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 記事の修正は、難航を極めた。

 どんなにデータや資料を追加しても、分析のアプローチを変えても、ジョセフは首を縦には振らなかった。ヒントになるかと思って、彼の故郷であるユーゴスラヴィアについても、インターネットや図書館の資料で調べ上げた。おそらく戦争難民だったはずの彼が、このアメリカで一応の成功を収めたのは、ひとえに彼自身の努力によるものだろう。だが、その経歴があの記事を否定することにどうつながるのか、その疑問は解けなかった。

 別の講師から同じ課題を与えられていたアンジェラは、綾乃の書いた記事より明らかに手抜きをしたもので合格していた。

「アタマの固い講師ね。ハズレを引いちゃったね。それよりさ、気分転換に出かけない?」

 完全に行き詰っていた綾乃を、アンジェラはユニオン・スクエアに連れ出した。

 春の日差しがあふれるユニオン・スクエアは、観光客やニューヨーカーで賑わっていた。近郊の農家が農産物を持ち寄る、スクエア名物のグリーン・マーケットは開かれていなかったが、大きな傘を広げたようなユニオン・スクエア駅のある歩行者天国は、パフォーマンスを披露する若者や、のんびりとチェスに興じる老人や、ショッピングバッグを抱えた女性グループやらが渾然一体となった坩堝のような熱を発していた。

 綾乃とアンジェラは、バーンズ&ノーブルで本を拾い読みし、ホールフーズマーケットのイートインコーナーでスクエアを見下ろしながらランチをとり、フォーエバー21やセフォラで服や化粧品を物色した。

 ボーイフレンドと待ち合わせているというアンジェラと別れたあと、綾乃はそのまま帰宅することにした。たくさん歩いて気分も切り替えられたし、明日は最初に切られた課題の提出期限だ。とにもかくにも、記事の最終稿を仕上げなければならない。

 メトロの駅に足を向けたところで、綾乃は体調の異変に気づいた。まだその日ではなかったから、完全に油断していた。非常用の持ち合わせはもちろんあるが、ここはニューヨークだ。日本の都市のように、気軽に使えてしかも安全な公衆トイレなどない。

 近くの飲食店で、トイレを借りるしかないだろう。そう思ったとき、雑居ビルの一階に地味な店を構えたダイナーが目に留まった。

『Star's Diner』と書かれたドアを開けて店に入ると、「ハロー」という女性の声が迎えてくれた。店は空いていて、窓際の席に着くとすぐに、長い黒髪を首の後ろでひとつに束ねた女性店員がオーダーを取りにきた。お世辞にも綺麗とはいえない店内で、店の雰囲気どおりすこしくたびれたエプロンをしているにもかかわらず、小柄で細身のその女性の身だしなみと立ち居振る舞いには、どこか洗練された落ち着きがあった。

 差し出された熱いおしぼりを受け取りながら、綾乃は壁に掲げられたメニューに目を走らせる。女性店員が、一瞬だけ意外そうな表情を見せた。

「スペシャルを、コーラで」

 とりあえず、いちばん上に書いてあったメニューを告げる。気が急いていたためか、つい日本語でオーダーしてしまった。

 店員の女性は、上品な薄化粧を施した顔に、困惑したような表情を浮かべた。

 慌てて英語で繰り返した綾乃に、店員は笑顔を返した。

「やっぱり日本人だ。めずらしいわ、あなたみたいな女の子が、この店に入ってくるなんて。でも、スペシャルは、おやつにするには量が多いわよ」

 それが、谷口美穂との出会いだった。

 午後の中途半端な時刻にスペシャルを注文した事情を説明すると、美穂は「ほんとうはダメなんだけどね」と言って、オーダーを通さないままで鍵を開けてトイレを使わせてくれた。いままでニューヨークの下町で使った店のトイレの中では、いちばん清潔で隅々まで掃除が行き届いていた。

 トイレを借りられたからもうここに用はないのだが、日本人の女性がこんな店で働いていることに興味があったし、小腹が空いていたこともあって、綾乃はオーダーしたスペシャルを食べていくことにした。

