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『拝啓
お元気ですか?
今朝、自宅の庇にツバメが飛んできました。もうすぐ、千鳥が淵の桜も満開になりそうです。
四月から、都内のアニメーションスタジオに就職することが決まりました。小さな会社だけど、好きな絵の仕事ができるので満足しています。
東京の夜空はとても明るくて、オリオン座のペテルギウスとリゲル、おおいぬ座のシリウスがなんとか見えるくらいです。人ばっかり多くて、海もないし、最初はこの街が嫌いでした。
でも、毎日通う学校や、気兼ねのいらない友達や、おしゃべりに夢中になれるカフェや、ひとりでゆっくりと本が読める公園のベンチや、そんなものたちに囲まれているうちに、私はこの街が好きになってきましした。だから私はここで、星を見ること、夢を追うことを続けたいと思います。
ニューヨークの夜空は、とても明るいのでしょうね。でも、綾乃さんはその中でもきっと、誰よりも輝いているんだろうなって思います。私も、負けないように頑張りたいです……』
詩織からの手紙を読み終えた綾乃は、丁寧に折りたたむと便箋を封筒に戻した。親友でありライバルでもある彼女は、電子メールではなく手紙で、ときどき近況を知らせてくれる。手紙には、折々の美しいイラストが添えられていて、こうしてときどき読み返す楽しみがあった。
綾乃は、軽くため息をつく。
今日提出した記事にも、ジョセフは首を縦に振らなかった。どこが悪いのか問いただした綾乃に、彼は一言だけ告げた。
「君は、ニューヨークのなにを知っているんだい?」
結局、綾乃の最初の課題は、合格点をもらえないままで終わった。およそ、学校といわれるところや、試験といわれるもので、落第点や不合格となったのは、これがはじめてのことだった。
けれど、そのこと自体は、それほどショックではなかった。悪いところは直せばいいのだし、足りないところは補えばいいのだ。むしろ、どこがいけなかったのかがはっきりしないことの方が、綾乃にとっては重大な問題だった。
そして、綾乃は思う。
詩織や美穂のような生き方は、たぶん自分にはできないだろう。失敗しても成功するまで続けるだけだし、転んでも起き上がって前に向って走り続けるだけだ。
研究室を後にした綾乃は、レディスルームに入って鏡を見た。
またすこし髪が伸びて、ネイビーのブレザーの肩にかかっている。その前髪で、小さなシルバーの星が付いたヘアピンがきらりと光る。この前の誕生日に、幼馴染から届いたプレゼントだ。アイツとは小学校からずっといっしょだったのに、誕生日にプレゼントを貰ったのは初めてだった。正直、贈り主のセンスをうたがうような一品だったが、綾乃はその日からずっと髪に付けていた。
「よしっ」
鏡の中の自分に言い聞かせるように、綾乃は大きな声を出した。
あの課題の答えは、すぐに見つけてみせる。そして、ジョセフを見返してやるんだ。あたしを本気にさせたことを、彼はすぐに後悔することになるだろう。
綾乃は、キャンパスの中にある学生向けの美容室に入ると、髪をショートボブにカットした。ヘアピンは、シルバーのチェーンを通してネックレスにした。
髪を揺らす風に、花の香りがまじっている。桜の花びらが一片舞ってきて、白いレースのサーキュラースカートの裾をかすめていった。
もう、ブレザーは要らない季節だ。
綾乃は、ブレザーを脱いで、デイパックに仕舞った。
通学用のマウンテンバイクを押して、キャンパスからモーニングサイド・ドライブに出る。緑が濃くなったモーニングサイド・パークの彼方に、スカイスクレイパー群が霞んで見えている。
ニューヨークはアメリカの一部でしかないし、これから向かっていく世界から見たら、ほんの一角にすぎないのだろう。世界の広さや多様さを、あたしはまだまだ知らない。学ぶべきことはたくさんあるけれど、まずはこの街のことを、この街で暮らす人たちのことを知ることからはじめよう。
綾乃は、ディパックを背負うと、モーニングサイド・ドライブの長い下り坂の向こうに煙るダウンタウンに向けて、マウンテンバイクを漕ぎ出した。
今日もあの店に行って、あの人に会おう。そして、今度いっしょに星を見ようと誘おう。あの場所は、あの人は、あたしにニューヨークのことを教えてくれるにちがいない。
それに……。
綾乃は、青空から降り注ぐ陽光に、大きな瞳を煌かせる。
『Star's Diner』なんて、あたしにぴったりの名前だわ。