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ヘリコプターの窓からマンハッタンの夜景を見下ろしたとき、綾乃の脳裏をよぎったのはホルストの『木星』だった。
高校一年の音楽の授業でその曲を聴いたとき、中間あたりで派手で急速な音楽が一転して重厚な三拍子のメロディを奏でると、教室の空気が変わったことを思い出す。隣の席の女子が「なんだ、綾香のジュピターじゃん」とつぶやいた。
その子の言葉がなくても、綾乃はそのパートを聴いてがっかりしていた。たしかに、美しいメロディではある。けれど、冒頭からの煌くようなドライブ感が、そこで一気にしぼんでしまうように感じられた。ロックコンサートの中盤で、いきなり演歌を聞かされたような、そんな感覚だ。アンダンテ・マエストーソ、このパートはいらないわ、そう思った。
「ヘリコプターに乗るのは、はじめてかい?」
すぐ耳元でした男の野太い怒鳴り声で、過去に飛んでいた意識が一気に現実に引き戻される。
眼下にはイーストリバーの黒い流れが横たわり、左手には鮮やかな光をまとった摩天楼群が、文字通り天空にその不遜な頂を突きたてている。
こうして空からマンハッタンの夜景を眺めるのは、それだけで観光客から高い料金をとれるほどに貴重なことだろう。けれど……。
通話用のヘッドセットを外すと、ローターとエンジンの爆音が押し寄せる。綾乃は、深く息を吸い込んでから、めいっぱい大きな声で答えた。
「はいっ。しかも、CNNの取材に同行させてもらえるなんて、嬉しいです」
その言葉とはうらはらに、いまの綾乃にとってこの夜景は、たいして価値のあるものではなかった。目下のところ、彼女にとってのいちばんの悩みの種になっているのが、隣の座席で縁なしメガネの奥から厳しい視線を向けてくる男、ジョセフだったからだ。
綾乃が、ジャーナリストを目指してニューヨークに来てから、一年余りが過ぎていた。コロンビア大学本科での専攻は天体物理学だが、今年の四月からはジャーナリズム・スクールへの入学も認められていた。そこまでは、順風満帆といえる留学生活だった。
待望のスクールで綾乃の担当になった講師は、短い金髪をポマードできちんと固めた、四十過ぎの紳士然とした男だった。
「私は、ジョセフ・クロンカイトだ。CNNの記者と解説委員をやっている」
短い自己紹介のあと、ジョセフは綾乃が提出した履歴書を読み上げながら、いくつかの質問をしてきた。ジャーナリストになる動機やこのスクールを選んだ理由など、質問は多岐にわたった。そうしてオリエンテーションを終えると、ジョセフは縁なしのメガネを光らせながら言った。
「では、君への最初の課題だ。『マンハッタンの外国人』というテーマで、記事を書いてきなさい」
そして、報道関係者と同じ扱いを受けることができるパスと、一週間の時間が与えられた。
ジャーナリズム・スクールがいわゆるスパルタ式実践教育主義であることは知っていたが、いきなり記事を書いてこいと言われても、日本の普通課高校卒業というキャリアしかない綾乃は途方に暮れた。
そんな綾乃に助け舟を出してくれたのは、同じ家にホームステイしているアンジェラだった。ハワイ出身の日系人である彼女は、記者として働いていたホノルルの新聞社を退職してから、自費でジャーナリズム・スクールに留学してきたのだ。
「まずは取材に行く」という綾乃を、アンジェラは「そんな回りくどい方法はもう古い」と一蹴した。そして彼女はノートパソコンをインターネットに繋げると、キーワードを検索して情報と資料をかき集めた。
「今はこれが主流よ。足で記事を探したって、たいしたネタは拾えないわよ」
綾乃は、アンジェラから教わった方法で、課題の記事を仕上げた。思ったよりも、よいものに仕上がった自信があった。しかし、記事に目を通したジョセフは首を横に振った。
「たった二日でこれを仕上げてきたスピードは、評価しよう。データもよく分析できているし、着眼点も悪くない。だが、こんな内容では、とても合格点は出せないね」
それは、綾乃の予想を上回る手厳しい評価だった。だが、当然といえば当然のことだった。最初から完璧な記事が書けるのなら、ここで学ぶことなどないのだ。
綾乃は、素直に教えを請うことにした。
「どこがいけないのか、教えてください」