「美穂さん、あたしのこと『やっぱり日本人』って、言っていましたよね。どうしてですか」

「こっちの人は、おしぼりを出したら最初は戸惑うからね。疑問も持たずに受け取ったから、日本人なんだろうなって思ったの」

 美穂は気さくな人柄で、会話がはずんだ。綾乃は、科学ジャーナリストを目指していることや、コロンビア大学で天体物理学を学ぶかたわらでジャーナリズム・スクールにも所属していることなどを、問われるままに話した。

「綾乃ちゃん、留学生なんだ。なつかしいなぁ。私も昔はF-1ビザだったのよ。今は、H-2Aだけどね」

 美穂の笑顔に、影が差したように見えた。そして、綾乃のブレザーに目を留めた彼女はわずかに目を細めた。

「そのブレザーって、もしかして高校の制服?」

 綾乃は、ニューヨークに来てからも、母校の制服であるブレザーを着続けていた。アンジェラには笑われたが、それをやめるつもりはなかった。

「はい。これを着ると、勇気がもらえるんです」

「卵の殻をくっつけた雛みたい。かわいいわね。でも、きっと素敵な高校生活だったのね。それで、ニューヨークはどう?」

「よくわかりません。もともとそんなに好きな街でもないし、勉強のためにここにいるだけですから。美穂さんは、どうしてこんなところで働いて……、あ、ごめんなさい」

 柔らかな美穂の雰囲気に甘えて、ずいぶん失礼なことを尋ねてしまったような気がして、綾乃は謝った。しかし、美穂は気分を害した様子もなく、すこしだけ遠い目をして答えた。

「私、少し前まで、五番街の銀行で働いていたのよ。故郷の田舎町じゃない、世界の中心ニューヨークで自活することが夢だったの。憧れていた五番街で仕事をして、アメリカ人の恋人もできて。摩天楼からこの街を見下ろしながら、自分は何万人にひとりの特別な存在になれたと思った。でも、それはただの思い違いだった。ここにいることを、目標にすべきじゃなかったのかもね」

 今は、時給三ドル弱のこの仕事しかないので、毎日暮らしていくこともたいへんだと、美穂は薄く笑った。

 綾乃は、美穂の言葉に素朴な疑問を抱く。そうまでして、どうしてニューヨークに居続けようとするのだろう。

「どうして、ここに残っているんですか? 具体的で実現可能な目標もないのに、なぜそんなに頑張れるんですか?」

 そうね、とつぶやいて、美穂は窓の向こうに見えるビル街に目を向けた。なにかを仰ぎ見るのでも、なにかを見下すのでもない、柔らかな眼差しだった。

「仕事も恋も無くして、意地だけでやってきたの。でも、今になってようやく気付いたわ。どこにいたって、私は私なんだって。だから、そこでなにをするか、どう生きるか。それこそ、私が目指すべきことだったんじゃないかって。それに、結局私はこの街が、ニューヨークが好きなんだなってね」

 そう言って目を細めた美穂の横顔は、綾乃が今まで出合ったことのないもののように思えた。

 綾乃は、バッグから愛用しているオリンパスのデジタル一眼レフカメラを取り出す。

「美穂さん、写真を撮らせてもらっていいですか?」

「いいわよ。でも……」

 美穂は、髪を括っていたサテンの青いリボン解くと、肩に流れ落ちた髪を整えた。

「綺麗に撮ってよね」


 *


超巨星ジャイアントスター


 通常の恒星よりも、極端に大きくて明るい恒星のことをいう。

 みかけの色によって、赤色超巨星、黄色超巨星、青色超巨星、白色超巨星があり、それぞれ、さそり座のアンタレス、こぐま座のアルファ星(北極星)、オリオン座のリゲル、そしてはくちょう座のデネブが代表的な星である。

 なかでもデネブは、質量が太陽の二十倍、半径は二百倍、明るさは六万五千倍もあり、夏の大三角を成すヴェガやアルタイルと比較しても、圧倒的に大きく明るい白色超巨星である。デネブは、恒星としては最高クラスの明るさを持っていて、半径三万光年の範囲にわたって肉眼で見ることができると言われている。放射するエネルギー量も桁違いであり、デネブの一日分は、太陽の百四十年分に相当する。それでも、デネブが恒星としての寿命を迎えるのは数千万年かかると予測されている。

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