噂話・8
迷宮の結合地点、深淵の間、七十七階層。
九十九階層でライラ・トーハが百層に迎えられたのを見送ったクルック・ルーパーは己の管理領域である七十七階層に舞い戻ってきていた。
「長かったなぁ……」
独り言を呟く。七十七階層に生える木の幹にもたれかかって座る彼の傍らには、彼が背負っていた大剣があった。
「三百年。三百年だぜ。ははっ。俺も長生きしたもんだ」
リル達を蹴散らし、セレナを貫き、ライラをたぶらかしてからさほど時間は経っていない。管理者権限で迷宮の好きな場所にテレポートできる彼にとって、百層に案内することは時間を要するものではないのだ。
ただ、そんな短い間ですら、クルック・ルーパーは休憩を許されない。
「俺もこの三百年で、いくら殺したかねぇ。おかげさまで、昔と比べても敵が多い多い」
七十七階層に散らばるのは桜列島の戦士、侍だ。
クルック・ルーパーの所業と所在を知って真っ先に七十七階層に来たのはそいつらだった。おそらくは先代当主の下手人を知っての敵討ち。今代当主でありかつて『雷討』の初期メンバーでもあったカネサダの弟はいないかったが、相当の精鋭を選りすぐったようで、さすがのクルック・ルーパーも無傷とはいかなかった。
さすがは個人としての強者を尊ぶお国柄か。クルック・ルーパーの胸に新しく刻まれた刀傷は、死んだ彼らの遺した勲章だ。
「まったく……桜列島の奴らは本当に戦狂いが多くて困るぜ」
まだ薄く出血する傷に、口を歪める。
てっきりリル達の国の騎士どもか『雷討』の精鋭が来るかと思ったのだが、意外と動きが鈍い。予想以上に混乱しているのだろう。今のところ七十七階層に降りて来たのは、桜列島の侍達だけだった。
だが、このまま時間を無為に費やせば挑戦者いくらでも増えるだろう。七十七階層までつながっている迷宮は世界に七つしかないが、そこに挑んでいるのはどいつもこいつも戦いに取り憑かれているか比類なき栄誉を求めているような人種ばかりだ。クルック・ルーパーという存在は、そんな彼らを満足させるに足る強敵である。
延々と有象無象を相手にしている暇はない。そうでなくとも、クルック・ルーパーが猛威を振るった三百年前とは異なり、五十階層の解放された迷宮が増えたおかげで強者は増えている。かつてのように、いくらでも斬り捨てて、村を、街を、国を、宗教を殺していくようにはいかないだろう。
だからこそ、彼はこの三百年間狙い続けた本命にだけ目標を定める。
「さて、そろそろいくかぁ」
愚痴のようなボヤキは終わりにして、ゆっくりと立ち上がる。
彼の傷はまるで癒えていない。セレナにえぐられた脇腹はまだ血が滲んでおり、ライラに浴びせられた雷撃により皮膚が所々炭化している。それに桜列島の侍達の太刀傷も合わされば、満身創痍一歩手前の状態だ。
セフィロトシステムに許された治癒機能を使えば傷は癒えるが、そんなことをするくらいならば桜列島の連中に倣って腹でも切ったほうがマシだった。
傷を治さないことに大した理由はない。なんていうことはなく、ただ彼の意地の問題だ。
準備は完了した。中途半端に癒したおかげでセレナはしばらく満足に動けないだろう。ライラ・トーハは言葉で堕とした。それに伴い、百層の化け猫はしばらくライラ・トーハにかかりきりになるだろう。
あの国に、この迷宮に彼の邪魔をする者はもういないのだ。
時間はあまり残っていない。
世界は終わる。間違いなく、十年もしないうちに世界は滅びる。世界が堕ちるまで時間は残っていない。世界の終わりだなんていうそんなどうでもいいことよりも、彼にはやらなければいけないことがあった。
彼は、ふと一人の少女の顔を思い浮かべる。
縦ロールを五本ぶら下げた珍妙奇天烈な魔法を使こなす少女を、ではない。その少女の影響を受けてへんてこりんな髪型をするようになった、元気が取り柄の少女だ。
セフィロトシステムの落とし子にして愛し子。迷宮を踏破する冒険者として、世界で最も強くあれと決められて存在する英雄の種。
その少女は憧れによって本来の魔法から逸れた想いを得て、小さい頃に接した彼の影響を受けて拳ではなく剣を握るようになった。
決められた運命を逸れていくその事実が小気味よくて、彼はほんの少しだけ目元を緩める。
あの少女は、泣いているだろうか。子供の頃にいじめ過ぎたせいか、意外に弱虫で泣き虫なところがあるのだ。
「俺の悪行もこれで最後だ。許せとは言わねえさ」
己が成してきた畜生な行いの全てを、彼は一切悔いていない。他の誰に責められようと貶されようと、己が間違っていたとしても、そんなことはどうでもいい。だから懺悔などしようと思わないし、罰せられたいとも願わない。
彼はどこまでも、彼のしたいようにするだけだ。
「俺のことは恨め。憎め。殺意を抱けよ。俺を殺したいと、そう思え」
それだけのことをしてきた。そうなるように三百年を積んできた。尊敬の念も親愛の情も、すべて斬り捨てたのだ。
彼が望むのはたった一つだけ。
「忘れてくれなきゃ、それでいいんだ」
たったそれだけのことが、どうしてこんなにも難しいことなのか。
ままならぬ世の中に口元をへの字に曲げて、クルック・ルーパーは最後になるだろう地上への道を歩き始めた。




