第九十五話 ライラ・トーハ
セレナが崩れ落ちた。
世界に名だたる武勇を誇った猛者が、伝説の悪党に凶刃にとうとう倒れ伏す。冒険者カードに、あるいは各地の迷宮から空へと映し出されたその光景を、人々は驚愕とともに見つめる。
それとはまったく別の感情で、ライラはセレナの敗北を信じられないという思いで見つめていた。
セレナの傷は深い。出血が自然と止まるような傷口ではない。すぐに助けなければならない。冒険者カードの機能で傷をふさがなくてはならない。そうでなくては、セレナは死んでしまう。
それでも、ライラは動けないでいた。
「嘘……」
信じられなかった。
セレナほどの強さを誇る人間が敗北したから、ではない。
「嘘、だ……」
ライラはうわごとのように繰り返す。
さっきの言葉がいまだに信じられない。トーハを忘れてしまったという事実が、トーハが死んだ衝撃をセレナが薄れさせてしまったという真実が、ライラの心を損なっている。
セレナは、忘れないと思っていた。
だって、セレナが忘れてしまったら、それは。
「嘘じゃねえんだ。なあ、ライラ・トーハ。わかっただろう。これが真実だ」
知りたくもなかった忘却を知って、死に体同然の隙だらけのライラにかけられたのは致命傷をもたらす刃ではなく、心を気遣うような声だった。
ライラはふっと、顔を上げる。
ライラは、まだ幼さを顔に残す少女だった。迷宮の底まで至った英雄だというのに、頼るべきよすがを失った彼女は、まるで迷子の子供のような顔だった。
「わかるぜ、お前の気持ち。これが世界だなんて知りたくもなかったかもしれねえけど、まぎれもない真実だ。人類は、どいつもこいつも忘れっぽいんだよ」
理解を示すにしては、あまりにも淡々とした声だ。だがそこには、確かな親近感が込められていた。
今の隙だらけのライラだったらあっさり斬り殺せただろうに、なぜかそうはしない。それどころかクルック・ルーパーは双刀を鞘に納める。さらには冒険者カードの治癒機能を、セレナに向かって発動させた。
光に包まれたセレナの傷が癒える。意識こそ戻らないが、後遺症も残らないだろう。冒険者カードの機能が使えないというわけではないようだ。だというのに、クルック・ルーパーは己の傷はそのままにしていた。
それに何の意味があるのか、ライラにはわからない。
「人類の罪が分かったんなら、戦うなんてやめようぜ。俺は、お前とは殺し合いたくなんてないんだ。俺たちは言葉が話せる。人間は言葉が話せる。人間が発達してきたのは、知性があったからだ。俺たちは、理解しあえる唯一の動物じゃねえか」
何をいまさら理性的なことを言っているのか。
人殺しが語るはずがない倫理を説かれ、茫然として意識を空白にしていたライラは混乱する。
「確かに言葉が話せたって、この世には絶対に分かり合えない奴らがいる。俺たちはこの知性と信念にかけて、決して理解しえない奴らは殺さなきゃならねえけどよぉ……俺たちは分かり合える。そうだろう?」
何をわかりあえるというのか。
「最初っから言ってるじゃねえか。お前は確かに英雄としては期待外れもいいところだが、それ以外の道ならこれ以上ない器だ。だから、俺が案内してやるよ」
無警戒に手を差し出してきたクルック・ルーパーをライラは鼻で笑おうとした。この狂人は、人を殺したのだ。あまりに多くの人を斬り殺してきたのだ。それを許せと。見逃せと。あまつさえ、伸ばされた手をとれと。ありえないだろう。こいつが害を及ぼしたのは、ライラが知らない他人ばかりではない。ライラの大切な仲間だったセレナまで……セレナまで。
トーハを忘れてしまった、セレナまで?
セレナだけではない。
いまこの世界で、どれだけトーハのことを思ってくれている人がいる?
