ。人が使命を全うするためには、まず己が何者かしらなきゃならねえ。それに、生まれっていうのは意外と重要なものだからな。知っておいて損はないはずだし、お前自身もそろそろ気になり始めているだろう?」
「知ってるんですか? 前に、知らないって言ってました!」
「知ってるぜ。知らないって言ったのは、大嘘だ」
やはり彼は悪びれない。
あっさりと自分の発言を翻して、アリシアを肩に担いだまま窓枠に身を乗り出す。
「いいか。ちゃんと来いよ。三日以内だ。それまでに来い。俺はひでえ奴だから、ちゃんと来なきゃ、この嬢ちゃんがどうなるか保証はしないぜ!」
最期に念押しを一つして、人攫いをしたクルック・ルーパーは窓から飛び降りて姿を消す。
何もわからないまま、コロは茫然とそれを見送るしかなかった。