「これが大学に提出するための論文だというのなら、じゅうぶんに合格だろう。だが、私が君に与えた課題は記事を書くことだ」
「言っていることの意味が、わかりません。具体的に指摘していただけませんか」
ジョセフはひとつ咳払いをして、原稿を指で弾いた。ぱん、という軽い音がした。
「君は、このデータや資料を見て、どう思った?」
そこには、ニューヨークに関するネガティブなデータが満ちていた。あふれる失業者、広がるばかりの格差、無くならない犯罪。
「結局は、成功するか失敗するか、勝つか負けるか、そういうことなんですよね。これが、このニューヨークという街のありかたなんだな、と思いました」
「疑問は抱かなかったのかね」
「はい。だってこれは、統計という技術によってデータという形に姿を変えた現実でしょう。いまさら、疑問を差し挟む余地などないと思いますが」
「君は、たしかに優秀な生徒だ。その若さで、このスクールに入学が許可された理由も納得できたよ。けれど、ジャーナリストを目指す者としていちばん大事なことを、君はまだ身につけていないようだ」
ジョセフはふっと息を吐いて、原稿を綾乃に突き返した。メガネが光を反射して、その表情が読み取りにくくなった。
「私がいいと言うまで、この記事を修正しなさい」
そしてジョセフは、携帯電話でどこかに連絡すると、午後六時にダウンタウン・マンハッタン・ヘリポートに来るようにと告げた。
ヘリコプターは、セントラルパークの上を飛行してマンハッタン島を横断し、ハドソン川上空で進路を南に変えた。
宝石箱のような摩天楼の夜景も、タイムズスクエアや五番街を行き交う車のテールライトも、綾乃にはブレイクスルーのための材料にしか見えなかった。このフライトから何を得て、それをどう記事に活かせば、ジョセフは満足するのか。そのことしか、考えられなかった。
そもそも、いまこうしてニューヨークにいるのも、ジャーナリストになるための最短経路がそこにあったからだ。綾乃にとってこの街は、世界の中心でも夢の舞台でもなく、たんなる通過点にすぎなかった。
ハドソン川沿いに南下したヘリコプターは、グランド・ゼロの上空に差し掛かった。沖合には、自由の女神像が白いライトに照らし出されている。
「ここがどういう場所かは知っているね」
ジョセフが、太い声で尋ねてきた。
ニューヨークで同時多発テロ事件が起きたのは、綾乃がまだ小学校に入学する前のことだった。だから、リアルな事件としての記憶はない。けれど、概要くらいは社会科目の知識、あるいは現代社会の常識として知っている。
「WTCの跡地ですね。グランド・ゼロと呼ばれている。テロと報復という、忌まわしい負の連鎖の出発点です」
綾乃の答えに、ジョセフの表情が曇った。
「私はあのとき、まだ駆け出しの記者だった。だが、志願兵としてアフガニスタンに行こうかと思ったよ。この街を滅茶苦茶にしたヤツらは許せなかったからね。けれど、それは実行しなかった。ジャーナリストとしてしか、できないことがあると気づいたからね」
やっとその話になったか、と綾乃は思った。あたしにそれを教えることが、このフライトに同行させた目的のはずだ。
綾乃は、ジョセフの顔を正面から見据えた。
「それは、なんですか?」
ジョセフのメガネが、操縦席の計器の照明を反射して、またその眼差しを隠した。彼の目尻に深い皺が刻まれ、その口が重々しく開かれた。
「私の祖国はね、かつてユーゴスラヴィアと呼ばれていたんだ」
疑問に答えてくれる言葉を期待していた綾乃は、はぐらかされたような気がした。そして、この人物から教えを受けることに疑問を抱いた。
現役のジャーナリストだから、実践的なノウハウやスキルを効率よく学べると思っていたのに。
綾乃は、遠ざかるグランド・ゼロを見下ろしながら、そっとため息を落とした。
*
シグナス(Cygnas)
はくちょう座。
夏の夜空を代表する星座で、天の川に浮かぶように見える十字は、南天にある南十字星と並んで、北十字星とも呼ばれる。いちばん目立つ星は、アラビア語で「尾」を意味する「デネブ」。
デネブは、わし座のアルタイル、こと座のヴェガとともに、「夏の大三角」を成す星でもある。
ギリシア神話では、大神ゼウスが変身した白鳥であるとされる。また古代中国では、織姫と彦星が天の川を渡るための橋を架けるカササギであるとされている。