「ついて来いよ、ライラ・トーハ。あの化け猫に会わせてやるよ」
「なんで……私は、あいつを殺すために……」
「いいや、違うね」
許せぬ怨敵の存在を提示され、ようやく絞り出した反論、力のないライラの言葉はあっさりと否定される。
「それは勘違いだ。いいや、これだと語弊があるな。なるほど、あいつを恨む気持ちはわかる。ああ、わかるぜ。大切な相棒を殺されたんだ。憎む気持ちが薄れるはずがねえっ。あいつへの殺意が薄れるはずもねえ! ああ、よくわかるぜ! でもなぁッ!」
声を徐々にあらぶらせて吠えたてる。
クルック・ルーパーの大仰ともいえる仕草に、びくりとライラの心が震えた。彼の言葉でさえも、ライラの心に突き刺さって傷つける。
「でも、それでも、たとえそうであっても、それ以上に許せねえ奴らがいる。この世界には、それ以上に罪深いクズどもがあふれている。わかるだろう? さっきのセレナを見て、わかっただろう。奴らは人の死を忘れちまうんだ。身近な人が殺されても、笑えるようになるんだ。この世界に生きている人類はみんなそうなんだよ。おかしいんだろ。俺がいくら殺しまわっても、奴らは平気な面で笑ってやがる。どいつもこいつも狂ってやがるんだよ」
一番頭が狂っているに違いない人間が、人類にとって正常な機能を罵って壊れた笑みを浮かべる。
「それが許せないのなら、管理者になれ、ライラ・トーハ」
「管理者……」
「ああ、そうだ。いま迷宮は百層の管理者が不在だ。化け猫が居座ってやがるが、あいつは番外だからな」
「……百層の魔王は?」
「それも知ってるのか。あいつは……魔王ルシファリリスは死んだよ。お前らが百層に行った時にはもういなかっただろう? ルシファリリスは三百年前に、あの化け猫が殺した。それ以来、百層と七十七階層は空座になったんだ」
ぽつりと漏らしたライラの知識を、クルック・ルーパーはもはや過去の情報だと一蹴する。
だが、なぜ自分がそんな提案をされているのか。管理者になる。その選択が何を意味するのか、ライラにすらわからないのだ。
「百層の管理者になって、どうなるっていうのよ……」
「お前の本当の望みがかなう」
筆舌にしがたい衝撃に、目を見開く。
ライラの本当の望み。それはあの化け猫を殺すこと、ではない。あの化け猫を殺すというのはただの復讐であり、それ以上でもそれ以下でもないのだ。
ライラのすべては、一人だけのためにある。その一人が死んでも、ライラは彼一人のために生きてきたのだ。
トーハ。
自分の相棒のためだけに、ライラはこの世界で生き続けた。
「逆を言えば、百層の管理者になりさえすれば、化け猫はお前の望みをかなえてくれるだろうよ」
「本当に、本当に!?」
「完全にかなうとは言わねえ。ただ、少なくともいまのお前よりかは近くなる」
声を荒げたライラに、クルック・ルーパーはそう告げる。
一瞬だけ、ライラは床に倒れているセレナを見た。
かつての仲間。倒れている、友人。それだけではない。ライラが運営しているクラン、いままで語らってきた友人知人。ライラが地上に残しているものは、あまりにも多い。
そのすべてを見透かして、しかしクルック・ルーパーはライラの躊躇をあざ笑う。
「そんなもの、全部捨てちまえよ。わかってるだろう? 全員忘れちまうんだ。お前がいま必死に維持しているクラン『雷討』だって、生きていたトーハを忘れて捨てちまうんだ。そんな裏切り者なんて、こっちから捨てちまおうぜ」
そうだ。
違和感が消し去られ心に直接響く声に、ライラの感情が呼応する。
だって、あのセレナですらトーハを忘れてしまったのだ。それが、他の人間だったのならば、なおさらだろう。
ライラは、いままでトーハのことを忘れまいと、トーハの偉業をこの世界に残そうと頑張ってきたのに。なのに、みんな忘れてしまうのだ。一人残らず、トーハの記憶を摩耗させて時間の中に埋没させてしまうのだ。
「いい子ちゃんの面を、いつまでかぶってるんだ? そんな仮面をかぶっていたって、この世の奴らはお前の望みをかなえてくれねえ。だが、断言してやる。百層の化け猫は、今のお前の望みを必ずかなえてくれるだろうよ。だからお前がなれ。百層の門番に」
ライラの黒瞳から、迷いが消えた。
迷いが決意。恨みが切望に。高貴の雷光が、暗雲の稲光に。
ライラはふらりと一歩、道を踏み外す。
「……ごめんね」
ぽつりと、小さく小さくつぶやいたのはどこに向けたのか。世界にか、己のクランにか、足元に倒れるセレナにか、あるいはもういない、自分の相棒にか。それは知れない。少なくとも、今この場を世界に流す映像を食い入るように見つめている、五本の髪を巻いた見栄っ張りの少女へというわけでないことだけは確かだった。
謝罪を決別に変え、ライラ・トーハは王道を去る。世界人類が映像としてその場面を見つめる中で、英雄は世界を裏切る。
「案内しなさい、クルック・ルーパー」
「おおよ、歓迎するぜ、ライラ・トーハ」
英雄ライラ・トーハは、まぎれもない己の意思で大悪党クルック・ルーパーの手をとった。